その人図鑑

航希

第1話

 僕は喋れない。

 喋る勇気がない。

 そういうのは全部--君の役目でしょ。



「九重さんって、友達多いですよね〜」


「全人類皆友達の精神で生きてますからね!」


 そんなこと微塵も思ってないくせに、君は決まってそう言うよね。


「え、明日来れない? マジかぁ、じゃあさ、今度は絶対行こうな!」


 断られちゃえば、また遊びに誘う気なんて起きないくせに、君はそうやって誤魔化すよね。


「自分がフロアリーダーっすか!? 嬉しいです! 今後も頑張ります!」


 本当はやる気なんか無いくせに、君はそうやって自信満々気に笑顔を見せるんだ。


「いやいや、お前それはねぇって! 誰が見てもワンチャンあるって! ここで決めなきゃ男じゃねぇだろ!」


 それ、本当に思ってる? 君は恋愛なんかしたことないよね。なんでそんなことが分かるのかな。


 ねえ、君は本当に僕なの?




 バイト先に新人が入ってきた。はつらつで、運動神経が良さそうだね。一つ下って聞いたから、部活とかで上下関係が身に付いてるタイプかな。


 僕は辺りを見渡す。このタイプの人にはこの『図鑑』が良い。僕は本棚から図鑑を二冊手に取って一冊を君に渡す。ほら、君の出番だよ。


「お、君が新人の子? よろしくな、俺は九重彩人ここのえあやとだ。君、運動神経良さそうな体型だな。なんか好きなスポーツでもある感じ?」


「よろしくッス、九重先輩! いや、これ見せ筋なだけなんで、運動神経はボロボロなんですよ〜」


 なるほど、筋トレはしてるけど、スポーツはやらないタイプか。じゃあ好きなスポーツの話は要らないね。確かこの手の人が前にもいたな。あれは確か、あっちの本棚の二段目に入れたかな。


 僕は図書館の中を歩いて、もう一冊の図鑑を手に取る。ほら、これでもう一度、喋りなよ。


「最近見せ筋って流行ってるよな! アニメ好きで筋トレアニメ観たらそのまま筋トレにハマったとか、そんな感じか?」


「先輩もあのアニメわかるんすか! まさに筋トレアニメで筋トレ始めた口っすね」


 新人は話のわかる先輩に出会えた事で喜んでいるみたいだ。けど、ごめんね。僕はそのアニメを観たことなんかないよ。ただ前に書いた図鑑に載ってただけ。けど、君が図鑑を読めば観たことになる。


 その後も君は仕事の合間に話題を振って話した。結論としてはなんて事ない、よくあるタイプの新人だったね。


 僕は最初に手に取った二冊の図鑑の内、渡さなかった真っ白な図鑑を開いてペンを走らせる。今日手に入った情報だけでも、この子は十分対応出来そうだ。他の図鑑から情報を合わせて、バイト先の後輩とだけ属性を追加すれば事足りそうだ。


「おっと、俺のシフトはここまでだな。じゃあ新人くん、この後は他の人に教えて貰って。君は物覚えが良いし、今度シフト合う時にはどのくらいできるようになってるか期待してるな!」


「九重先輩、色々教えて下さりありがとうございました! 初日が九重先輩で良かったです!」


「おー、んじゃおつかれー」


 僕はバイト先を後にする。


 三十分ほど歩き、家に着いたと同時に、僕は吐き気と目眩に襲われた。


「うっ……はぁ……今日も、また好き勝手喋ってくれたね」


 僕は、僕の中にいる君に話しかける。


 傍から見れば多重人格に思われるかもしれないが、別にそんなんじゃない。君が図鑑を読んでる時だって、僕の意識はしっかりある。これはただのイメージに過ぎないことは、僕自身がよく分かっている。


 僕は人と会話をする時、引きこもるかのように図書館に入る。


 ここは僕だけが入れる秘密の図書館。


 本棚にある本は、全てが図鑑だ。目の前の人物が欲しい言葉、求めてる行動が記されている図鑑。僕はそれを『その人図鑑』って呼んでいる。この図鑑は僕だけが書くことができ、君だけが表で読むことが出来る。


