帰り道

瀬戸川清華

帰り道

 あの日から、ずっと家のことばかり考えている。

 妻の笑い声、息子の小さな手、みんなで食卓を囲み笑い合う日々。


 それだけを思い出していれば、銃声の響くこの場所でも、少しだけ息ができる気がした。


 戦争が始まったとき、誰もが「すぐに終わる」と思っていた。


 けれど、季節がいくつも過ぎ、仲間の顔が一人、また一人と消えていくうちに、俺はただ一つの願いしか持たなくなった。


 ――生きて帰る。それだけだ。


 夜、俺は家族だけを考えて空を見上げる。

 星は見えない。煙と灰が空を覆っている。

 それでも、あの雲の向こうに、家があると信じていた。


 息子の誕生日には、きっと妻が美味しい手料理を振る舞っているだろう。

 俺の帰りを待ちながら。


 翌朝、前線への突撃命令が下った。

 誰も言葉を発しなかった。発しようともしなかった。

 俺はポケットの中の写真を握りしめた。

 三人で写った小さな写真。笑っている俺の顔が、今では別人のように見える。

 銃声がなり響き、土が跳ね、仲間の叫びが遠くで聞こえた気がした。


 俺はただ前へ進んだ。


 帰るために。


 家に帰るために。


 胸に熱い痛みが走ったのは、ほんの一瞬だった。

 倒れた地面の冷たさが、やけに心地よかった。

 空を見上げると、土埃と灰の隙間から、かすかに光が差していた。

 その光の中に、妻と息子の姿が見えた気がした。


「もうすぐ帰るよ」


 そう呟いた声は、風に溶けて消えた。

 そして、静けさの中で思った。

 たとえこの身体が帰れなくても、心はきっと、あの家にたどり着くだろう。

 あたたかい食卓のそばで、二人の笑顔を見守りながら。

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帰り道 瀬戸川清華 @Setogawaseika

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