未知に「ごめんなさい!」

イズラ

未知に「ごめんなさい!」

 僕は今、未知と遭遇している。

 ただの不審者、変質者ではない。絶対にない。

 それは──

「……■■」

 未知だった。名前は愚か、奴を形容する言葉はどこにもなかった。強いて言うならば、未知。

 深夜の交差点に立っていた、未知。


 未知は、ただ僕を真正面から見つめていた。濡れた赤色を浴びて、ただ僕だけを待っているようだった。あまりの異様さから、僕は立ち止ったきり、身をよじらせることすらできなくなっていた。目を離すことも、瞑ることもできない。

 その時、未知が一本の指を僕に向けた。その細い指を向けてきた。先端から水が滴り、やがて見えなくなる。何度も何度も。

「■■」

 口を動かしている。声を出している。だが、決して理解してはいけない。

 僕は小さく口を動かし、言葉を返そうと試みる。が、返す言葉は消えた。喉の中で、消えてしまった。

「■■」

 確かに、ものを言っている。未知はものを言っている。

「■■」

 だが、相変わらずだった。

 未だ指を差し続ける未知に、そろそろ何かの感情を発露したかった。だが、これといった気持ちも見つからない。

 すると未知は、ついに手を下ろした。

 下ろしたかと思えば、被っていたレインコートのフードを取った。


「アキ」

 未知だ。

「アキ」

 未知だ。

「アキ」

 未知だ。

「アキ」

 未知だ。ぜんぶ、未知だ。

「アキ」

 分からない。僕には何も分からない。

「アキ」

 僕は何も知らない。知りたくない。

「アキ」

 僕は、知りたくなかった。

「アキ」

 だって、思ってなかったから。

 あんなことになるとは、思ってなかったから。

「アキ」

 だから、それ以上、こいつ知りたくなかった。

 それなのに──

「アキ」

「……レイ?」

 掠れた声。雨音に掻き消された。

 だが、交差点に佇む彼女は、恐る恐るにうなづいていた。

「……ごめん」

 傘を閉じ、まず初めに頭を下げる。大きな雨粒が頭を打ち続ける。

「……僕」

 回りにくい呂律で、何とか言葉を綴ろうとした。

「──全部、間違ってた」

 その時、彼女が初めて話した。

 僕が驚いて顔を上げると、レイは緑に照らされた瞳でじっとこちらを見つめていた。

「私、アキの幸せが一番だと思ってた。正直、世界の何よりも」

「……知ってるよ」

 これまでの幾多ものデートが自然と回想される。僕は、いつもため息ばかり吐いていた。彼女は、レイは──

「なんで? なんで私、あんなことしてたの?」

「……レイが、僕の幸せを願ってたから」

「そうだよね。さっき言ったわ」

 少し口調が砕けてきたレイだったが、僕はまだ腹に力を入れて立っていた。

「……じゃぁ、どうしよっか。これから」

 その勢いのまま、僕に笑いかけるレイ。びしょぬれの前髪は、今までのどの瞬間よりも美しかった。

「それじゃぁ、まずは復縁しよっか」

 瞬間、僕は傘から手を離した。

 だんだんと、雨音がうるさくなっていく。

「レイ、ずっと待ってたんだ」

 傘を拾うことさえ忘れていた。

「アキと、また一緒になれるの」

 口が開く。目が見開く。

 緑の瞳が点滅する。

「だから、すっごく楽しみ!」

 何度も呼吸をして、どうにか酸素を巡らせる。

 そして、瞳が赤く輝いた。

「それじゃ、今からアキの家行こ! それで、残った方の猫──」

 その時、猫の断末魔が脳中に響いた。僕は傘を踏んずけて走り出す。

 ──なぜ、初めに気づかなかったのだろう。

 なぜ、あの心が改まっていると、少しでも期待してしまったのだろう。

「■■■■■!」

 

 必死に走るうちに、トラックとすれ違った。

「……あ!」

 恐怖心に満ちていた僕は、愚かにも考えてしまった。

 時刻は深夜。黒いレインコート。赤信号。

 それを、少しでも願ってしまった。


 立ち止まった。

 初めから、追って来てはいなかった。

 膝に手を乗せて、まずは呼吸を落ち着かせる。

 そして、ふと思い出す。

「……事故だった」

 猫が死んだのは、彼女のせいじゃなかったのかもしれない。

 レイは、本当は猫殺しじゃないのかも。

 ──私じゃない! 信じて!

 それを、僕は勝手な偏見で疑った。

 疑った挙句、警察まで呼ぼうとした。

 ──嘘吐くなよ! メンヘラ女!

 その日、彼女は逃げ出した。

 

「……あぁ」

 やっぱり、やり直してみてもいいかもしれない。

 彼女は猫が大好きだった。

 きっと、もう一匹も可愛がってくれるだろう。

 きっと、俺たち、また幸せになれる。

 だから、まずは真実を聞こう。

 それで、やっと未知と向き合える。

 

 顔を上げ、軽い足取りで振り返った時、鈍い衝突音が鳴り響いた。

「……あ」


 あの音の正体を、僕はまだ知らない。

 絶対に知りたくない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未知に「ごめんなさい!」 イズラ @izura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説