第7話 ネイビーブルーに沈んで
文化祭が終わった翌週から、教室は受験に向けてヒリついた空気になっていった。
夏芽も同じように受験勉強に励むが、高山のことがよぎり集中しきれずにいた。
昼休みになり、夏芽は社会科準備室に向かう。
高山に会いたくて、でも会いたくなくて。
そんな相反する感情を持て余しながら、準備室の扉を開く。
そこにはすでに高山がいた。
「文化祭、お疲れ様」
「先生も、お疲れさま……です」
どこかぎこちない言葉に高山は心配の声を上げる。
「どうした?具合悪い?」
「あ!?いや!……大丈夫です!」
「なら、いいけど」
高山はコーヒーを一口飲むと、夏芽に微笑みを向ける。
「絵、見たよ。すごく綺麗だった」
「見た、んですか」
「ああ、素晴らしかった」
その言葉に夏芽は嬉しいような、照れくさいような、そんな思いが混じり顔を赤くする。
「進路、本当に美大じゃなくていいのか?」
高山の言葉に夏芽は顔を俯かせる。
「進路を変更するには、遅すぎませんか」
「……そう、だけど」
高山は夏芽の才能を惜しく思う。
ふさわしい場所で勉強をすれば、その才能をさらに伸ばせただろう。
「先生が認めてくれただけで、十分です」
「いや、やっぱり惜しい。試しに一度受けてみないか?」
「え?」
「ご家族には僕から説得する」
「なんで、そこまで」
「鈴山の絵に救われたんだ、2回も」
高山の言葉に夏芽は目を見開く。
「鈴山の絵は、人に力を与えるよ。僕が保証する」
二日後、高山は鈴山の家を訪れていた。
安いアパートに母と二人暮らし。
その言葉だけで二人の苦労が垣間見えるようだった。
高山はスーツを正して呼び鈴を鳴らす。
存外明るい声が聞こえてきて、高山の緊張していた肩からわずかに力が抜ける。
「あ、先生。ようこそ」
鈴山の母親は、夏芽とは対照的に活発な女性に見えた。
部屋の奥から夏芽が顔を出し、遠慮しがちに手を振っている。
「狭い家ですけど、どうぞ」
玄関を全開にし、入室を促される。
高山は笑みを張り付けると、鈴山宅に上がり込んだ。
「高山先生は夏芽の担任の先生じゃないですよね。そんな方が気をかけてくださるなんて、ありがたいです」
「鈴山君はとても良い生徒ですよ。授業態度も良好ですし、何より集中力が素晴らしい」
「今まで夏芽を褒める先生はなかなかいなかったので、なんだかこっちが照れますね」
「それで、本題なんですが」
高山は朗らかな笑みを消して、真剣な顔になる。
「鈴山君の絵の才能は本物です。美大に進学することも視野に入れていただけないでしょうか」
「美大、ですか」
「はい、もっと才能を伸ばす場所に行けば、鈴山君の才能は花開くと思います。文化祭でも彼の描いた絵に皆足を止めていました」
母親は先ほどの態度とは打って変わり、慎重な面持ちになる。
「……この子が絵が好きなのは知っています。でも、うちは母子家庭で美大に行くような資金がないことも理解してもらいたいです」
「奨学金の方は……」
「もちろん申請するつもりです。それでも、今の志望校の学費をギリギリ賄える程度なんです」
「そう、ですか」
「すみません、せっかく来ていただいたのに」
ずっと黙っていた夏芽が口を開く。
「母さん、俺、美大に行ってみたい」
「夏芽……」
「家計が苦しいのも分かってる、絵で食べていける人がほんの一握りなのも知ってる……だけど、自分の好きなことをちゃんと学んでみたいんだ、学費が足りないなら、バイトして渡すよ。だから」
「……お母様、僕からもお願いします。息子さんは、本物です」
「…………ずっと、色々と我慢させてきたもんね。ただ、条件があります。受験は一度きり、元の志望校もちゃんと試験を受ける。これが条件です」
その声に夏芽の表情が晴れる。
「母さん、ありがとう!」
「ありがとうございます、お母様」
高山と夏芽は目を合わせて喜びを分かち合う。
その姿は教師と生徒ではなく、想い合っている友人のようだった。
その日から夏芽は美大受験に向けて、勉強と実技の両方に時間を割くことになった。
――――――――
それから数ヶ月。
夏芽は緊張で張り裂けそうになる胸を抑えながら、美大の試験会場に来ていた。
勉強の方は自信があった。昼休みに高山から指導を受けて、成績が夏休み前より伸びたからである。
逆に実技には不安が残った。
夏芽の絵は全て独学で学んだものだ。
その技術がどこまで通用するのか、検討もつかなかった。
座学の試験は手応えがあった。心配する必要はなさそうだ。
しかし、実技の試験で夏芽は直感する。
自分には無理だ。合格できない。
ここにいる人たちは、絵で生きていく覚悟を持った人ばかりだ。
高校に入る頃、もしかしたらもっと前から絵に打ち込み、向き合い続けてきた人たちだ。
筆に乗る線の一本一本に覚悟と執念が載っている。
夏芽は後悔する。
もっと早く美大を受けることを考えていれば、もっと絵の練習ができた。
(俺だって、絵が好きなのに)
もっと早く先生に会えていたら、きっと…。
提出する試験の絵には、悔しさが滲んでいた。
――――――――
合格発表当日の昼休み。
夏芽は合否の通知を持って準備室を訪れる。
高山はそわそわした様子でそこにいた。
夏芽は涙を流しながら報告する。
「だめ、でした……」
ボロボロと涙を流しながら、夏芽は後悔を口にする。
「悔しい、です……もっと早く先生に会ってれば……」
「鈴山」
「でも俺、絵を描くことをやめません」
夏芽は涙を拭いて、高山を見つめる。
その目は挫折など微塵も感じさせない光を宿していた。
「美大にはいけないけど、先生が褒めてくれた絵を、ずっと描いていきます」
その目に射抜かれる心地よさを感じながら、高山は夏芽の強さに胸を打たれる。
「ああ、ずっと応援してる」
長いようで短い二人の冬が終わった。
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