 同調されるのが好きな先輩には、心から共感するための図鑑を。


 楽しい話が好きな同級生には、面白い会話を記録した図鑑を。


 恋愛話が好きな女子には、恋愛知識が載っている図鑑を。


 君が図鑑を読めば、僕が喋らなくても気に入られる。昔はジャンルごとに図鑑を作ってたんだけど、人と関わるに連れて、個別に図鑑に記した方が言い間違えがないことに気付いた。


 その結果が『その人図鑑』。


 初対面の人なら似たタイプの人の図鑑を一旦読ませつつ、脳内でその人の情報を揃えて図鑑に書き記す。


 図鑑が増えれば増えるほど、ペンを走らせれば走らせるほど、僕の精神は削れていく。


 この上塗りされ続ける嘘に、僕自身が耐えられていない。絵の具が混ざれば混ざるほど黒に近くなるように、僕の本当の色をもう覚えてはいない。


 昔、僕が笑っているところを名前になぞって「七彩の笑顔」と言ってくれた人がいたが、その人が誰だったかなんて覚えていないし、その頃の色なんてもう存在しないだろう。


 図書館を使用後は、反動でさっきみたいに吐き気と目眩に襲われる。僕を守るために君が図鑑を読んでいるのにね。全く、滑稽な話だよ。


「それでも……やめられないんだ」


 図書館が僕の中に現れて、八年ほど経つ。


 八年前、僕は僕だった。引っ込み思案で兄の後ろを付いて回る存在。同級生の友達も居たような気がするけど、兄の同級生と遊ぶことが多かった。兄の同級生は、僕にとっても幼馴染のような存在だったから、自然と僕は僕でいた。


 中学生になってからは年齢を多少意識するようになり、人前では先輩後輩の体を成すように心掛けた。


 そんなある日の下校時間。いつものメンバーで会話しながら歩いていると、よく知らない兄のクラスメイトが僕達に近付いてきて言ったんだ。


『お前の弟ってそんなキャラだっけ? こういうの八方美人、って言うんだろ』


 初めて向けられた蔑むような視線。多分その人は新しく手に入れた知識を使いたかっただけなのかもしれない。けど、子供の頃の経験なんて、そんなもので簡単に人生を狂わせる。


 僕は僕が分からなくなった。何を喋るのが正解か悩み、苦しむようになった時、目の前にこの図書館が現れたんだ。図書館に入って最初に手に入れた図鑑は、『どんな状況でも先輩後輩を続ける』だった。


 そこからは、人前には常に君がいて、図書館の中から、僕が君の様子を見て図鑑を増やしていく生活が当たり前になった。兄や兄の幼馴染達には無理しなくてもいい、と言われたこともあったが、それを君が聞いたところで反応はない。


 まだ図鑑が揃わず、図書館が安定してない頃は、たまに違う図鑑を使ってしまったり、急に僕が前に出てしまったりすることもあった。


 そんな時は必ずこう返ってくる。


『そんなキャラだっけ?』


 この言葉を聞く度に図書館は面積を増し、僕が喋ることもなくなっていった。他人の理想を君に押し付け続け、もう僕が前に出ることなんて、一人で居る時くらいしかない。まあ僕が出なくても、誰も僕に気付くことはないから、関係ないことだよね。


