悪魔のバット

SDN

第1話 悪魔参上

 八月の西日がグラウンドの土に長い影を落としている。

 夏の日は長い。午後六時を過ぎても、太陽が稜線の向こうに消えるまでにはまだ猶予がありそうだ。


 レイヴンズフィールド――プロ野球チーム『東京レイヴンズ』が所有する屋外球場で、都心から離れた郊外にある二軍の本拠地だ。収容人数は約三千人。東京レイヴンズは都内にドーム球場を構える人気球団で、二軍の試合ながらも期待の若手選手や調整中の主力選手を見に多くの熱心なファンが訪れる。休日ともなれば地元の家族連れが加わって、それなりの熱気に包まれるのだ。


 ここ数年は暑さが厳しいため、二軍の試合は昼間ではなく夕方に行われることが増えた。現在行われている『東京レイヴンズ』と『仙台スピリッツ』の試合も、開始は17時だった。


『――六番、レフト、真嶋』


 ウグイス嬢に名が呼ばれる。


 真嶋拓己(まじまたくみ)。

 それが俺の名だ。

 大卒四年目の二十六歳。右投げ右打ち。身長178cm。体重80kg。

 強打の外野手としてドラフト四位指名で東京レイヴンズに入団。即戦力として活躍を期待されたが、ルーキーイヤーの序盤にちょっと活躍しただけで、二年目以降は目立った活躍をしていない。一軍に上がってもすぐに二軍に落とされるの繰り返し。四年目の今季に至っては開幕からずっと二軍暮らしが続いている。

 ようするに崖っぷちの選手だ。


 俺は素振りを止め、打席に向かう。

 紅く染まったスタンドから聞こえてくるまばらな声援に蝉の鳴き声が加わることで、大歓声を浴びているような気分になれるのは屋外球場ならではだろう。……そう思っているのは俺だけかもしれないが。


 試合は現在、六回裏。2-2の同点。ワンナウト二塁三塁。犠牲フライでも勝ち越せるという絶好のシチュエーションだ。しかも相手ピッチャーは高卒二年目の育成選手。この回のピッチングを見た限り、ストレートはせいぜい140キロ中盤。変化球のキレもそこまでない。

 ボール球をしっかり見極められれば打てる。

 俺は鼻息荒く打席に入った。


 ……が、結果は高めの速球を詰まらされてのショートフライ。

 観客からため息が聞こえてくる。

 ため息を吐きたいのは俺の方だ。

 絶好球だったのに、バッティングに力みが出てしまった。

 ベンチに戻った俺を、打撃コーチは一瞥すらしなかった。もうお前には期待していない、そんな風に思われているのかもしれない。

 結局、試合は九回に決勝ホームランを浴び、3-2で負けた。


 試合後、俺は居残り練習を志願し、一時間ほどバットを振りこんでからシャワーを浴びて球場を出た。

 ポケットのスマホから通知音が鳴った。

 メッセージアプリの通知欄には見慣れた名前。

 三枝俊介……同じチームの先輩だ。

 アプリを開いてメッセージを見る。


『気にしすぎんな、切り替えていけ』


 試合後にロッカールームで顔を合わせたのに、直接言ってこなかったのは先輩なりの気遣いなのだろう。

 野球は失敗するスポーツだと言われている。打率三割の一流選手でも七割は失敗するのだ。ひとつひとつの失敗にいちいち落ち込んでいてはとてもやっていけない。敗北や失敗の記憶はすぱっと忘れるに限る。出来ない奴は置いていかれるだけだ。

 それでも、いざ実践するとなるとなかなか難しい。

 だから、先輩の気遣いは素直にありがたかった。


『うす。ごちそうさまです』


 俺はそう返信する。


『会話が2、3個抜けてるぞ』


『今流行のタイパってヤツですよ』


『しらん。まぁいい、お望み通り次の休みに飯行こう』


『うす。ごちそうさまです』


 たったそれだけのやり取りだったが、少し気分が楽になった。

 先輩――三枝俊介は、俺より五つ年上で、ポジションは俺と同じ外野手。同郷で同じ高校の出身ということもあって、入団当初からなにかと面倒を見てくれた。同じポジションのライバルでもあるが、練習後にはよく食事にも連れて行ってくれたりと、頼れる兄貴分といった存在だ。


