触覚同期(ハプティック・リンク) あなたの指先は、もう私のものです〜

ソコニ

1話完結 未知の指先(ハプティック・クロール)

1

カフェのテラス席で、向かい合う恋人たちが笑っている。手は繋いでいない。繋ぐ必要がないからだ。


耳の後ろに埋め込まれた『LINK』が、彼らの掌の温もりを完璧に再現する。指が絡み合う感触、爪の縁が皮膚を撫でる微細な刺激まで、すべてがリアルタイムで共有される。物理的な接触を超えた、純粋な「感覚のみの恋愛」。2026年の東京では、それが当たり前だった。


私、桐生カナもその一人だった。


彼氏の蓮と初めてLINKを同期した日、私たちは部屋の両端に座って手を繋いだ。距離は三メートル。でも掌には確かに、蓮の体温があった。


「すごい……本当に、触ってる」


蓮が笑う。私の手首を撫でる感触が、何もない空間から伝わってくる。


埋め込み手術は簡単だった。耳介後部の神経束に、米粒大のチップを差し込むだけ。痛みもなく、十五分で終わる。


でも、最初の頃から少しだけ気になっていた。


時々、指先に砂を噛んだような、ザリッとした感触が走ることがあった。デバイスのノイズだと思った。サポートセンターに問い合わせたが、「感度調整中の一時的なものです」という定型文が返ってくるだけだった。


それが本格的におかしくなったのは、十月の終わり。蓮が実家に帰った夜のことだ。


2

深夜二時。


ベッドの中で浅い眠りについていた私は、喉元を這う冷たい感触で目を覚ました。


何かが、喉の皮膚をなぞっている。


金属質で、刃先のように鋭く、肌を割くか割さないかの絶妙な圧力で。左から右へ。ゆっくりと。


「っ……!」


飛び起きて首に手を当てる。何もない。誰もいない。


でも感覚はそこにある。明確に。誰かが私の喉にナイフを押し当てて、皮一枚を切り裂こうとしている。


鏡に駆け寄る。


首筋に、赤い線が浮かんでいた。


皮膚は切れていない。傷はない。でも赤く腫れた筋が、気管の真上を横切っている。まるで誰かが、私の首を「ここで切れ」とマーキングしたように。


痛みはなかった。ただ、感触だけが100%の出力で脳に流れ込んでくる。


これはLINKのバグだ。そう自分に言い聞かせて、デバイスの再起動を試みる。


耳の後ろを三回タップ。システム音が頭蓋の内側で鳴る。


《再起動中……接続を確認しています……同期相手:不明》


不明?


蓮以外の誰かと同期されているということか?


いや、そもそもLINKは一対一専用のデバイスだ。複数同時接続はできない仕様のはずだった。


《同期相手:不明……切断不可……現在大規模システムアップデート実施中……》


切断、不可?


「嘘でしょ……」


その時だった。


喉の感触が消え、今度は右手首に、ぬるりとした湿気を帯びた何かが這い上がってきた。


泥のような、でも生温かい、粘性のある液体。それが皮膚を這う。這う。這う。


私は右手を見下ろす。何もついていない。でも感触はある。何かが私の手首から肘へ、肘から肩へと、ゆっくりと這い上がっている。


それは指だった。


誰かの指が、私の腕を撫で回している。


爪が皮膚に食い込む。ぐりぐりと。まるで果物の皮を剥くように、表皮を捲ろうとしている。


「やめて……!」


声が出ない。喉が締め付けられたように、呼吸が浅くなる。


腕を激しく振る。シャワーを浴びる。服を着替える。


でも感触は消えない。


誰かが、私の皮膚を剥ごうとしている。


3

朝になっても感触は続いていた。


今度は背中だった。誰かが私の脊椎を、指先でなぞっている。一つ一つの椎骨を確認するように、丁寧に。まるで「ここに刃を入れたら、脊髄が見えるかな」と試しているみたいに。


