美容サブスクで私は怪物になった ~月額9800円の代償は、肉体の所有権でした~

ソコニ

1話完結 完璧な彼女のプラグ

1

鏡の中の私は、もう私ではなかった。


いや、違う。これこそが「本当の私」なのだと、VENUSのアプリは囁いていた。


派遣の契約が切れたのは三ヶ月前。貯金は底を突き、スーパーの値引きシールを待つ日々。そんな時、SNSで流れてきた広告が目に留まった。


『月額9,800円で、理想の自分へ──VENUS生体更新サービス』


最初は疑った。でも、レビューを読めば読むほど、現実味を帯びてきた。before/afterの写真。幸せそうな笑顔。「人生が変わった」という言葉の洪水。


契約書にサインしたのは、家賃の催促が来た夜だった。


初回の更新は、寝ている間に行われた。枕元に置いた小さなデバイスから、ナノマシンが放出される仕組みらしい。痛みはない。副作用もない。


翌朝、鏡を見て息を呑んだ。


肌が、発光しているように見えた。毛穴という毛穴が消失し、陶磁器のように滑らかだった。触れてみる。自分の肌なのに、まるで高級な絹のようだった。


「すごい……」


その日、コンビニへ行くと、レジの男性店員が二度見した。帰り道、すれ違う人が振り返った。久しぶりに会った友人は、「エミちゃん、何したの?」と目を丸くした。


アプリを開くと、進捗バーが表示されていた。


『更新レベル:1/10 達成おめでとうございます!』


次の更新まで、あと6日。


2

レベル2では、指が変わった。


起きると、指が一回り細く、長くなっていた。関節が滑らかで、ピアニストのような優雅な動きができる。スマホを操作する動作さえ、まるでバレエのように美しく見えた。


レベル3で、体重が理想値になった。食事制限も運動もしていないのに。


レベル4で、髪質が変わった。一本一本が絹糸のように艶やかで、触れるたびにサラサラと音を立てた。


そして今、レベル5。


鏡の中の女は、完璧だった。


いや、完璧すぎた。


瞳の左右が一ミクロンの狂いもなく対称で、まばたきは正確に15秒に一度。肌からは人間特有の脂の匂いが消え、代わりに新車の内装のような薬品臭が漂っていた。


笑顔を作ってみる。


唇の両端が、ミリ単位で完全に同じ高さまで上がる。まるでCGのように正確な笑顔。


不気味だった。


でも、周囲の反応は違った。面接に行けば即採用。道を歩けば声をかけられる。人生が、確実に変わっていった。


その夜、シャワーを浴びながら、背中に違和感を覚えた。


鏡の前で、スマホのカメラを使って確認する。


肩甲骨の間に、「それ」があった。


直径3センチほどの、硬質な黒い穴。周囲は僅かに隆起し、金属質の光沢を放っている。まるで精密機器のポートのような形状だった。


恐る恐る、指で触れてみる。


瞬間、脳が痺れた。


快感とも苦痛ともつかない感覚が全身を駆け抜ける。自分の脳髄を直接触られているような、不気味な多幸感と吐き気が同時に襲う。


思わず指を引き抜くと、透明な粘液が糸を引いた。


床に吐いた。


震える手でアプリを開く。


『更新レベル:5/10 最適化が進行中です』


その下に、小さく表示されていた文字に気づく。


『※レベル3以上の個体は、弊社資産として登録されます』


資産?