 誰かが図書館の中の僕を見つけてくれないかと願うくせに、僕は引きこもって図鑑を書き続ける。


『ほんと臆病者だな、お前』


 うるさいな、君が守ってくれてることには感謝してるけど、君は僕だろ。


「……吐き気止めくらい……飲むか」


 僕は立ち上がって薬棚に手をかける。と、その時、ポコンッとスマホが鳴った。確認すると母さんからのメッセージだった。


『あんたまだ夏休みなら少しくらい帰ってきたら?』


 続いてまたポコンッという音とともに、母さんからメッセージが飛んでくる。


『大学入ってからもう一年半も顔見せに来ないじゃない。お兄ちゃんだって寂しがってるわよ』


 その兄がいるから帰りたくないんだ。兄の幼馴染達の図鑑は作ってないから、最初の歪な先輩後輩の関係になる。それが僕には耐えられない。


 返信はせず、既読だけつけて吐き気止めを飲んでいると、再度母さんからメッセージが飛んできた。


『九月一日はあんたの二十歳の誕生日なんだから、それくらいは祝われに来なさい。ちなみに、これはおばあちゃん命令です』


 最後の一文に怯む。


 祖母の言葉は絶対。これは我が家系の暗黙のルール。


 つまり、これは有無を言わさない帰省命令だ。


「はぁ……仕方ない。帰るか」




 電車で三十分、そこから私鉄に乗り換えて二十分、徒歩で十分。こんな距離なら正直な話、一人暮らしなんか必要ないだろう。片道一時間程度の通学なんて、今どき普通だ。


 でも僕は、家にたまに来る兄の幼馴染達とは会う気が起きなくて、どうにかして実家から離れて、一人になりたかった。


 そんな僕の感情をどうやって読み取ったのか、祖母は一言「彩人には一人暮らしさせなさい」とだけ言い放った。


 別に祖母は唯我独尊ではない。むしろ温厚で孫に優しい、一般的な優しいおばあちゃんといった印象の方が強い。


 ただ、何か決断や指示をする時は、どうしてか逆らえない。まるで最初からそうすることが決まっているかのように、いつもの声色で、当たり前のように言うのだ。


 これこそが我が家系の絶対君主。


「そんなこと考えてたら、あっという間に着いたね」


 まだまだ陽射しが痛い夏の昼下がり。蝉の合唱も鳴り止むことを知らず。僕は少しでも陽射しと蝉の騒音から逃げるように、パーカーのフードを被った。


 八月三十一日に帰省というのは大学ならではって感じだから、行動自体にちょっとした優越感がある。しかし、それは一般的な話であって、僕は出来れば穏便に終わって早く帰りたいところだ。まあこんなタイミングで幼馴染が集まることなんてないと思ってるけど。


 兄の幼馴染達は、今年就活のメンバーが多い。こんなところで油を売ってる暇などない。いや、ないで欲しい。


「ちょっと悪あがき……いや、寄り道して懐かしみながら帰ろうかな」


 ここまで来てまだ帰りたくない僕は、少しでも実家の滞在時間を減らすために、言い訳を作って遠回りすることを選んだ。


 空き地が一軒家になっていたり、スーパーは逆に空き地になっていたりと、一年半しか土地を離れていないのに、変わるものだ。けど、変わらないものもあった。


「あの駄菓子屋、まだ潰れてないんだ。このご時世に凄いな」


 目の前には僕も通った幼稚園。すぐ側には、その園児達がおやつタイムに買いに来ることがある、昔馴染みの駄菓子屋。園児の足で徒歩一分という激近故に、売上の九割九分は幼稚園からではないかと邪推してしまう。