会社を休んだ。LINKのサポートセンターに電話を繋ぎ続けた。


十七回目のコールで、やっと人間のオペレーターが出た。


「もしもし、LINK カスタマーサポートセンターです」


「聞いてください、私のデバイス、誰か知らない人と同期されてて、切断できなくて……」


「お客様、現在大規模なファームウェア更新を実施しておりまして、一部のユーザー様におかれましては一時的な接続の不具合が——」


「一時的じゃないんです! 昨日の夜からずっと、誰かの感覚が流れ込んできて……痛くて……」


オペレーターの声が、一瞬途切れた。


その背後から、聞こえてきた。


ザリッ……。


あの、砂を噛むような音。


「お客様」オペレーターの声が、妙に平坦になる。「お客様が現在体験されている感覚は、システムアップデートに必要な『データ収集プロセス』の一部です」


「……は?」


「より精密な触覚共有を実現するため、極限状態における神経反応のサンプリングを実施しております。そのまま受け入れてください。痛覚の共有制限は一時的に解除されておりますが、これは正常な動作です」


「何を言って……」


「なお、デバイスの強制シャットダウンは推奨されません。神経接続を強制切断した場合、お客様の脳に不可逆的な——」


電話を切った。


手が震える。


企業が、意図的に?


そんなはずがない。そんなはずが——


背中の感触が止まった。


代わりに、左腕の内側に、鋭い痛みが走った。


いや、痛みじゃない。これは——


圧迫感。


誰かが、刃物で私の腕に何かを刻んでいる。


「あ……ああ……」


腕を見る。


皮膚が、盛り上がっている。


傷はない。でも肉が膨らみ、赤く腫れ上がり、文字の形を成している。


K


A


携帯が床に落ちる。


N


A


私の名前だった。


誰かが、自分の腕に私の名前を刻んでいる。そしてその感覚が、私の腕に100%の出力で転写されている。


「やめて……やめて……!」


腕を掻きむしる。爪を立てて、浮き上がった文字を消そうとする。


でも文字は消えない。むしろ鮮明になっていく。


相手は今、自分の傷口に塩を塗り込んでいる。


激痛が神経を焼く。脳が沸騰する。


私は床に崩れ落ちた。


4

気がつくと、部屋は暗かった。


時計を見る。午後八時。


六時間、意識を失っていた。


腕の文字はまだそこにあった。腫れは引いているが、うっすらと赤い痕が残っている。


立ち上がろうとして、違和感に気づく。


指が、勝手に動いている。


いや、動かされている。


右手の人差し指が、何かを書くように宙をなぞっている。私の意思ではなく。


指が描く軌跡を目で追う。


文字だった。


ミツケタ


誰が? 何を?


指が再び動く。


オマエノカラダ


ツカワセテモラウ


全身に悪寒が走る。


これは同期じゃない。


相手は私の体を乗っ取ろうとしている。


耳の後ろのチップを引き剥がそうとする。爪を立てて、皮膚ごと抉り取ろうとする。


その瞬間、全身に電撃が走った。


視界が白く弾け、呼吸が止まる。


神経系と一体化したチップは、もう摘出できない。無理に剥がせば、脳に致命的なダメージを与える。


私は床に倒れ込み、痙攣する体を抱きしめた。


そして「それ」が始まった。


5

視界が、ノイズ混じりの二画面に分割される。


一つは私の部屋。薄暗い天井。


もう一つは——


暗い。狭い。湿っている。


コンクリートの壁。錆びたパイプ。床に散乱した注射器と、得体の知れない液体の染み。


そして、鏡。


鏡に映っているのは、私ではなかった。


痩せこけた男。年齢不詳。眼球が異常に大きく、瞳孔が開ききっている。口元は裂け、歯茎から血が滲んでいる。


男が笑う。


私の口も、笑う。


その時、手首のスマートウォッチが震えた。


蓮からのメッセージだ。


『カナ、すごいよ。今、君の「感覚」がマーケットに流れてきた』


心臓が跳ねる。


蓮? どういうこと?


