泥濘のお嬢様 ――公爵令嬢、塹壕に立つ
@kakituki
第1話
泥濘──
雨などで地面がぬかるんでいる。または、その様子のこと。
昨日まで降っていた雨はやみ、晴れやかな朝。
気分も高鳴るだろう。
ここが、泥濘の中。戦場に掘られた塹壕の中でなければ。
「ありえませんわ」
塹壕に一人の女兵士がいた。
ヘルメットから漏れるのはウェーブの掛かった長い金の髪。
衛生上、短髪にすることが推奨される兵士にしては珍しい髪型だ。
「ありえませんわ。私がこんな場所にいるなんて……」
彼女はそう、何度も呟いている。
「ありえないのはお前だ、補充兵。何度言ったら髪を切るんだよ?」
隣りにいた女兵士が呆れた様子で言った。
襟章には一筋の線。上等兵だ。
短く切り揃えられた黒髪に、褐色の肌。
ボヤく金髪の兵士とは対象的な出で立ちだった。
「この髪は、王国の至宝と呼ばれた髪ですわ。
そうそう簡単に切れないと何度もお伝えしたでしょう?」
金髪の兵士の言葉にため息を吐く、上等兵。
彼女は干し肉をかじりながら言った。
「『申し訳ありません。ヘスター上等兵。すぐに切ってまいります』
それぐらい言えないのか、シャーロット二等兵?」
「言いませんわ。私は王家に長年仕えた公爵家の娘。
貴族としてそのような粗野な髪型にするつもりはありませんわ」
「公爵令嬢ね。まだ言ってるのか。いい加減、寒いと思わないのか?」
ヘスターは肩を落とす。最近部隊に配属されたこの二等兵は、
自分のことを公爵令嬢だと言って聞かない。
そんなお嬢様がこんな最前線に銃兵として配備されるなどありえない。
結果、部隊では詐欺師か、頭のおかしい女として扱われているのが、
この、シャーロット二等兵だった。
「私、貴族としてあなた方、平民を指導する立場ですの。
おわかりかしら? 私こそが規範。平民には難しいかしら?」
シャーロットは舞踏会にでもいるかのようにくるくると踊り始める。
今日という今日は強く言ってやろう。
そう、ヘスターが決心したところに声が聞こえた。
「敵砲撃! 敵砲撃! 避難壕に急げ!!」
その場の全員が走り出す。
ひゅるひゅるという間抜けながら根源的な恐怖を巻き起こす音。
シャーロットだけが、ぽかんと空を見上げていた。
「何やってんだ、間抜け! こっちだ!」
ヘスターは間抜けな決めポーズをしていたシャーロットを引きずるように不潔で、
不快な塹壕内を走るのだった。
避難壕の中は兵士で埋め尽くされていた。
それでも小隊全員の顔はない。
逃げ遅れた……いや、別の壕にいるのだろう。
そう思うしかなかった。
爆音が聞こえ、その度、壕を支える粗末な木の柱がミシミシと鳴る。
あの柱が折れてしまえば、自分たちは終わり。
陰鬱な雰囲気に、誰も言葉を発しない。
ただ一人のおかしな新兵以外は──
「……121、120、119……」
何かを数えているのはシャーロット二等兵だった。
本当の意味で、頭がおかしくなった。
小隊の皆はそう思った。
街にいれば評判の娘だったであろう美貌を持つ女も、
この塹壕の中ではなんの価値もなかった。
ヘスター上等兵は何か声をかけるべきかと思った。
逃げるさなか、泥で汚れた干し肉を袖で拭って口に運ぶ。
シャーロットに新兵としての教育を施したのはヘスターであったが、
とにかく扱いづらい女だ。
だが、それだけで見捨てるほどヘスターは無情ではなかった。
「何を数えてるんだ? さっきからブツブツと……」
「勝利のために必要な……きゃッ!」
砲撃の至近弾。
壕全体が揺れ、シャーロットは揺れに耐えかね、ヘスターにしがみつく
「大人しくしておけ。
滅多なことをすればあっという間に終わりだ」
ヘスターはそう言いながらやっと思い当たる。
シャーロットが配属された初日に、軍隊生活とはなにかを“優しく”教えた時に、
“ある事”を教えていたのだった。
(砲撃の継続時間……よく覚えていたな)
ヘスターはそんなふうに思った。