『はーい! みんなーおばあちゃんにお礼を言いましょう!』


『ありがとーございました!』


 ちょうど、その園児五人ほどがおやつを買って出てきたようだ。


 あれ、幼稚園って八月三十一日も夏休みじゃなかったっけ? それに、お礼を促した幼稚園教諭の声。どこかで聞いたことが--


「あれ? もしかして、あやちゃん?」


「っ!?」


 最後に出てきた女性と目が合う。過去の記憶から安心感が一瞬だけ胸に宿る。が、その直後にそれを覆い隠すほどの焦りと、動揺が津波のように押し寄せてきた。


 僕の事を「あやちゃん」なんて呼ぶ人は、この世に一人しか知らない。


「せ、なちゃ……紫藤先輩」


 図書館が安定してから、初めて僕が喋りそうになった。だが、すんでのところで耐え、僕は図書館に逃げ込み、とりあえずその場にあった対女性の先輩図鑑を君に投げ付けた。


「お久しぶりです。紫藤先輩が高校に入ってからは自然と疎遠になってましたね」


 はフードを脱いで穏やかに笑うと、いつも通りに図鑑を読んだ。しかし、目の前の女性はを見て首を傾げた。


「あれ、紫藤先輩なんて初めて呼ばれたかも。昔みたいに星凪ちゃんで良いよ?」


「…………」


 から次の声が出ない。


 その言葉の答えを、は持ち合わせていない。


 紫藤星凪しどうせな。兄の幼馴染、紫藤家姉弟の姉だ。兄よりも年上かつ、僕は特に星凪ちゃんに懐いてたからか、兄の幼馴染の括りとはまた違う存在。


 僕はこの人の図鑑を、作っていない。星凪ちゃんと会わなくなったのは、図書館が現れる一年前だから、作ってないのは当然だ。


 しかし、それが仇となり、星凪ちゃんの満足する言葉が載っている図鑑がどこにもない。今から作ろうにも、最初に感じてしまった安心感のせいでペンが使えない。


 呆然と立ち尽くしていると、星凪ちゃんの後ろから一人の女性が現れた。


「紫藤さん、そちらの方は?」


「あ、すみません! 幼馴染に九年振りに会って話しちゃいました。あやちゃん、この人は私の職場の先輩で森さん。森さん、私の幼馴染のあやちゃ……じゃなくて、九重彩人くんです」


「あら、じゃあこの子が紫藤さんが幼稚園教諭を目指したきっかけの?」


「あ、ちょっと、それ言わなくていいやつですから!」


 星凪ちゃんの職場の人が声を掛けてくれたおかげで、呼吸をする事に集中出来た。僕は心を落ち着かせ、森さんを利用して、いつものを用意することにした。年上の社会人女性ってだけなら似た図鑑はある。


「初めまして、九重彩人と言います。紫藤さんがお世話になっております。紫藤さんには自分も幼い頃にたくさんお世話になり、姉のように慕っていました」


「うん? 今度は紫藤さん?」


 星凪ちゃん、お願いだからそれ以上喋らないで。図書館が機能しなくなるから。


 森さんへの最初の掴みが成功したのか、森さんは感心した様子でこちらを見て頷いていた。


「あら、礼儀正しい子ね〜紫藤さんの教育の賜物かしら? なんて。初めまして、森と言います。紫藤さんにはこちらもたくさんお世話になっているわ。さっ、紫藤さん。今日はこの子達を幼稚園に帰したら、もう上がっていいわよ」


「良いんですか?」


「九年振りの再会なんでしょう? 話したいことをたくさん話すといいわ。そもそもあなた、今日は休みのはずじゃない」


「子供と遊ぶのが楽しくて、つい……えへへ」


 星凪ちゃんはわざとらしく頭を掻き、反省してないことが分かる笑い方で誤魔化す。


 森さんは呆れた様子で「さっさと上がってもらわないと……」と言っている。が、僕としては非常に困る。まだ対応方法が決まってないんだ。


 ほら、君もどうにかして時間を稼いでよ。


「……良ければ、自分も子供たちのお世話をお手伝いします。ただの大学生なので、大したことは出来ませんが」


 それ、ナイスアイディアだよ! 子供の図鑑は少ないけど、大学に子供向けアニメとかゲームに詳しい人がいたはず。その人の図鑑を探してくるから、とりあえず君は近くにあった子供の図鑑を読んでて。


「あら、お姉ちゃんに似て子供好きなのかしら。でもね、幼稚園自体はまだ夏休み中で、この子達は預かり保育の子達だから、来てもこの子たちと遊ぶくらいよ? この後はお昼寝の時間もあるし、無理はしなくていいわよ」


 違う。僕はこのまま、星凪ちゃんと帰る方が無理をすることになるんだ。


「実は帰省したはいいものの、実家の鍵を忘れてしまって。家族も出払っているのでどうしようかと思っていたんです。駄菓子屋にも時間潰しで来たところだったので。自分が紫藤さんの役を担えば、紫藤さんは休めますよね」