慌てて利用規約を開いた。長大な文章を読み飛ばしていくと、第12条にこうあった。


『本サービスによる生体改変レベル3以上に達した個体は、VENUS社の知的財産権及び運用権の対象となります。契約の一方的な解除はできません』


携帯が震えた。


アプリからの通知だった。


『本日23時、指定された場所へ移動してください。拒否権はありません』


3

23時。


私の体が、勝手に動き出した。


「やめて……」


声は出るのに、体が言うことを聞かない。足が勝手に玄関へ向かう。手が勝手にドアを開ける。


人形になった。


いや、最初から人形だったのだ。気づかなかっただけで。


タクシーに乗り込む。運転手に住所を告げる声は、確かに私の声なのに、私の意思ではなかった。


到着したのは、湾岸の高級ホテルだった。


ロビーを抜け、エレベーターで最上階へ。スイートルームのドアが、自動で開いた。


部屋の中央に、車椅子に座った老人がいた。


70代後半だろうか。皺だらけの顔に、濁った目。贅肉が垂れ下がった首。細い体からは、薬品と老人特有の臭いがした。


「ようこそ、エミさん」


老人が笑った。黄ばんだ歯が覗く。


「素晴らしい出来だ。レベル5まで育てるのに、ちょうど一ヶ月。完璧なタイミングだ」


私の口が勝手に動いた。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます」


違う。そんなこと言いたくない。


老人が車椅子から立ち上がり、よろよろとした足取りで近づいてくる。私の背中に手を回し、「あの穴」に指を差し込んだ。


脳が沸騰した。


意識が弾け飛びそうになる。視界が白く染まり、思考が溶ける。


「いい反応だ……さあ、始めよう」


老人がベッドの脇にあった機器を操作すると、ケーブルが伸びてきた。先端には、私の背中の穴と同じ形状のコネクタが付いている。


カチリ、と音がした。


接続された。


瞬間、私の意識が部屋の片隅へ追いやられた。


私の体が、私のものではなくなった。


老人が、ログインしてきた。


4

私は自分の体の中で、傍観者になった。


老人が私の手を動かして、グラスの酒を口に運ぶ。私の舌で味わい、私の喉で飲み込む。でも、その感覚を楽しんでいるのは、私ではなく老人だった。


「ああ……なんて素晴らしい。この若い舌の感覚、この滑らかな喉……」


老人の声が、私の頭の中で響く。


鏡の前に立たされる。老人が私の体を使って、私の顔を撫で、私の髪を梳き、私の肌に触れる。


「30年ぶりだよ……こんな若くて美しい肉体を動かすのは」


私の手が、私の頬を撫でる。


私の指が、私の唇をなぞる。


全て、老人の意思で。


吐き気がした。でも、吐くこともできない。体の制御権がないから。


老人は私の体でソファに座り、葉巻を吸い、高級な料理を食べた。私の味覚で、私の嗅覚で、全てを楽しんだ。


3時間後、ようやくログアウトした。


制御が戻ってきた瞬間、私は床に崩れ落ちた。


「……っ……」


涙が止まらなかった。口の中に、葉巻の苦い味が残っていた。


老人が車椅子に座り直し、満足そうに言った。


「次回は来週だ。それまでにレベル6へ更新しておくように。より高度な感覚を楽しみたい」


翌朝、部屋を出る前に、洗面所で自分の背中を見た。


穴が、僅かに大きくなっていた。


そして、穴の周囲に、小さな英数字が刻まれていた。


『VENUS HARDWARE v5.2 PROPERTY OF VENUS Inc.』


所有物。


私は、商品だった。


アプリを開くと、「接続履歴」という項目が目に入った。


クリックすると、震えが止まらなくなった。


老人以外にも、7つのユーザーIDが表示されていた。


私の体は、複数の富裕層の間で、シェアされていたのだ。


5

三日後、アプリが通知を送ってきた。


『レベル6への更新を開始します』


拒否しようとしたが、ボタンが押せない。システムが勝手に更新を実行した。


その夜、悪夢を見た。


私の体が分解される夢。皮膚が剥がれ、筋肉が露出し、骨が砕ける。そして再構築される。何度も、何度も。


起きると、体が変わっていた。


軽くなった、だけじゃない。反応速度が異常に上がっていた。視界は4K映像のように鮮明で、耳は隣の部屋の話し声まで聞き取れた。


完璧な身体。


完璧な、商品。


ベッドから起き上がろうとして、気づいた。


アプリの画面が、普段と違う。


更新中のバグだろうか。見たことのないメニューが表示されていた。


『管理者設定』


心臓が高鳴る。


開いてみる。


そこには、私の全てが数値化されていた。筋力、柔軟性、感覚器の感度、神経伝達速度……全てが、商品スペックとして記載されていた。


画面をスクロールしていくと、ある項目で指が止まった。


『レベル6特殊仕様:個体意思テスト』


説明文を読むと、血の気が引いた。


『本レベルでは、個体の自己保存本能と反抗性をデータ収集します。管理者権限への一時的なアクセスを付与し、個体が自壊を選択するかを観測します。収集されたデータは、次世代モデルの抑制プログラム開発に使用されます』