この薄汚く不快な場所で教えたことを、新兵が思い出せたのは意外だった。
だが、膝が小刻みに震えているのを、ヘスターは見逃さなかった。
泣き叫び、家に帰りたいと嗚咽するよりはマシか──
ヘスターはこの新兵の人物評価を少し修正する必要があると思った。
「それで? 砲撃が終わったらどうするよ、“お嬢様”?」
「──決まっていますわ」
シャーロットは周りを見た。泥濘にまみれた仲間たち。
震え、涙を流し、ズボンは濡れている。
だが、誰も笑わない。
塹壕には恐怖しかないからだ。
それは哀れで惨め。
シャーロットはその姿を見て、立ち上がろうとした。
瞬間──壕が揺れた。
至近弾。
思わず、シャーロットが倒れて尻餅をつく。
揺れて転んだのではない。
あの音が死そのものであると身体が反応してしまったのだ。
ヘスターはこの新兵が少し哀れに思った。
英雄に憧れているのだろう。しかし……
塹壕に英雄はいない
その事は干し肉を持つ震えた手が物語っていた。
ヘスターも怖いのである。
「落ち着け、シャーロット。アタシ達に命令を出すのは、指揮官様のお仕事だ」
そう言って勇気づけるが、ヘスターは気づいていた。
視線の先に誰もいないことに……
砲撃音が止まった──
その瞬間、シャーロットはよろよろと立ち上がり、足元においた
歩兵銃を手に避難壕から駆け出た。
「おい! 馬鹿! 大人しくしてろって言っただろう!」
慌てたヘスターも銃を手に彼女を追った。
戦場は荒れ果てた荒野になっていた。
指揮官に叱責されながら、夜通し建築した陣地はすべて吹き飛び、
木片と焼けた匂い、そして血の匂いが肺に入る。
何度かいでも不愉快極まりない匂いだ。
吐き気を我慢しながら、ヘスターは見上げた。
砲撃で舞い上がった塵が曇り空のようになっていた。
その隙間から朝日が差した。
塹壕の縁に女が立っている。
ヘルメットは古ぼけた戦死者のお下がり。
軍服も簡易縫製の粗悪物。
なのに──金の髪が、煌めいていた。
そんなはずはない。この女はシャーロット。
自分を公爵令嬢などと言うイカれた二等兵。
それが伝説に出てくる勝利の戦女神に見えるなんて──
「な、何してんだ! 下りろ! 狙撃されるぞ!」
ヘスターは叫ぶ。
自らの幻覚を払うように。
「突撃ですわ。砲撃後にはすぐに撃てない。貴方が教えてくれたことでしょう?」
理解出来なかった。突撃命令など二等兵に出せるものではない。
ヘスターは一歩足を引くとなにかにぶつかった。
視線を移すとそこには死体。
金糸の装飾がかすかに残る肉片。
小隊長のものだ。
「装填はすぐに終わる。迅速に行動する。貴方の言葉。そして──」
シャーロットは敵陣を見た。
薄暗い汚れた景色の先で、敵兵が何かを運んでいる。
「私の覚悟。平民を守り導く貴族の務め!」
なれた手つきで銃剣を取り付け、駆け出した。
「それこそが──【
駆ける背中は細く小さい。頼りない女の背中。
避難壕から出てきた者たちはその背中を見た。
皆が見た。
無謀としか言えない。数十秒後には死ぬだろう。
なのに、なぜだかその先に勝利が見えた。
「馬鹿野郎! 無駄死にする気か!」
へスターも銃剣を付け飛び出す。
その光景に他のものも習う。
カチャ
カチャ
カチャ
取り付ける音が木霊して、いつの間にか、咆哮に変わる。
「うぉおおおおお!!!」
誰も彼もが塹壕を飛び出す。
意味不明なことばかり喋る新兵を追いかけて。
その先に勝利があると信じて。
塹壕に残った軍曹は足元の小隊長から笛を奪う。
ピィイイイイーーー!
甲高い音が塹壕に響き渡ると、次々に笛の音が鳴り、咆哮が加わる。
ダレス草原の戦い。
防戦一方の王国軍が久しぶりに戦線を押し戻した野戦。
そのきっかけを作ったのが補充兵の新兵であるとは、
誰も信じないだろう。
第一話 終わり
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