 鍵は持ち歩いてるし、家族が出払ってるなんて聞いてない。時間潰しで歩いてて、駄菓子屋に行き着いたところだけが本当だ。ほんと、よくこんなにポンポンと言葉が繋がるね。さすが僕を守る盾……っと、これだ。この人の図鑑なら、子供向けアニメやゲームのキャラが書いてある。これに子供の図鑑を合わせれば、ボロが出ることなんて無いはずだ。


「そう? じゃあお昼寝の時間まででいいから、お願い出来るかしら」


「なーあんた、だれ?」


 森さんから了承を得たところで、ちょうど園児の一人が服の裾を引っ張って話しかけてきた。大人たちで話しているのに我慢が出来なくなった様子だ。


 図鑑は揃ってるから子供の対応に問題はない。は片膝を地面に着け、子供に視線を合わせる。


「おー俺は星凪せんせーのお友達で、九重彩人だ。よろしくな」


「ここここあやと?」


「ははっ、名字難しいよな! あやと、でいいよ」


「あやと! おれはだいき! おっきくかがやくだいき!」


「大輝か! かっこいい名前だな」


「へへん! パパがこう言うとかっこいいっておしえてくれたんだ! なーあやと、あそぼ!」


 元気ハツラツな大輝に腕を引っ張られ、は幼稚園へと向かう。


 後ろから「うーん?」と唸る星凪ちゃんの声を聞こえないフリをして。




 駄菓子屋で買ったお菓子をおやつに食べ、小一時間遊ぶと、子供たちはお昼寝の時間になった。子供達の体力は無尽蔵と聞くけれど、本当に色んな遊びを思いつくね。僕も一緒に寝たいくらい、身体的には疲れた。


「あやちゃん、子供達寝ちゃったしそろそろ帰ろっか」


 背後から聞こえる安心感を覚える声に背筋を凍らせる。これ以上はもう、逃げられない。


 は声を発さずに、頭だけで返事する。子供たちを起こさないように頷いた風に見えるが、単に声が出ないだけだ。


 ここまで一度も、星凪ちゃんとまともな会話なんて出来てない。君が喋ったところで星凪ちゃんの反応は乏しく、最低限の受け答え以外はこちらを見て首を傾げていた。


「それじゃあ森さん、私達は先に帰ります。お疲れ様でしたー」


「ええ、お疲れ様。明日は土曜だから来ても子供はいないからね」


「明日はちゃんと休みますって!」


「あ、九重くんもありがとう。本当に助かったわ。やっぱり若い男の子が遊んでくれた方が子供たちも楽しいわよね」


「あの、私もまだ二十五ですから。それにパワーもありますから」


「本当なら一日分の給料を出してあげたいのだけれど、私ではどうにも出来なくて……ごめんなさい」


「任せて下さい! 私があやちゃ……九重くんに働いた分の報酬をしっかり渡しますから」


「あら、じゃあお姉ちゃんにお任せしようかしら」


 二人が色々と会話をしているが、僕はこの後をどう乗り切るかで頭がいっぱいだった。最低限のマナーが出来るように図鑑を渡しておいたから、君が森さんに不快な態度をとることはなかったのがせめてもの救いだ。


 幼稚園を出て、少しだけ傾いた太陽が僕らを照らす。ああ、このまま溶けていなくなれたらいいのにな。でも--


「あやちゃん」


 --たった一言だけで、現実へと連れ戻されるんだ。


「なに?」って言えばいいの?


「なんですか、紫藤先輩」が正しい?


「俺に何か用かよ」って突き放す?


