綿津見神

綿津見神1

 二学期が始まった。約一か月半ぶりの教室。教室のベランダに作ったグリーンカーテンは夏休みの間、先生が水をあげていたにもかかわらず、強烈な夏の日差しにやられて枯れてしまった。蔓を手助けするためのネットには茶色く乾いた枯草が巻き付いている。

 授業中、挙手するのは一部の男子だけで、そのほかの生徒は聞き専に徹している。数学の先生は皆に積極的に授業に参加してもらおうと、挙手し、当てられて答えた人にポイントが加算され、そのポイントが成績に直接影響するというシステムを導入しているが、それでも春香は手を挙げない。

 いつものメンバーで固まる休み時間。「みんな仲良く」というクラス目標は誰にというわけではないが、学校という環境上、求められたものを提案し賛成しただけで決まっただけの飾り。新人の担任教師が張り切って作った壁に掲示された目標が書かれた模造紙はただの風景と化している。

 誰も目標に向かって活動していない。女子は特にグループにしがみつくのに精一杯で周りなんか見えていない。自分さえハブにされなければ他なんてどうでもいい。

 春香もそんな人間の一人。今属するグループには気が合うから一緒にいるわけではなかった。同じような性格の同類たち。ただそれだけの理由で一緒に行動している。話はつまらない。

 「トイレのごみ箱からガムの包み紙が見つかった」という議題の学年集会。学年の生徒指導担当の先生と生徒たちの一対多数の取り調べ。「捨てたやつは出てこい」という先生の怒鳴り声だけが響く体育館。犯人が自首するわけもなく、大多数の関係のない人の時間が無駄に消費される。体育座りしているお尻の痛みに耐えながら皆が前方に壁掛けられている時計を見てチャイムが鳴るのを待っている。

 スクールカーストでは下位の春香にとって学校・教室というのは学ぶ場所でも、ましてや友達と仲良くする場所でもない。逃げる場所のない牢獄。居場所を守るための防衛戦場。クラスメイトは媚びる相手であり敵でもある。時に悪口という汚れた武器で蹴落とす。そして己が群れから零れ落ちないように、害のない子羊に姿を変えて、傾く意見に従順な犬となり、グループを楽しませるピエロに就く。

 最近になって耳鳴りに悩まされている。特に夏休みが明けて学校が再開してからはさらに悪化している。

 給食を食べ終えた後の昼休み。教室の前方を占拠しているスクールカースト上位のグループが春香たちのグループをチラチラ見ながら嗤っている。決して直接は言いに来ない卑劣で卑怯な女たち。

 春香たちは気にしない気づかないふりをする。作り笑いはここ数年で身に着けた特技。

 屈辱に感じながらも春香は毎日を過ごす。なんて可哀想な人生。

 けれど今の私は違う。神様になれる素質を持っている。お前らとは違う。

 放課後。皆が部活の準備をしているなか、春香は制服を着て校門を出る。

 ふと視線を上げると道路を挟んだ反対側の歩道で腕を組み、電信柱に寄っかかって春香をじっと見つめる人物がいることに気づいた。

 茶髪のロングで緩くパーマがかかっている。真っ赤な和服を着ていて胸は着物に収まり切れないほど大きくたわわとしている。化粧もバッチリで濃いアイメイクに真っ赤な口紅をさしていて、素足のまま高めの下駄を履いている。

 現代にまるで溶け込めていない奇天烈な格好をした女が学校を眺めているというのに校門に立つ教師も他の生徒も普段通りに過ごしている。そして春香には霊感がないため幽霊ではないことは確かだった。となると、答えは一つになる。

 だが春香には面識がない。あれが誰なのか知らない。だからこちらを見ているというのも自意識過剰なだけで、きっと学校全体を物珍しく見学しているのだろう。高天原には学校がないから。