 ただ、そんな先輩もプロ野球選手としては俺とそう立場は変わらない。

 先輩は俊足と守備範囲の広さが売りの選手で、打撃は粘り強く、バントや進塁打など小技も得意。一軍では主に代走や守備固めで起用されていたが、ここ数年は出場機会が減って、今年は二軍暮らしの方が長い。

 プロの世界には、毎年のように次々と甲子園を沸かせた怪物や、大学、社会人野球で名を馳せたトッププロスペクトどもが入ってくる。


 つくづく厳しい世界だと思う。

 気を抜けばあっという間に追い越され、結果が出ない選手は容赦なく淘汰される。華々しい活躍する選手の足元には、競争に敗れた選手たちの骨が無数に転がっているのだ。

 二軍暮らしが続く俺も、いつそうなってもおかしくない。大卒は即戦力扱いだ。四年目でそれでは将来性なしとみなされても文句は言えないだろう。

 いや、もうすぐそこまでその時は近づいてきているのかもしれない。そう考えると、焦るなと言う方が無理な話だった。




 駅前で軽く夕食を済ませ、帰宅する。

 俺は昨年寮を出て、都内のワンルームで一人暮らしをしている。

 部屋に置かれている家具はベッドとテーブル、それと小さな冷蔵庫と狭い部屋に不釣り合いな大型液晶テレビだけ。テレビは寮を出る際に三枝先輩から譲り受けたものだ。

 プロ野球選手の部屋にしてはあまりにも質素だと我ながら思うが、独身で彼女もいない二軍選手ならこんなものだろう。


 床に荷物を置き、テーブルのリモコンに手を伸ばし、エアコンのスイッチを入れる。設定温度を最低にしてあるので、すぐに冷たい空気が頬に当たり始める。

 そのまま部屋の灯りも点けずにベッドに座り込んだ。壁に唯一貼り付けているアイドルのポスターが目に入る。学生時代に大ハマりしたはずの天使のような笑顔も、今日はやたらと空虚に見えた。


「ふぅ……」


 練習と試合の疲れはあったが、それ以上に精神が参っていた。


 今日の試合は結果を出さねばならない試合だった。

 先日、一軍でレギュラーを張っている外野手が故障で離脱した。その選手には申し訳ないが、二軍で燻っている俺みたいな選手にとっては大きなチャンスなのだ。

 それなのに最低限の仕事すらできなかった。

 今日は三打席ノーヒット。しかも七回の守備から交代させられた。

 打率は今日で二割三分を切った。

 二軍でその数字では話にならない。特に今の一軍監督は「外野手は打ってなんぼ」という価値観の持ち主なので、打てない選手が一軍に呼ばれることは絶対にない。


「くそっ!」


 リモコンをベッドに乱暴に投げつけた。

 壁に当たった拍子に電池が飛び出て、乾いた音をたてて床を転がっていく。

 舌打ちして、それを拾おうと手を伸ばす。


 そのとき、なにか違和感を覚えた。

 電池が転がった先――窓の暗がりに誰かが立っていた。


「――だ、誰だッ!?」


 俺は慌てて立ち上がる。

 さっきまでは誰もいなかったはずだ。

 それにここは五階だ。人が侵入できるはずがない。

 ゆっくりと後ずさりながら壁のスイッチに手を伸ばす。

 ピンッという点灯音と共に部屋が明るくなった。


 ――そこにいたのは、十代半ばくらいの少女だった。胸元の大きく開いた黒いゴスロリ風のドレスを着ていて、まるでマネキンのように静かにこっちを見つめている。


「き、君は……なんだ……?」


 おそるおそる問いかけると、少女はスイッチが入ったかのように、いきなりぴょんと飛び跳ねて一歩前に出る。そして、ウィンクしながら顔の横でピースサインをキメてみせた。


「悪魔参上~! おにいさんの願い、ウチがバッチリ叶えたげるね!」


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