思い出してはいけない記憶
CHIDORI
思い出してはいけない記憶
デジャブ(déjà vu)とは、初めての経験のはずなのに、「以前にも体験した」と錯覚してしまう現象だ。
日本語では既視感と呼ばれる。
ただの「知っている気がする」という曖昧な感覚ではない。
確かに見た覚えがあるのに、いつ、どこでのことか思い出せない。
その“思い出せなさ”が、胸の奥にざらりとした不安を残す。
脳の誤作動だと言われている。
——けれど。
もしその既視感が、忘れたのではなく、封じ込めた記憶だったとしたら。
思い出さない方がいいことも、この世界にはある。
小さい頃の夏休み。
冷房の効いた部屋で、昼間のワイドショーが流れていた。
視聴者投稿の、怖い話。
部屋にはわたしひとり。
テレビの光が白く反射し、空気がどこか乾いていた。
ふと気づく。
外の音が、ない。
蝉の声も、車の音も、風の気配すらも。
聞こえるのは、テレビから流れる女性の悲鳴だけ。
その声が、妙に近く感じられた。
胸の奥がひやりとする。
部屋が異様に明るく、真っ白に感じられた。
その瞬間、鼻の奥に微かに蘇る匂いがあった。
冷房の風とは違う、どこか湿り気を帯びた、説明のつかない匂い。
嗅いだことがあるはずなのに、思い出したくない。
胸の奥がざわりと波立つ。
——知っている。
——真っ白で明るい場所。
——女性の悲鳴。
——あの匂い。
どこで嗅いだのか、考えたくなかった。
漫画を読んでいたときのこと。
特殊清掃の漫画。
あるページで、手が止まった。
乾いた皮膚が擦れるような描写。
ページの中の音が、妙に耳に残った。
その瞬間、脳裏に映像が流れ込んだ。
——コンクリートブロック
——湿った土
——青々とした若葉
——そこに置かれた、何かの一部
そして、手のひらに蘇る感触。
——黒髪
——根元に、頭皮めいたざらつき
指先に触れた瞬間、
かさかさと乾いた感触が広がり、
ぼろっと崩れた。
そのとき、鼻の奥にふっとまとわりつく匂いがあった。
土でも鉄でもない。
ただ、胸の奥がひゅっと縮む。
皮膚の内側がざわつく。
“知っているはずのない匂い”なのに、身体だけが覚えている。
思い出したくない種類のものだと、直感でわかった。
祖母の話。
祖母は大正七年生まれだった。
戦時中のことをよく話してくれた。
長女が生まれたばかりの頃、防空壕に入れてもらえず、別の壕に逃げ込んだこと。
子を抱きしめ、息を潜め、泣いたこと。
その話を聞くたびに、胸の奥に浮かぶ情景がある。
——真っ暗な場所
——湿った土の匂い
——遠くで響くサイレン
——「静かにして」という震える声
——わたしの顔を覆う手の、ざらりとした感触
祖母の記憶のはずなのに、
その手の温度まで、妙に鮮明に思い出せる。
土手遊び。
友達とよく走り回った。
転がり落ちたとき、草と土の匂いが鼻に広がる。
違う。
その奥に、別の匂いが混じった。
言葉にできないのに、身体が先に反応する匂い。
胸の奥がきゅっと縮む。
耳の奥で、ぱちぱちと何かが弾けるような音が蘇る。
——いやだった。
ひとの記憶は曖昧だ。
けれど、曖昧だからこそ、混ざってはいけないものが混ざることもある。
においも、音も、手の感触も、鮮明に蘇ることがある。
それがいつの記憶なのか、わたしにはわからない。
自分のものなのか、誰かのものなのか。
もっと昔——どれほど昔なのかも、もう判別できない。
ただ、身体の奥だけが知っている。
あの匂いも、あの音も、あの感触も。
まるで、わたしが生まれる前から、ずっとそこにあったように。
触れようとすると、指先からすり抜けていく。
けれど、逃げるほどに輪郭が濃くなり、胸の奥がひゅっと縮む。
——これは、思い出してはいけない記憶だ。
思い出してはいけない記憶 CHIDORI @chidoriro
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