 答えが、分からない。


「喋らなくてもいいよ。私の話を聞き流しながらで良いから、ゆっくり歩こっか。ああ、あやちゃん家には連絡してあるよ」


 僕の声が聞こえてたかのように、言葉を繋げる星凪ちゃん。驚いて顔を見ると、星凪ちゃんは得意気にスマホの画面を僕に見せてきた。そこには『あやちゃん確保!』というメッセージと、星から手足の生えたよく分からない、大して可愛くもないキャラクターがドヤ顔しているスタンプが送られていた。宛ら子供の家出を捕まえたかのような扱われ方だ。


 そもそも星凪ちゃんはなんですぐ僕だと気付いたのか。なんで首を傾げていたのか。なんで喋らなくてもいいと言ったのか。


 聞きたいことはたくさんあるのに、君は声を発さない。君の言いたいことは分かるよ。


 それは役割から逸脱しているから僕が前に出ろ、君はそう言いたいんだ。


「それにしてもほんと久し振りだね、あやちゃん。見ない内に私より背も大きくなって、大人っぽくなったね。でも見た目は成長しても、中身は変わってなかったから、私からしたらまだまだ可愛い弟って感じだね〜」


 星凪ちゃんは曇りのない表情で僕に話しかける。しかし、僕は星凪ちゃんの言葉が理解出来ず、余計に混乱する。


 変わってない? 星凪ちゃんと再会してから僕が出たところなんて、一番最初に喋りそうになったところ以外なかったはずだ。昔の僕しか知らないなら、変わったことに驚くと思った。実際、両親と兄には図書館が出来た頃に、兄離れが出来て成長したと言われたくらいだし。


「最初、声掛けた時の返しには少し驚いちゃったな。『紫藤先輩』なんてさ。ふふっ、そもそもあやちゃんとは五歳離れてるんだから、先輩後輩になったことなんて無いのに。何そのキャラ〜って、おかしくなっちゃった」


「あっ……」


 続く星凪ちゃんの言葉に脳がフリーズした。季節は夏のはずなのに、手足が凍ったように冷たく、感覚があるかも分からない。


『そんなキャラだっけ?』


 過去に言われたあの言葉が、フリーズした脳内で繰り返し再生される。


 完全に間違えた。星凪ちゃんに女性の先輩の図鑑を使った時点で、全て失敗だったんだ。


 でも既に図書館の中を駆け巡り、他に星凪ちゃんに合う図鑑が無いことはもう分かってる。今から作ることも出来ない。


 もう、僕が出るしかないのだが、一番聞きたくない言葉を、星凪ちゃんの口から聞いてしまったことで、図書館の扉はいつも以上に固く閉ざされていた。


「その後、森さんと会話する時は『紫藤さん』だった。そして大輝くんと話す時は『星凪せんせー』って言ってたね。一人称も『自分』だったり『俺』だったり、どれも言い慣れてる感じなのにどれも言い慣れてないような、不思議な感じがした。……あっそうだ。昔よく遊んだ神社に行こっか」


 星凪ちゃんが僕の手を取り、神社に足を向ける。僕は抵抗せずについて行くが、そんなことよりも、その直前の言葉が頭から離れない。


 ありえない。これまでに身分がバラバラな団体での会話も何度だってしている。今回だってその応用に過ぎない。


 星凪ちゃんに対しては失敗したかもしれないが、森さんや大輝、他の子供たちに対しては失敗してない。それなのに星凪ちゃんから見ると、全部歪な僕が動いているように見えたというのだろうか。


 僕が混乱している内に、神社に到着した。星凪ちゃんは僕の手を掴んだまま、近くのベンチへと案内された。


「このベンチね、去年出来たんだ。この形、覚えてない?」


 それはとてもベンチとは言い難い、ただ大木を半分に割り、中を括り抜いて表面を座りやすい造形にしただけの、倒れている大木の一部でしかなかった。


「あやちゃん、この大木が大好きだったよね。かくれんぼの時はいつもこの中に隠れてさ、それだから私にすぐ見つかっちゃうんだ」


「!! ……落雷の、守護神」


 僕が忘れていた好きだったものを、星凪ちゃんの口から伝えられる。


『落雷の守護神』


 数十年前、この地域が大嵐に遭った時、一本の落雷が神社の大木に落ちた。


 大木は、落雷により火災を起こすことはなく、甚大な被害が予想されていた地域一帯はこの大木への落雷のみで抑えられた。


 しかも、その大木は身体の半分以上を削られているのに、正面から見ると普通の大木に見え、倒れる様子が全くないほど悠然とした姿で立っていた。以来、その大木はこの地域の守護神として語られるようになった。


