第1話
5時間目、古典の授業。
使い古されたチョークが黒板を叩く乾燥した音と、遠くで運動部が声を上げる響き。窓から差し込む午後の日差しはひどく微睡んでいて、寺島悠にとっては耐えがたいほどに退屈な「いつも通り」の風景だった。
悠は頬杖をつきながら、教室に点在する空席を眺めていた。
不登校の田中、風邪で休んだ佐々木。あと一人は誰だったか……。思い出そうとした思考は、教師の単調な朗読にかき消される。
それが、悠の記憶に残る「最後の日常」となった。
「……あ?」
異変は、些細な違和感から始まった。
窓の外、校庭のポプラの木が、まるで熱せられたアスファルトのようにぐにゃりと歪んだのだ。
直後、全ての音が消失した。鳥のさえずりも、風の音も、教師の声さえも。
鼓膜を圧迫するような完全な静寂。
「おい、なんだあれ……」
誰かが掠れた声で呟いた瞬間、窓際の空間が、まるで巨大なハンマーで叩かれたかのように「パリン」と音を立てて砕け散った。
割れた「世界の隙間」から溢れ出したのは、濁った七色の光だ。
それは生物のようにのたうち回り、窓際に座っていた生徒数名を、そして逃げる間もなく教壇に立ち尽くしていた教師を、影ごと飲み込んでいった。
「うわあああああ!?」
「逃げろ! 外に出ろ!」
学級委員長の佐藤が椅子を蹴り飛ばして叫ぶ。クラス中がパニックに陥り、我先にと廊下側のドアへ殺到した。だが、勢いよく開け放たれた扉の先には、見慣れた廊下など存在しなかった。
そこにあるのは、底の見えない真っ白な光の渦。
「うそ……だろ……」
悠の視界が白く染まる。最後に網膜に焼き付いたのは、窓際の歪みの中で、まるで彫像のように固まったまま、音もなく消えていくクラスメイトの姿だった。
次に意識を引き戻したのは、肺を焼くような濃密な草の匂いだった。
「……っ、げほっ……ごほっ!」
激しく咳き込みながら顔を上げると、視界にはあり得ない光景が広がっていた。
天頂には、二つの太陽。一つは白く、もう一つは不気味なほどに赤く、重なり合うように輝いている。
そこは、天を突くほど巨大な石柱が円形に並ぶ、崩れかけた神殿の跡地だった。石柱の表面には脈動するような幾何学模様が刻まれ、その亀裂からは青白く発光する未知の植物が、血管のように根を伸ばしている。
「……生きてる」
周囲では、クラスメイトたちが地面に這いつくばり、嘔吐し、あるいは状況が理解できずに呆然と空を仰いでいた。
「悠……無事かよ」
親友の秋山が、青ざめた顔で悠の肩を掴んだ。その秋山の指先には、小さな光の文字がぼんやりと浮かび、消えては現れるのを繰り返している。
「ああ、なんとか。……秋山、ここはどこだ?」
「わかんねぇ。……けど、ここ、絶対日本じゃねぇよな。あり得ねぇよ、こんなの……」
そこには自分たち以外の姿はなかった。教室にあった机も椅子も、教科書一冊すらもこの場所には持ち込まれていない。ただ、人間だけがこの異質な神殿に放り出されたのだ。
「全員、集まれ! 怪我はないか!」
佐藤の声が響く。彼は混乱を鎮めるように手を叩き、必死に声を張り上げた。
「いいか、落ち着いて出席番号順に並んでくれ。点呼をとる!」
恐怖に震えながら、生徒たちがふらふらと列を作る。一人、また一人と名前が呼ばれるたび、神殿に不吉な沈黙が積み重なっていく。
「……18、19、20……」
番号が途切れる。佐藤の呼名が止まり、彼は震える拳を握りしめたまま絶句した。
悠は息を呑み、周囲を見渡す。今日、あの教室にいたはずの顔ぶれを必死に指折り数えた。
クラスメイト30人のうち、欠席は3人。教室にいた生徒は27人。それに担任を加えて、本来ならこの場には28人がいなければならない。
「……24人。先生を含めて……4人が、足りない」
あの凄まじい光の中、窓際の席に座っていた奴ら。そして教壇で真っ先に飲み込まれた教師。自分たちと一緒に光に包まれたはずの彼らは、この神殿のどこを見渡しても影一つ落ちていなかった。
