ある朝、会社に行こうと外に出たら、“道”に“未知”が“満ち”ていました。
よし ひろし
ある朝、会社に行こうと外に出たら、“道”に“未知”が“満ち”ていました。
目覚ましが鳴った。
六時四十五分。いつもと同じ、可もなく不可もない朝だ。
「今日は…月曜だな……」
独り言はワンルームの壁に吸われて消えた。カーテンの隙間から差し込む光は、やけに白い。天気予報では曇りだったはずだが、まあどうでもいい。シャワーを浴び、食パンを齧り、ネクタイを締める。
大学を卒業し就職してから三年、平日は同じような毎日を送っている。今日もきっと変わり映えのない日なのだろう。
俺はいつものように玄関を出て、エレベーターで一階まで降り、エントランスを抜けて、外に出た。
――ぷにゅ
「……?」
靴先に、柔らかい感触。反射的に見下ろした俺の視界を、淡い虹色の半透明な物体が占領していた。ゆっくりと脈打ち、表面に幾何学模様のような紋様が浮かんでは消えている。
「……スライム?」
声に出した瞬間、スライムは「きゅる」と可愛らしい音を立てて道の端に避けた。俺はゆっくり顔を上げる。
「あぁ? あぁあん?????」
マンション前の道路が、見たこともないもので満ちていた。
触手が林立し、甲殻のような外殻を持つ巨体が低く唸り、重力を無視した多面体がふわふわと浮遊している。光る軌道を描いて滑走する未来の乗り物、明らかに三次元では収まりきらない形状の存在、なぜか和服を着た影のような老人。
なのに、街並みだけはいつも通りだった。
見慣れた電柱、コンビニ、コインパーキング――
その上を、全宇宙の未知が渋滞している。
「……うぇ?」
喉から漏れた音は、情けないほど小さかった。
スマホを取り出す。圏外。再起動。圏外。ニュースアプリも、SNSも、何も繋がらない。代わりに、見たことのない言語で埋め尽くされた通知が一瞬だけ表示され、すぐに消えた。
「夢か……?」
頬をつねる。痛い。
横断歩道の信号が、触手に絡め取られて点滅している。信号の下では、球体の宇宙人が律儀に並び、前に進めずに困っていた。
「……とりあえず、駅だ」
会社を休むという選択肢は、不思議と頭に浮かばなかった。体が勝手に、通勤ルートをなぞろうとしている。俺はカバンを胸に抱え、未知の海へ踏み出した。
「す、すみません……」
触手をかき分けると、ぬるりとした感触がスーツに移る。スライムは意外と礼儀正しく、「どうぞ」と道を空けてくれる。異次元の訪問者らしき存在は、俺を見ると首――らしきもの――を傾げ、低い声で言った。
「この座標……混雑、している?」
「してます。めちゃくちゃ」
なぜか通じた。
駅前が見えたとき、俺はほとんど泣きそうになっていた。そこにある交番が、今は唯一頼れる存在だ。
転げそうな勢いで、飛び込む。
「助けてください!」
カウンターの向こうにいた警察官は、確かに制服を着ていた。帽子、バッジ、腕章。だが顔は――昆虫と人間を雑に合成したような、多眼で、顎が横に裂けている。
「うげっ!」
「おや?」
警官はにこやかに――多分――言った。
「どうしました? 何かお困りですか?」
「え、いえ、その、これは――」
なんと言っていいのか口ごもるが、相手は鋭く察してくれたようだ。
「ああ、これですか。ちょっと時空が混線してるみたいですね」
「じ、時空?」
「大丈夫、大丈夫。朝のラッシュ時によくあるんですよ」
「えっ、よくあるんですか!?」
警官は書類にスタンプを押しながら、のんびり続ける。
「七次元高速道路の事故、銀河見本市の帰り、未来観光客の迷子……原因はいろいろです。じきに収まりますから」
そう言った瞬間――視界が、瞬き一つ分だけ、白く染まった。
「……え?」
目の前には、ごく普通の中年男性の警察官が立っていた。人間だ。外を見ると、道路は元通り。サラリーマン、学生、主婦。いつもの朝の雑踏。
「どうしました?」
警官が怪訝そうに眉をひそめる。
「えっ…い、いえ……」
夢? 幻覚? 疲れてるのか?
俺は交番を出て、駅へ向かった。
とにかく会社に行こう。今ならいつもの電車に乗れる。
改札前には、ICカードをかざす人々の列。いつも通りの風景だ。
俺はほっと安心しつつ、カードをかざした。
ピッ!
電子音。直後――世界が、反転した。
改札を抜けた先には、星空があった。
ホームは銀河に延び、電車は巨大な鯨の形をして宙を泳いでいる。駅員はローブを着た半透明の存在で、拡声器から多次元語のアナウンスが流れていた。
「次の発車は、地球標準時刻七時三十二分、終点『未知』行きです」
後ろから、誰かが肩を叩いた。
「初めて?」
振り返ると、スーツ姿の女性が微笑んでいた。だが影が二重に重なり、片方は翼を持っている。
「……はい」
「大丈夫。慣れるわよ。最初は誰でも迷子になるから」
鯨電車が鳴いた。低く、優しい音だった。
俺は、流れに押されるまま、未知の世界へ一歩を踏み出した。
会社がどこにあるのかは、もう分からない。
それでも不思議と、胸の奥は軽かった。
「……完全に遅刻、だな」
呟くと、星々が笑った気がした。
おしまい
ある朝、会社に行こうと外に出たら、“道”に“未知”が“満ち”ていました。 よし ひろし @dai_dai_kichi
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