記憶喪失の幽霊と人生最後のラブレター

甲池 幸

第1話 これ、あなたが私を好きだという話?

 例えば、産声をあげたばかりの赤子のクローンを生成したとしよう。

 神楽坂かぐらざか終夜しゅうやの言葉に、狭霧さぎりうしおは読んでいた本から目線をあげた。彼女の長い睫毛が頬の上に複雑な影を落とす。協会本部の中庭に植えられた大きな桜が赤く染まった葉を冷たい風に揺らしている。空気は乾燥し、吹き付ける風は冷えてきたけれど、まだマフラーを出すほどじゃない。日差しは暖かく、色づく風景は綺麗だ。

 そんな、美しい秋の日の午後だった。

 彼女はセーラー服みたいな白い襟がついた茶色のチェックワンピースを着ていた。紅茶とスコーンが似合うなと思ったけれど、生憎、この中庭にテーブルはない。もちろん、ティータイムの用意も。

「その赤子とクローンをまったく違う環境で育てたとして――例えば、一方はネグレクトや虐待と言える劣悪な場所で、もう一方は裕福で、子供が愛と認識できる愛を与えられる両親が居る場所で――。そんな風にまったく別の環境で育てたなら、赤子とクローンは、何歳まで、同じ人間だと言えるんだろう? 姿形は細胞までまったく同じだとしても、抱える記憶は違うし、趣味嗜好、物事の選択基準、すべてにおいて、類似点はないとしたら? いったい、どの時点まで、本物とクローンであるんだろう? どの時点から、本物とクローンであった別物、になるんだろうね?」

 終夜は問いかけて、狭霧の言葉を待った。彼女は文庫本を開いたまま、緩慢な動作で瞬きをする。黒い瞳が瞼に隠れ、ゆっくりと姿を現す。瞼が完全に開ききると、差し込んだ光が黒い瞳の中で踊った。

「これ、あなたが私を好きだという話?」

 狭霧はそう言いながら、とても魅力的な角度で小首をかしげた。肩にかかっていた長い黒髪がさらりと落ちる。終夜は弾かれるように笑った。

「っはは! ふ、っ、あははっ」

 お腹を抱えて笑い出した終夜に狭霧は小さくため息を吐く。世界で一番愛おしい、空気の揺れだった。そうしてまた、彼女は開いたままだった文庫本に視線を落としてしまう。それを咎めることはせず、終夜は黙って狭霧の座るベンチに近づいた。ゆるく巻かれた彼女の髪は秋の日差しを吸い込んで、黒く輝いている。その一束を指先でそっと掬った。狭霧の瞳は熱心に活字を見つめたままだ。

「うん、そう。僕が君を死ぬほど好きって話」

 狭霧は一瞬だけ、ほんとうに、瞬きよりも短い一瞬だけ、終夜を見た。

「そう」

 返事はそんな、小さな相槌だけ。終夜はそれに満面の笑みを浮かべて、彼女の隣に腰掛けた。見上げた空は高く、青く、晴れ渡っている。くぁ、と小さな欠伸が零れた。とても美しい、秋の一幕だった。もしも世界が終わるなら、こんな日であればいいと、願うような。

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