 僕はこの大木が大好きで、木の中によく隠れていたことを思い出した。子供二人くらいなら余裕で入れたから、当時は星凪ちゃんを連れて入ったこともあったな。


 ……なんで今まで忘れていたのだろう。


「そう、落雷の守護神。流石に老朽化が進んで危ないからって、惜しまれながら撤去されちゃった。でもね、地区の人が何とかして残そうって行動して、形はそのままにベンチになったの。座り心地は全く良くないんだけどね」


 星凪ちゃんはベンチをそっと撫でた後、そのベンチに座った。そして立ったままの僕を促すように、左手でベンチを叩く。僕は抵抗することなく星凪ちゃんの横に座った。


「今のあやちゃんを見てるとね。落雷の守護神の中で泣いてたあやちゃんを思い出すんだ。正面から見たら、泣いてる子なんてどこにも居ない。でも、裏に回ると木の中で蹲って泣いてる子がいる。……ねえ、あやちゃん。それは本当に成長した姿? それとも、今もこの大木の中でかくれんぼをしているのかな?」


 星凪ちゃんが僕に向けて微笑む。あの頃、一緒に大木の中で会話をした時と変わらない笑顔で微笑む。星凪ちゃんがずっと何を言いたかったのか分かった気がする。


 星凪ちゃんは最初から、図書館の中の僕に話しかけていたんだ。僕は星凪ちゃんの前でも君を盾にしていたのに、星凪ちゃんはずっと僕にしか話しかけていなかった。


 なにか……なにか、言わなきゃ。ここでなにか言わないと--僕はもう図書館から出られない。


 僕は急いで図書館の扉を開ける。さっきまで絶対に開かないと思っていた扉は、拍子抜けするほど簡単に開いた。


 僕はとにかく何か話すために口を開けようとした。


「ストップ」


 しかし、喋る直前に星凪ちゃんの手によって阻まれた。


「ごめんね。もう少しだけ……私のターンでも良いかな?」


 せっかく喋る勇気が出たのに……とも思ったが、この安心する声をずっと聞いてもいたいし、星凪ちゃんが他に何を考えているのか気になったから、素直に頷いて黙ることにした。


「私は、ね。かくれんぼをしたままでも別にいいと思うんだ。大人を知れば知るほど、あやちゃんのかくれんぼってとっても貴重な能力だと思うの。だから、それは必要なものって思っても良いんじゃないかな。あやちゃんは、ちょっと大人のスタートが早かっただけなんだよ」


『そういうのは全部、君の役目でしょ』


『君は本当に僕なの?』


 僕が君に対してずっと言ってきた言葉。自問自答を口にしたことなんてない。でも、星凪ちゃんはそれを聞いたことがあるかのように、否定した。いや、否定とも違う。僕と君、両方を肯定したんだ。


 九年も会ってないのに、なんで僕の欲しい言葉が分かるのか。僕自身が図鑑を読まれているのではないか、と思ったけど、星凪ちゃんがそんなこと出来る性格じゃないのは、図鑑がなくても覚えてる。