つまり、これは──


罠だった。


私が反抗することも、システムを乗っ取ろうとすることも、全て「想定内」だった。


私の絶望すらも、データとして回収される。


笑いがこみ上げた。


でも、構わない。


どうせ人間に戻れないなら。


どうせデータにされるなら。


せめて、最高に醜いデータを残してやる。


メニューの奥に、その項目はあった。


『強制更新モード:管理者権限で実行可能』


説明文を読む。


『緊急時、または実験目的で、個体を任意の形状へ強制的に更新するモード。人体の限界を超えた変異が可能。接続中のユーザーにも致命的な影響が及びます』


影響が、及ぶ。


完璧だ。


6

次の接続日、私は静かに待った。


23時、また体が勝手に動き出した。


同じホテル。同じ部屋。同じ老人。


「やあ、エミさん。今日はレベル6だね。どんな感触か、楽しみだよ」


老人の目が、欲望に濡れていた。


ケーブルが接続される。


老人の意識が流れ込んできて、私は片隅へ追いやられる。


「おお……これは……感度が段違いだ……」


老人が私の体で深呼吸をする。私の肺で空気を味わう。


その隙に、私は意識の奥底でアプリを操作した。


『強制更新モード:起動しますか?』


はい。


『警告:この操作は取り消せません。個体は人体の限界を超えて変異します』


構わない。


『警告:接続中のユーザーにも致命的な影響が及びます』


それが、目的だ。


『警告:収集されたデータは──』


うるさい。


実行。


瞬間、全身の細胞が狂い始めた。


7

最初に変わったのは、骨だった。


背骨が軋み、何か硬いものへと変質していく。肋骨が増殖し、胸郭が広がる。


「な、何だ……? エミ、お前、何を……」


老人の声が、私の頭の中で慌てふためく。


ログアウトしようとしているのがわかる。でも、接続ケーブルが、私の体と一体化し始めていた。


もう逃げられない。


皮膚が裂ける。


そこから、黒い甲殻が露出する。人間の皮膚ではない、昆虫のような硬質な外骨格。


筋肉が膨張する。服が破れる。


背中から、新しい肢が生えてくる。二本、四本、六本──節足動物のような、硬い肢。


「やめろ……やめてくれ……」


老人が哀願する。


でも、変異は止まらない。


顔が裂けた。


額から、第三の目が開く。複眼だった。世界が多重に見える。


口が横に裂け、そこから牙が生える。


私は鏡を見た。


怪物がいた。


黒い甲殻に覆われ、複数の肢を持ち、人間の面影をギリギリ残した怪物。


でも、その目は、確かに「私の目」だった。


そして──


ケーブルを通じて、変異が逆流していった。


老人の悲鳴が、脳内で爆発した。


「ぎゃああああああああっ!」


遠くで、何かが崩れる音がした。


ケーブルが火花を散らし、老人の車椅子から煙が上がる。


接続部から、異臭が漂ってくる。


老人の体が、溶け始めていた。


いや、溶けているのではない。「劣化」していた。


贅肉が、安価なプラスチックのように変質し、ボロボロと剥がれ落ちていく。骨が発泡スチロールのように軽くなり、砕ける。


老人の体が、粗悪な模造品へと「逆アップデート」されていく。


最後に、老人の顔が崩れた。


もう、人間の形すら保てない。ただの有機物の塊。


接続が、切れた。


私は床に倒れ込んだ。


体が、まだ変化し続けている。人間の形を完全に失っている。


這いずりながら、窓辺へ向かった。


窓ガラスに映る自分を見る。


怪物だった。


でも、私の目だった。


私は笑った。


怪物の口が、笑みの形を作った。


「誰のものでもない……私だけの、体」


背中の穴は、もう塞がっていた。いや、穴そのものが、新しい器官へと変化していた。


アプリを開くと、エラーメッセージが表示されていた。


『接続不能:個体が規格外です。契約は自動的に解除されました』


そして、最後に一行。


『データ収集完了。ありがとうございました』


私は携帯を握りつぶした。


窓を開ける。


夜風が、変異した肌を撫でた。冷たくて、心地よかった。


窓から飛び降りる。


複数の肢が、壁を掴んだ。這い上がる。屋上へ。


街を見下ろす。


どこかに、私と同じように「商品」にされた人間がいる。


まだ気づいていない人間も、これから契約する人間も。


私は走り出した。


人間には、戻れない。


でも、もう誰にも支配されない。


完璧な肉体は、手に入れた。


それが、怪物の姿をしていても。


夜の街に消えていきながら、私は思った。


次は、誰を「解放」してやろうか。


VENUSの倉庫には、まだたくさんの「商品」が眠っているはずだ。


私は笑った。


怪物の笑い声が、夜空に響いた。


<fin>

あとがき


美しさへの渇望が、自己の所有権を奪われる恐怖に変わる瞬間。

そして、人間性を捨てることでしか取り戻せなかった自由。


VENUSの契約書には、こう書かれていたはずだ。


『あなたの望む完璧な自分へ』


エミは、ある意味でその約束を果たした。

誰にも支配されない、完璧な自分へ。


ただし──


それは人間ではなく、怪物だったけれど。


背中の穴(プラグ)を差し込めば、今夜も私は、誰かのハードウェア。


人間をやめる。それだけが、私の唯一の自由だった。

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