第6話 ルビーレッドをぶちまけて

 高山はいつものように社会科準備室に訪れる。

 もはや高山にとっては人目を避けるための場所ではなく、鈴山と過ごすための場所になっていた。

 準備室の扉を開くと、そこにはスケッチブックに線を走らせながら、昼食を食べる夏芽の姿があった。

 入室した高山に気付きもしないくらい、夏芽の集中力は凄まじかった。

 高山は邪魔をしないようにそっと席に座ると、持参したコーヒーの啜る。


「あれ先生、来てたんですか?」


 コーヒーの匂いで気づいたのか、夏芽は顔をあげて驚く。


「ごめん、集中していると思って声かけなかった。僕に構わず続けて」


 その言葉に夏芽は小さく微笑むと、線を引いては消し、引いては消しを繰り返す。


(難航してるのか……)


 絵に真剣に向き合う夏芽の目を高山はじっと見つめる。

 その視線が自分に向かないことを、少し残念に思うのだった。



――――――――――

 


 夏芽は高山から文化祭の展示の誘いを受けてから、忙しい日々を過ごしていた。

 展示品の規定は特になかったが、いつも使っているスケッチブックの大きさでは展示に不向きだと考えた。

 いつも使っている画用紙ではなく、キャンバスを用意し何を描くか考える。

 頭に浮かぶのは、春の通学路、夏の茹だるような教室、秋の田園風景、冬の空に輝く星々。

 しかし、どれもしっくりこなかった。

 どんなに線を引いても、描きたいのはこれではない気がした。

 夏芽は一度鉛筆を置き、ため息を吐く。

 風景を描くのは嫌いではない。

 しかし高山が見たいといってくれた絵は風景画ではないような気がした。

 ふと、夏芽の頭に一つの光景が浮かび上がる。

 3年の始業式、社会科準備室の窓際で風と光を浴びて佇んでいた高山の姿だ。

 目の前のキャンバスに完成した絵が浮かび上がる。

 夏芽は鉛筆を握ると、一心不乱にその光景を描く。

 端正に整った顔、柔らかく揺れる髪、疲れが滲んだ瞳。

 その全てが薄暗い社会科準備室で煌々と光る様を、夏芽は一つも逃さず描き出したくなった。

 母親が夕飯ができたことを知らせる声すら届かず、夏芽はひたすら目の前の絵に向き合った。

 

 それから夏芽は勉強もそこそこに絵を描くことに没頭した。

 下書きが終わり、着色に入る。

 どうすればあの光景を美しく見せられるか、どうすれば自分が見たものを正しく色付けられるか。

 ひたすら苦心した。

 先生はこんな色じゃない、先生はこんな雰囲気じゃない。

――先生はもっと、


「綺麗なんだ」


 絵の具を着けた筆に自分の全てを注ぎ込む。

 執念に似た薄暗い感情とは裏腹に、出来上がる絵は光を纏いながら美しく仕上がっていく。


「……できた」


 絵の具で手を汚しながら描きあげた絵を見つめる。

 高山の端正が美がそこにはあった。

 今までで描いた絵で一番の出来だ、と夏芽は心の中で呟く。

 この絵を展示に出せば、あの時の高山の美しさを誰もが知ることになるだろう。

 しかし、夏芽の心に一つの感情が浮かぶ。

 

――あの時の光景を独り占めしたい。

 

 その感情に支配されるように、夏芽は再び筆をとり、高山の顔をぼかしていく。

 逆光でどんな表情か分からない。

 分からないからこそ、より美しく感じる。


(この絵の本当の姿を知っているのは、俺だけだ)

 

 完成したその絵を見て、夏芽は満足そうに笑顔を浮かべる。

 

「これでいい……」


 夏芽はそれだけ言うと自室を出ていった。




――――――――


 