 春香も周りと同じようになにも見えていない体を装い帰路に就く。女は声をかけてこない。ただ、カランコロンと下駄で歩く音が聞こえ始めた。

 ついてきている。恐怖を感じながらも後ろを見ないよう歩く。

 自宅に近づき、学校周辺までは同じ道を通っていた生徒たちがいなくなる。それでも下駄の音だけは離れない。春香は意を決して振り返る。

「あ、あの。なにか用ですか」

「なんだ、やっぱり見えてるんじゃない」

 二十代後半ほどの若い女は冷たい目をして春香を見下す。

「あんた、随分とつまらない生き方してるのね」

 嫌味に口角を上げた。

「周りを気にして、怯えて。このタイミングであたしに話してきたのもそう。周りに誰もいなくなったからでしょ」

「違います。あなたがずっとついてくるから」

「だったら言えばよかったじゃない。最初から気づいてたんでしょ」

「だって…」

「だって?」

「周りの人は見えてなかったみたいだから」

「そんなこと、あんたが話しかけてきたら全員から見えるようにするわよ。そのくらいの気は遣えるわ」

 春香は無意識に肩ベルトを握りしめる。

「あーあ。新しく現人神がうまれるっていうから見に来てみれば、こんなつまんない奴だったなんて。ガッカリしちゃった」

 女は腰を曲げて目線をわざと合わせてくる。

「ずっと見てたのよ、あんたのこと。あんなに自分を押し殺して、周りに溶け込もうと必死になって。笑っちゃうわ」

 目の前で堂々と嘲笑してくる。

「それが集団生活ってやつでしょ」

 春香は言い返す。が、女は声のボリュームを一段階上げて言い寄ってくる。

「違うわ。あなたがしているのは集団生活じゃなくて集団寄生よ。集団に寄生してるの。寄生しないと生きていけないの。可哀想ったらありゃしない」

 女は目を細めてクツクツと笑っている。

「天之御中主神もどうしてこんなのを選んだのかしら。不思議でしょうがないわ」

 春香は思い知らされる。この女の言う通り、私にはなにもない。春香は下を向く。流したくないのに涙が勝手に流れてくる。

 女は手を口に当ててニヤついている。

「稲荷、あなたはこの子のなにを知ってそんなことを言っているの?」

 春香が顔を上げると隣に天照大御神がいた。

「謝りなさい」

 低い声で怒気がこもっている。

「あんたも物好きね、天照。人間と関わろうとするなんて。以前のあんただったら考えられなかったのに」

「いいから謝りなさい‼」

 天照大御神が怒鳴ると空気が揺れるような感覚がした。春香は少し息苦しく感じる。

 突然、その場が眩しく光って門が現れた。

「ストップストップ! なにやってるの!」

 天之御中主神が飛び出してきた。

「天照、ダメだよ。こっちで神力を放出したら」

 天之御中主神は天照大御神の腕を掴む。

「ごめんなさい」

 天照大御神は素直に謝って反省する。そして天之御中主神は天照大御神のかげにいる春香を見た。

「稲荷も稲荷だよ。この子にちょっかい出して」

 稲荷と呼ばれる女は私は悪くないといった様子で明後日の方を見ている。

「ほら、帰るよ」

 天之御中主神は天照大御神に目でなにかを伝えてから稲荷を連れて門の向こうに消えていった。

「はーちん」

 天照大御神は春香の手を優しく握る。

「行こう」

 九月の中旬。各教科、夏休みの宿題で使用した問題集やノートが返却され始めていた。

 0.5mmの太さで書かれた文字は自分の頭で考えたものもあれば、回答を丸写ししたものもある。同じ筆跡で書かれながらも天と地ほどに価値の差があるそれらは、細かくチェックされることなく「提出した」という結果だけに納まる。

 太陽が西に傾いて、影は東に伸びていく。手をつないだ影は公園に到着した。かつての新興住宅街に在る公園は遊具の塗装が剝がれ、遊具の地面が局地的にえぐれてる様子を見ると、昔は賑わっていたことが窺える。

 二人はブランコに座る。何万何億年も年上の友だちはポケットティッシュを渡してくれた。

「いきなりあんなこと言われてびっくりしたでしょ」

 春香の涙はとめどなく流れる。涙は頬を伝って制服に染みていく。

「あんまり気にしないで。稲荷ってばいつもああなの。特に人間には。祥子の時もそうだったんだよ。意味なく突っかかって。でも祥子は大人だから何事もなかったけど。いや、むしろ怒鳴って追い払ってたかな」