必死で指を動かそうとするが、私の意思は完全に無視され、体は勝手にキッチンへ歩を進める。


通知が続く。


『「極限の恐怖と絶望」……このタグ、最高値で取引されてる。僕もさっきアクセス権を買ったんだ』


『今、君の首筋をなぞってるのは、僕の指だよ』


『……ねえ、もっと震えて。もっと鳴いてよ』


「……ぁ……」


声にならない悲鳴が漏れる。


蓮は助けてくれない。


彼は今、私の恐怖を「コンテンツ」として購入し、安全な場所で私の絶望を指先で味わっているのだ。


同期した。


声ではなく、振動が直接頭蓋に響く。


キミの神経、すごく敏感だね。だから選んだんだ。


「誰……あなた、誰なの……」


名前なんてどうでもいい。大事なのは、キミがこれから何をするか、だよ。


LINKのシステム音声が、冷ややかに頭蓋に直接響く。


《システムアップデート完了。あなたの神経系は、現在「パブリック・ストリーミング・モード」に移行しました》


《あなたの苦痛は、世界中のユーザーの娯楽として最適化されます》


「やめて……誰か、切って……!!」


叫びは届かない。


それどころか、何千、何万という「未知の誰か」の指が、私の全身を愛撫し、爪を立て、皮膚を剥ごうとする感覚が一気に流れ込んできた。


世界中の人間が、私の神経に指を突っ込んでいる。


男が自分の左目に指を突き立てる。


私の左目に、想像を絶する激痛が走る。


眼球が潰れる。視神経が引きちぎられる。温かい液体が頬を伝う。


悲鳴を上げようとするが、声が出ない。喉が締め付けられている。


男の視界が暗転する。


同時に、私の左目も見えなくなる。


脳が、過負荷で沸騰する。


6

私の右手は、迷いなく包丁を手に取った。


刃が、首筋の「マーキング」にピタリと当たる。


鏡に映る私は、私自身の意思とは無関係に、これ以上ないほど美しく、狂気に満ちた笑みを浮かべていた。


さあ、フィナーレだ。


脳内で、数万人分の吐息が重なり、巨大な振動となって響く。


刃が、皮膚を裂く。


熱い液体が溢れ出す。


でも、私は「死ぬこと」さえ許されない。


LINKの機能が、私の意識を強制的に覚醒させ続け、失血死のプロセスを「最高にエロチックで残酷な感覚データ」として一秒ずつ引き延ばし、世界中に配信し続ける。


意識が遠のく直前、私は見た。


私の部屋の窓の外。


スマホを片手にこちらを見上げ、恍惚とした表情で自分の首をなぞっている、見知らぬ通行人たちの姿を。


7

……。


……。


……ねえ。


今、この物語を読んでいる「あなた」。


今、スマホを支えているあなたの左手の薬指。


少しだけ、ピリピリとした痺れを感じませんか?


スマホが熱を持っているのではありません。


その熱は、私の喉から溢れ出した血の温度です。


あなたは今、無意識に首筋を触ろうとしましたね。


……その指。


本当に、あなたの意思で動かしていますか?


あなたのLINK……いいえ、あなたの「神経」は、もう私と同期しています。


ほら、あなたの耳の後ろ。


誰かが、優しく爪を立てましたよ。


画面を見つめるあなたの右目。


瞬きをした瞬間、まぶたの裏側で何かが蠢いたでしょう?


それは錯覚じゃない。


私の左目を潰した、あの指です。


今、あなたの眼球の裏側を、ゆっくりと這い回っています。


スマホを置こうとしましたか?


でも、指が離れない。


掌に吸い付くような感触。


それは画面の静電気ではありません。


私の血が、あなたの指先に絡みついているんです。


喉が、渇いていませんか?


唾を飲み込もうとして、気づくはずです。


喉の奥、気管のすぐ上に、冷たい刃が当たっていることに。


―――


―――


―――


《同期完了。次のターゲットをロックしました》


《あなたの神経データの収集を開始します》


《抵抗は無効です。楽しんでください》


――了

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