 文化祭当日、夏芽は完成当時の感情とは裏腹に、緊張と不安で胸が潰されそうだった。

 展示の会場となっている教室にキャンバスを持っていき、所定の場所に飾る。

 どんな目で作品が見られるのだろう、どんなことを言われるのだろう。

 そんな不安に耐え切れず、夏芽は足早に教室を出ていった。


(先生はこの絵を見て、何を思うんだろう)


 不安と緊張に駆られながら、夏芽は足早に廊下を歩いた。


 


――――――――――――

 


 高山はプログラムの合間に夏芽の絵が飾られている教室を訪れていた。

 観客はまばらでどの作品も流し見されている中、一つの絵にみな足を止めていた。

 高山は教師の仮面を被り、作品を見ていく。

 どれも素敵な作品だと思った。

 皆、さまざまな思いを筆に載せている。

 高山は一つ一つの作品をじっくりと眺めながら、お目当ての絵に一歩ずつ近づいていく。


「……ぁ」


 目を奪われる、とはまさにこのことだろう。

 まるで時間が止まったかのようにこの絵から目が離せない。

 観客が足を止めるのも分かるような気がした。

 柔らかな光の中、窓際に佇む一人の男性が描かれている。

 顔は逆光でぼかされているが、これは自分だ。

 高山には確信があった。


(鈴山から見た僕は、こんなに綺麗なのか)


 今まで疎ましかった自分の美が、なぜか誇らしいものに感じる。

 自己嫌悪が夏芽の筆で塗りつぶされていく。


「才能ないなんて、嘘だよ」


 高山は微笑みながらスマホを取り出し、その絵を写真として残した。

 スマホの時間を確認すると、そろそろ次のプログラムが始まる時間だった。


(もっと見ていたかったな)


 そんな思いを振り切り、高山は展示室から出て行った。



 

――――――――――――

 



 夏芽は社会科準備室で、文化祭の賑わいを聞きながら緊張で高鳴る胸を押さえていた。


(先生があの絵を見たらどうしよう、変な絵だって思ったらどうしよう、下手だなって思ったらどうしよう、先生をモデルにしたのが嫌だったらどうしよう……)


 高校最後の文化祭だと言うのに、夏芽は文化祭が終わるまで準備室の隅で震えていた。


 文化祭の片付けは滞りなく進んでいた。

 夏芽は準備室から出ると、絵を回収するため教室にこっそりと向かう。

 そこには一人の小柄な男子学生がいた。

 一年の頃、夏芽と同じクラスだった男子だった。

 病気がちでなかなか学校に来ず、自分と同様クラスから浮いていた。

 その男子は夏芽の絵をじっと見ている。

 夏芽は自分の絵が見られていることに緊張し、上擦った声を出してしまう。

 

「あっ、の……」


「あっ、鈴山君……すごい絵を描くんだね」


 男子生徒は小さく笑みを浮かべると、再び絵に向き直る。


「下手、でしょ……」


「ううん、全然。でも、なんで顔を隠したの?」


「えっ……」


 自分の独占欲を見透かされている。

 夏芽は身を強張らせた。

 男子生徒は全てを知っているかのように笑う。


「この人のこと好きなんだ」


「えっ、好き?」


「あれ、違った?絵の隅々からそんな想いが伝わってきたんだけど」


「お、俺は……」


 何かを口にしようとしたのに、上手く言葉が出てこない。

 背後から教室のドアが開く音がする。


「あ、翠いた、片付け終わったから帰ろう」


「あ、ごめん、じゃあね鈴山君」


 翠、と呼ばれた男子生徒は背の高い男子生徒と共に教室を後にした。

 自分が書いた絵の前で夏芽は立ち尽くす。


「俺は、高山先生が好き……?」


 これは恋なのだろうか。

 これを恋と言っていいのだろうか。

 高山の顔を思い浮かべると、なぜか顔が熱くなり、鼓動が早まる。


 (好き、かもしれない)


 夏芽はキャンバスに布をかけると丁寧に絵を包む。

 高山の絵を誰にも見せたくない。

 そう思ってしまった。

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