「裏で泣いてる子は、私が見つけて慰めてあげれば笑顔になるんだよ。彩やかで、吸い込まれるような、七彩の笑顔を向けてくれる。そんな子、放っておけないよね」


 こちらを見て小さく笑う星凪ちゃん。悲しんでるのか、ただ微笑んでいるだけか。どちらか分からないけど、もう星凪ちゃんと会話をすることに、躊躇いはなかった。


「……僕、そんな泣き虫じゃなかったよね」


「そうかな? 雨上がりに架かる虹と掛けての七彩の笑顔って印象だよ?」


「それ、恥ずかしいからもう言わないで」


「えー、可愛いあやちゃんにぴったりだと思うのになー」


 言葉が浮かぶ。図鑑なんて無いのに。


 会話ができる。僕の言葉で。


 星凪ちゃんは僕が喋り出しても全く驚かず、このタイミングで言い返してくると分かっていたかのような返しをしてきた。


 一体この人はどこまで予測していたのだろう。それとも、最初から予測なんてしていないかもしれない。そう、星凪ちゃんは昔からこういう人なんだ。


 それから、僕たちは昔と変わらず、大木の傍で会話を続けた。


 八年前にあった出来事。そこから変わった日常。目の前に現れた図書館のこと。先程の星凪ちゃんへの態度。聞いて欲しいことはたくさんあった。星凪ちゃんはどんな話も静かに頷きながら聞いてくれた。時折、「凄いね」や「頑張ったね〜」などと、まるで子供を喜ばせるような褒め方をされて照れくさかった。


 気付けば、日はとっぷりと沈んで、外灯がつき始めていた。家族に伝えていた到着時間を既に何時間もオーバーしている。


「そろそろ帰らないと、だね」


 星凪ちゃんが会話に区切りをつけて立ち上がる。僕も少し遅れて立ち上がり、星凪ちゃんに向かってお礼を言った。


「うん。たくさん聞いてくれてありがとう、星凪ちゃん」


「もうかくれんぼはおしまいかな?」


 星凪ちゃんが少し意地悪な表情で聞いてくるが、僕は首を振った。


「続けるよ。でも、終わるタイミングを教えてくれる人がいるって気付いたから--大丈夫」


 僕の返しに、星凪ちゃんは目を見開いたまま静止した。ここまで話してきて一度もこんな反応はなかったのに、どうしたんだろう?


 僕が首を傾げていると、星凪ちゃんの表情は徐々に柔らかくなっていった。


「……ふふっ、変わらないって言ったのは嘘だったね」


「え、何その含みのある言い方。変わったってこと? どこが?」


「んー? その答えは明日かな〜にひひ」


 星凪ちゃんは誤魔化すように笑って、帰るために歩き始めた。それは普段落ち着いた笑い方をする星凪ちゃんには珍しい、少し幼い感じの笑い方だった。いつもと違う笑い方が気にはなったが「明日」という単語に喜びを感じてしまい、意識が上書きされる。


 僕は星凪ちゃんを追い掛けて質問した。


「それって、明日も会ってくれるってこと?」


「おや、まだ帰ってる途中なのにもうお姉ちゃんが恋しいのかな? なんてね、にひひ。冗談は置いておいて……もちろん、会うに決まってるでしょ! あやちゃんの二十歳の誕生日を祝わないなんて、姉として失格だよ。ボスと計画立てるの大変だったんだからっ」


 星凪ちゃんは先程と変わらず、幼めの笑い方で答えてくれた--のは良いんだけど、


「ボスって……おばあちゃん?」


「……あっ」


 口を滑らせたことに後になって気付いたのか、星凪ちゃんの顔から生気が抜け落ち、辺りを照らしていると錯覚させる笑顔の光が、一瞬にして小さくなった。


 星凪ちゃんは昔から九重家の絶対おばあちゃん君主をよく知っている。それどころか、おばあちゃんに大変良く懐いており、おばあちゃんのことを「ボス」と呼んでよく二人で喋っていた覚えがある。


「てことはもしかして……二十歳の誕生日前におばあちゃん命令が出たのって、星凪ちゃんとおばあちゃんが仕組んだ?」


「あー、っと……こ、このことはボスには内緒にしてね! 怒ったら物凄く怖いのは、あやちゃんも知ってるでしょ!」


「いや、我が家の絶対君主を気軽に怒らせる気はないから言わないけど……ははっ」


 星凪ちゃんの珍しい狼狽えぶりに、つい面白くなって笑ってしまった。


「うーん、なんか私が笑いの種にされるのは釈然としないけど……やっと笑ってくれたね、あやちゃん」


「星凪ちゃんが慰めたら笑顔になるんでしょ」


「あーあ、生意気を言える余裕も手に入れちゃってさー」


 星凪ちゃんは一瞬怒ってるフリをしたが、その直後にまた暗闇を照らす太陽の笑顔に戻った。


「おかえり、あやちゃん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その人図鑑 航希 @wataru-nozomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画