第2話:追憶の残滓

 王都の朝は、カイルにとって静かな試練の時間だった。  路地裏の古びた修理屋の軒先を掃いていると、通りがかる大人たちは露骨に顔を背け、聞こえるように舌打ちをする。


「見てな、あれが『逃げ腰のカイル』だ。英雄様を見捨てて、自分だけ泥をすすって帰ってきた……」 「情けない。私の息子もあの部隊にいたんだ。なぜ、あの子ではなく、あんな臆病者が生きているんだい」


 投げつけられる言葉は、刃物よりも鋭くカイルの心を削る。だが、カイルは悲しげに目を伏せるだけで、決して言い返そうとはしなかった。  彼が守りたいのは、自分自身の名誉ではない。真実を知れば絶望に狂うであろう、この人たちの「平穏」だった。


(……怒らなくていい。この人たちは、ただ悲しいだけなんだ)


 カイルは自分に言い聞かせ、掃き清めた地面を見つめた。  その時、ふと視界に入ったのは、かつてアルヴィスから貰った古い剣帯の端だった。それを目にした瞬間、意識は三年前の「あの戦い」の前夜へと引き戻される。


 戦場の夜は冷えた。  篝火のそばで、アルヴィスはいつものように白銀の甲冑を脱ぎ、黄金の髪を夜風に遊ばせていた。その彫刻のような横顔は、焚き火の光に照らされ、神々しいほどに美しかった。


「カイル、この大陸をどう思う?」


 アルヴィスは遠い空を見つめたまま、不意に問いかけた。


「どう、とは……。戦ばかりで、苦しんでいる人が多いと思います」


 カイルが答えると、アルヴィスは悲しげに微笑んだ。その微笑みは、今でもカイルの脳裏に焼き付いている。


「五つの小国が己の利益のために陰謀を巡らせ、教会はその争いを影で煽り、神の名の元に寄進を募る。……カイル、私はね、この美しい世界を汚す『不純物』を取り除きたいのだ」


 その時、カイルはアルヴィスの言葉を「平和を願う崇高な意志」だと信じて疑わなかった。  だが、あの日、崖の上で見た光景は違った。アルヴィスは、イヴの魔薬強化兵たちが味方の精鋭部隊を食い破るのを、この世で最も美しい音楽でも聴くかのような恍惚とした表情で眺めていたのだ。


(なぜだ、アルヴィス様……。あんたは本気で、あの『魔薬』が世界を浄化すると信じたのか?)


 カイルは黒い刀の柄にそっと手を触れた。  大国イヴの薬物は、人を不死身の化け物に変えるが、同時にその精神をも腐らせる。あの高潔だったアルヴィスが、単なる権力欲や利己的な理由で裏切ったとは、どうしても思えなかった。


 貴族たちの陰謀に絶望したのか。  教会の暗躍に、先んじて手を打とうとしたのか。  それとも、あの美しすぎる頭脳は、もっと別の「地獄」を見据えているのか。


「……考えても、今は答えは出ないか」


 カイルは静かに息を吐き、店の中へと戻った。  作業台の上には、バラバラに分解された教会の燭台。修理の依頼だが、その底には密かに、教会の高位職と大国イヴの連絡用と思われる暗号が刻まれていた。


 この国は、カイルが沈黙して守ろうとしている以上に、内側から腐りきっている。


 その時、王都の大通りがにわかに騒がしくなった。  ファンファーレの音が響き、教会の鐘が狂ったように鳴り響く。


「帰ってきた! アルヴィス様だ!」 「イヴの特使として、我らが英雄が帰還されたぞ!」


 民衆の歓声が、カイルのいる路地裏にまで届いてくる。  カイルの瞳に、静かな、しかし決して消えることのない「黒い炎」が灯った。


「ようやく……会えますね、アルヴィス様」


カイルは壁に立てかけた黒い刀を手に取った。  

臆病者の汚名を着たまま、彼は独り、光り輝く地獄へと歩き出す。

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