今日も、社会科準備室で
下井理佐
第1話 レモンイエローを垂らして
人と会話をするのが苦手で、入学早々クラスで浮いてからは、社会科準備室という誰も使っていない部屋で黙々と絵を描いていた。
そんな高校生活も二年が過ぎ、誰かとまともに喋ることなく三年生になってしまった。
校長の長い話と学年主任の叱咤で始まった高校三年生は、何の感慨も湧かないほど淡白に始まった。
(早く絵が描きたい……)
そんなことを思いながら、夏芽はぼんやりと体育館のステージを見る。
始業式はとっくに終わり、新任式が始まっていた。
ステージには数人の先生が立っている。
皆、背筋を伸ばし生徒たちを温かい目で見ている。
その中に一際目を引く男性の教師がいた。
「めっちゃかっこよくない?」
「えー芸能人みたい!」
「なんかのドッキリとか?」
女子が浮ついた声を出しながら、ひそひそと話す。
新任の教師がマイクを持って自己紹介を順々にしていく。
美形の教師がマイクを持った瞬間、体育館の中が静まり返る。
「社会科を担当します。
女子からわずかな歓声が上がる。
美形だと声までかっこいいのだろうか。
一つの美として完成されているような高山を見て、夏芽はため息を吐く。
(絵のモデルにしたら映えるだろうな)
――――――――――
三年に進級して一週間。
夏芽はいつものようにこっそり教室を抜け出すと社会科準備室に向かった。
人気のない廊下を通り、準備室の扉を開く。
そこには新任の教師、高山がいた。
窓際に立つ高山は、陽に照らされながら髪とスーツの裾を春風に揺らしている。
それなのに表情は疲れ切っており、どこか影のある様が対照的でまるで一枚の絵のように美しかった。
「あれ?」
高山は切長の目を夏芽に向ける。
まるで見惚れていたことを見透かされるようなその視線に、夏芽は慌てて教室を出て行こうとする。
「待って!」
高山の声が夏芽を呼び止める。
「慌てなくて良いよ、おいで」
高山はどこか貼り付けたような、優しい笑みを浮かべていた。
――――――――――――
高山秋次(たかやまあきつぐ)は、今年で29歳になる中堅の教師だ。担当科目は社会科。
端正な顔と、平均よりも高い身長のおかげでいつも他人の目を引いた。
それが良いかと聞かれたら、あまり素直に頷けなかった。
望まぬ好意をぶつけられたことは数多くあるし、要らぬトラブルに巻き込まれたことだって両手で数えられないほどある。
それでも腐らずやってこれたのは、勉強の存在だった。
特に歴史には大いに救われた。
有史以来、人間の精神性は変わらないと思いつつも、その時代の中で考えて、悩んで、生きていた先人がいる。
その事実に高山は背中を押された。
勉強の楽しさを教えたい、その一心で高山は教師になった。
しかし、高山が思い描いていた教師の人生は、高山自身の美のせいで思うようには行かなかった。
今日も授業中や廊下ですれ違う女子生徒から質問責めに遭う。
軽く流しはするが、生徒の興味は尽きないらしい。
授業の進行はいつも遅れていた。
それは始業式から一週間経った頃だった。
カシャッ、とカメラのシャッター音が鳴る。
振り返ると、一人の女子生徒が高山にスマホを向けていた。
「やば……」
女子生徒は気まずそうな顔でスマホを下げる。
「……授業中にスマホは禁止だよ、次からは気をつけてね」
高山は苦笑いを浮かべながら女子生徒を注意する。
(なんで僕は笑ってるんだろう)
授業中に盗撮されたというのに、高山は愛想を振り撒いてしまった。
女子生徒はなぜか顔を赤くしている。
(まただ)
誰も自分の授業に興味がない、この顔にしか興味がないのだろうか。
そう考えてしまう自分にも嫌気が差した。
新任早々、人目を避けるため普段使われていない社会科準備室に逃げ込む。
埃がわずかに積もる準備室の窓を開け、風を入れる。
まだ少し冷たい春の風がカーテンを揺らす。
誰もいない準備室は存外心地よく、昼休みの避難場所にしてしまおうと決めた。
高山は春の風を浴びながら、教師をやめるか悩んでいた。
(僕は、教師に向いてないのかな……)
まだまだ冷たい春の風を浴びながら、高山は疲れ切った目で窓の外を見ていた。
不意に、準備室の扉が開く音がする。
高山が視線を向けると、一人の男子生徒がスケッチブックを持って立っていた。
高山は驚き、拍子が抜けたような声を出すが、それ以上に男子生徒の方が驚いていた。
慌てて出て行こうとする男子生徒に、高山は一つの懸念が生まれる。
社会科準備室に自分がいることがバレたら、自分の安寧の場所がなくなるのではないか。
だから、反射で呼び止めてしまった。
男子生徒は身を固くしながら立ち止まる。
「そんなに慌てなくていいよ、おいで」
「え、あ、い、いいんですか」
「良かったら一緒に食べる?」
高山は作り笑いを浮かべて招いた。
「し、失礼、します」
男子生徒は言葉をつっかえながら入室する。
「えっと、来たばかりであんまり名前と顔が一致してないんだ、名前教えてくれる?」
「鈴山、夏芽……です」
「鈴山か、一昨日授業受けてくれてたよね」
「は、はい」
「いつもここでご飯食べてるの?」
「はい……」
「そうなんだ、この居心地いいもんね」
高山は適当に話をすると、一つの提案を持ちかける。
「準備室を自由に使っても構わないから、自分がここにいることを内緒にしてもらえないかな?」
「え、いいんですか?」
「いいよ、もしかして準備室を勝手に使ってたことを気にしてた?」
「はい……」
「それは僕も一緒だからいいよ」
高山は、悪いことをしているな……と思いつつも、この居心地の良い場所を手放せなかった。
適当に昼食を摂った後、窓の外をぼんやりと見る。
春の陽光に照らされ、世界が眩しく光っている。
夏芽も緊張しながらも、昼食を摂り、スケッチブックを開く。
二人の間に沈黙が降りる。
(絵、描いても大丈夫かな)
夏芽は高山の方をチラリと見る。
高山は夏芽のことを気にせず、疲れた顔で窓の外を見ていた。
(大丈夫、かも)
ふと、夏芽は誰かと昼休みを過ごすのが初めてだと気付く。なのに、不思議と嫌ではない自分に驚いていた。
(静かな昼だな)
高山も、自分の容姿を話題に出さず、黙々と何かを描いている夏芽を好ましく思っていた。
お互いに干渉しないこの空間が心地よく、二人は短い昼休みを満喫した。
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