第2話 そうね、あなたの前では

 朝、午前七時四十七分。神楽坂終夜は洗面台の鏡の前で白い長袖のシャツを身に着け、紺色のスラックスに足を通した。今日は特に式典の予定もないので、ネクタイはしない。シャツのボタンをきっちり一番上までとめて、鏡を見て、それからやっぱり上から二つ、ボタンをはずした。少し迷ってから、袖を綺麗に折って肘の少し手前まで捲る。

(もう少し、長い方がいいかな?)

 いや、それよりも、ベストを着た方がいいかもしれない。

 一度寝室に戻ってクローゼットから紺色に白のラインが入ったニットベストを取り出し、胸の前にあててみる。悪くはない。でも、やっぱり少し暑いだろうか。まだ梅雨入り前とは言え、空気はじっとりと湿気を孕み、太陽は強く照り付けている。

(うん。やっぱり、ベストはやめておこう)

 どんなイケメンも、汗だくでは台無しだ。

 七時四十九分。

 鏡の傍の置時計が急かすように、カチカチと音を立てて秒針を回している。『かえるん』という名前の蛙を模したキャラクターの時計だ。神楽坂の部屋は同じキャラクターのグッズであふれていた。

 洗面所にはかえるんが大きく口を開けているガラスのコップ、かえるんクリームソーダ味の歯磨き粉、かえるんが歯ブラシを抱きかかえてくれるタイプの歯ブラシ置き、濡れにくい棚の一番上には小さめのクリスマス限定『サンタかえるん』アクリルスタンド。

 風呂場にはかえるんの風呂桶、ベッドの上にはかえるんの大小さまざまなぬいぐるみ、壁にはかえるんと四季をめぐるカレンダーがかかっている。

 それらはすべて、神楽坂の趣味ではなかった。運命の女の子がこよなく愛するキャラクターだ。たぶん、きっと、世界一。そんな気がする。

「……よし」

 前髪を整えて、鏡で全体のバランスを確かめる。神楽坂は鏡に向かってにこやかに微笑んだ。うん。悪くはない。いつ、運命の女の子が曲がり角の向こうからパンを咥えて走ってきても大丈夫だ。

「いや、君はパンを咥えて走ったりしないか」

 少し、笑い声の滲む独り言が落ちる。答えてくれる人は居ない。神楽坂が高校入学と同時に始めた一人暮らしはもう、四度目の春を終えた。カチ、と時計の長針がまたひとつ進む。時刻はもう七時五十一分を回っていた。急がないと、遅刻だ。

 神楽坂は最後にもう一度前髪をさわってから、ようやく玄関に向かう。内側が白いドアには一枚、海の写真が磁石で留めてあった。真ん中より少し右側に神楽坂が一人で立ち、カメラに向かってぎこちなく笑みを浮かべている。

 神楽坂はその写真から視線を引き剥がして、ドアを開けた。じっとりと湿った空気がすぐそばの階段から神楽坂の部屋に向かってゆっくりととぐろを巻いている。皐月原温泉郷限定の『温泉かえるん』のキーホルダーが付いた鍵で扉を施錠し、ここ数日曇ってばかりの空を見上げた。

「今日も雨かな」

 独り言に答える声はない。鞄のなかにしまい込んだ折り畳み傘を運命の女の子と二人で使う放課後はやってくるのか、来ないのか。神楽坂はドアに背を向け、バス停へと足を向けた。



 神楽坂終夜が家を出たのと、ほとんど同じころ、ある幽霊が目を覚ました。どんよりと曇った空の下、人気のない公園の滑り台の上でのことだった。幽霊はぼんやりとした表情であたりを見回し、自分の手を見つめ、来ている服に視線を巡らせ、それから、呆然と呟いた。

「ここ、どこだ……?」



「だから、センパイの言う『運命の女の子』って、いったいどんな感じなんです?」

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