 春香にはその光景が容易に想像できる。あの日と同じ、般若のような顔で掴みかからん勢いだったに違いない。

「はーちんはまだ子どもだもんね」

 天照大御神はブランコに乗ったまま横にスライドして春香の頭をなでる。

「あたしは知ってるよ。人間が生きづらいなか、どれだけ頑張ってるか。だからあたしたちに願ったり、逆にあたしたちを恨んだりする。不安定の中、必死に生きてる」

 寄り添って指で涙を拭いてくれた。

「人間はあたしたちと違って「自分らしく」なんていられない。あたし、世界中を周ってわかったの。人間がどうしてあたしたちを頼ってきてたのか。そしてどうして離れていったのか。いつまでも夢を見ているわけにはいかないから。現実を生きるため。目の前にある理不尽と戦うため。どんなに辛いことがあっても、どんなに苦しいことがあっても、我慢して、耐えなきゃいけない。戦って、明日につなげなくちゃならない。それがどれほど大変でも」

 夕日が現世をオレンジ色に照らす。それがとても眩しい。

「稲荷はわかっていない。はーちんが必死に生きていること。他人から押し付けられた環境で、その中で迫害されないように馴染まなきゃいけない。狭い世界で変えることができない閉鎖空間。自分を優先する人たち。そのためなら他人を平気で傷つける」

「あの人、私の、痛いところ、突いていった」

 春香はべそをかきながら指いじりを始める。

「自分を殺して、相手の顔色窺って。私にはなにもないって。なにもないって。そんなの、わかってる」

 ティッシュで何度も鼻をかんでも鼻水は止まらない。口の中に塩気が満ちる。

「みんなダサイとか、ウザイとか、キモイとか。そればっか。近くでそういう話が聞こえると、それにいちいち反応して耳を欹てるの。自分のことを言ってるんじゃないかって」

 今いるグループに置いていかれたら独りになってしまう。休み時間も独り、教室を移動するときも独り、授業でチームを組む時も独り、行事でも独り。誰も友だちになってくれない。

 私ははぐれ者になりたくない。さみしい奴だと思われたくない。恥をかきたくない。

「はーちんは誰よりも真面目だから色々気になっちゃうんだよね。でもね、知ってほしい。人は案外他人のことを気にしない。と、いうより気にする余裕がないっていうか、興味がないっていうか。だから他人の自分に対する評価は気にしなくていいし、他人の言動に怯えることはない。疲れちゃうでしょ。まあ、「教室」っていう変わり映えのしない退屈な世界で、且つまだ一年が長く感じる中学生で、自分と価値観の違う誰かが目について、その人を悪く言って、自分の優位性を保ったり、それを娯楽にしたりする人もいる。そして、子どもは本能的に群れに加わろうと、馴染もうとする。だから悪く言われれば傷つくし、仲間はずれにされれば辛い。でも、はーちんはそんなクソガキのクラスメイトなんかに一喜一憂する必要はない。はーちんはそいつらよりも何万倍も大人で、何億倍も優秀なんだから。そしてなにより、この太陽神・天照大御神が友だちにいる」

 天照大御神は自分の胸を叩いて笑う。

「どう? 超年上の超先輩の友だちからの超アドバイス」

「なにそれ」

 春香に自然と笑みがこぼれる。

「ま、明日は明日の風が吹くからさ」

 天照大御神はブランコをこぎ始める。その勢いを利用して前方に飛び降りて、体操選手かのように綺麗に着地した。そして振り返る。

「明日海行こ」

「でも学校が」

「そんなの一日くらいサボったっていいじゃん」

 西日に照らされる天照大御神は春香の腕を引っ張って無理やり立ち上がらせる。

「迎えに行くからさ」


 *

「稲荷、僕が言っていることはわかるよね」

「人間にちょっかい出すなって言いたいんでしょ」

「無闇に誰かを傷つけるなって言っているんだよ」

「次の現人神がどんなのか見に行っただけじゃない。それでおしゃべりをしただけ」

「おしゃべり、だけで済まなかっただろう」

「あれは天照が悪いんじゃない。騒ぎ立てたのは天照大御神のほう。私はなんにもしていないわ」

「本当にそう思ってるの?」

「…」

「前回もそうだ。祥子さんに突っかかって問題を起こした」

「祥子…? ああ、伊邪那美のことね」

「これで何度目だとおもう」

「さあ、何度目だったかしら。でも、あんなガキを神にするだなんて。どうしようもなく我がないやつ。大丈夫なの?」

「たった五百年しか生きていない宇迦之御魂神が僕に口出しをするの?」

「やだ、本気にしないでよ」

「最近、あちらの動きが活発になってきたのが、君にはわかるんじゃない?」

「まあね」

「なら、問題を起こすのはこれきりにしてよね」

「…フンッ」

 *

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