「おい、冗談だろ……? 佐藤、もう一回数えろよ。あいつら、どっかその辺の柱の影に隠れてるだけだろ……?」
クラスの誰かが絞り出すような声を上げたが、返ってくるのは虚しい木霊だけだった。
そこにあるのは、遮るもののない冷たい石畳と、ただ静まり返った古代の遺跡。
――28人いたはずの教室から、24人だけがここに放り出された。
この場にいない、あの歪んだ光の中にいた4人は、今どこでどうなっているのか。
数え直すほどに、正体不明の不安だけが色濃く浮き彫りになっていった。
その不安に追い打ちをかけるように、今度は「彼らの体」に異変が起き始めた。
「熱い……っ! 何これ、手が……!」
誰かの悲鳴を皮切りに、あちこちで光が弾けた。
火を吹いたわけでもないのに、一人の女子生徒の指先から小さな煙が立ち上り、隣にいた男子生徒の腕には、見たこともない紋章のような痣が浮かび上がっている。
「おい、秋山……お前の指!」
悠が息を呑んで指差すと、秋山は自分の右手を凝視したまま固まっていた。彼の指先からは、青白い光の粒子が糸のように溢れ出し、空中に幾何学的な図形を描こうとしては霧散している。
「わかんねぇ……。勝手に、何かが出てくるんだ。……これ、まるで漫画の能力みたいな……」
神殿のあちこちで、不可解な現象が連鎖していく。
手のひらから凍てつくような冷気を放つ者、瞳の色が金色に染まり遠くを見つめる者、あるいはあまりに強大な「何か」が体に流れ込んだ衝撃で、その場に倒れ伏す者。
自分たちはただ場所を移動させられただけではない。
根底から別の何かに「作り替えられてしまった」のだ。
人智を超えた力が教室の秩序を無残に破壊していく光景を、悠はただ、茫然と見つめることしかできなかった。
――そして、その「変質」の波は、悠自身にも容赦なく襲いかかった。
「っ……あ、が…………!?」
脳を直接、冷たい針でかき回されるような激痛。
視界が歪み、世界の色が反転する。
体中を巡る血液が、意志を持った濁流となって脳髄に集中していく感覚に、悠は喉の奥から空気を絞り出した。
クラスメイトたちが手にしたのは、火や、氷や、圧倒的な筋力。
ならば、自分の内側に流れ込んできたこの、おぞましいほどに「膨大な情報」は何なのだ。
意識が混濁し、石畳に膝をついたその瞬間。
チカチカと点滅する極彩色の視界を突き破り、無機質な「青」が網膜を支配した。
【固有能力:ちゃんねる Lv.1】が有効化されました。未知の座標を確認。通信プロトコルを確立中……
接続完了。
それは、周囲の幻想的な惨状とはあまりに不釣り合いな、見慣れた「電子的」な輝きだった。
耳元で鳴り響くパニックの絶叫が、急に遠ざかる。
「……これ、掲示板……?」
脳を抉るような激痛は、ようやく鉛のような鈍い頭痛へと変わっていた。だが、全身の筋肉を強引に引き絞られたような酷いだるさが身体を支配し、指一本動かすのにも吐き気がするほどの労力を要する。
この異常な世界で、唯一自分が知っている「日常の形」をした窓。それだけが、かろうじて悠の意識を現実に繋ぎ止めていた。
視界の端で、小さなアイコンが点滅している。悠は、泥のように重い腕を必死に持ち上げ、震える指でそこへ触れた。
空中に、半透明の入力フォームが浮き上がる。
『新規スレッドを作成しますか?』
思考が濁り、視界がかすむ。それでも、この「窓」の向こう側には、まだ「日常」が繋がっているのかもしれない。そんな根拠のない、けれど切実な希望に縋るように、悠は仮想のキーボードへと指を這わせた。
――今、自分の身に起きていることを、誰かに、世界に、伝えなければならない。
悠は、逃げるように、あるいは祈るように、最後の一振りの力を振り絞ってタイトルを打ち込んだ。
【SOS】クラスごと異世界召喚されたけど、俺のスキルは「掲示板」だった 松川 瑠音 @matukawaruto
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