児戯

惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

 夕暮れ。

 皆んな帰っちゃって、公園にひとり。

 本当なら、僕もウチに帰らなくちゃいけないんだけど、なんだか全然遊び足りないような。だから、自転車に乗ってぐるぐる回る。できるようになったばかりの立ち漕ぎ。で、きこ、きこ、きこ。

 遊び足りないな。

 と僕は思ったのだ。はっきりと。

 でも公園には、誰もいない……僕は……すっごく、寂しくなっちゃって。それから、喉がひどく乾いてきて。自転車を止めて、水道の蛇口を捻って、ごくごく・ごくごくと生ぬるい。でも、あんまり飲みすぎるとごはんが食べられなくなる、だから、お母さんに怒られる。と思ったけれど。やめられなくて。ちょっと飲みすぎたかな、というくらいで、蛇口をキュポ……と閉めた。

 お腹のなかの海がちゃぽちゃぽ、ちゃぽちゃぽ……

 それで、帰らなくちゃな、と僕は思った。


 家が並んでる。それを右へ、左へ。僕はきこ、きこ、きこと自転車漕いでウチを目指す。ペダルをぐっと踏み締める、そのたびに、お腹のなかで、水がこう、たぷ、たぷ、たぷ、と揺れる。それが少しだけ面白くて……

 犬を連れたおばさん(犬は一瞬だけ僕を見て、ぷいっ、と正面を向いた)。

 酒屋の前を通った先に小さな神社。わずか三段だけの石段におじさんが独り座っている。肥っている。禿げている。汗をかいている。おじさんはとても疲れているみたいに、がっくりと下を向いて座っている。膝のあいだの手と手。指と指。それががっしりと組まれている。なんだか、お祈りしているみたい。

 僕は何となく自転車を止めておじさんを見た。

 しばらくして、ゆっくり、ぎこちなく、おじさんは顔を上げた。知らないおじさん……僕は……おじさんの、黒く濡れた大きな目を見つめていた。

「大変なことになっちょるよ」おじさんがつぶやいた。とても優しい声だった。

「こんにちは」と僕はいった。

「はい、こんにちは」とおじさんが言った。おじさんは顎をすこしかいて、また手と手を、指と指を組み合わせて、お祈りをするポーズ。で、もう一度、「大変なことになっちょるよ……分かる? 坊や」

「大変なこと、ですか?」

「うん。ほら、見なさい」

 おじさんが、左手(ええと、向かって左、なので、おじさんにとっては、右手)を、左側(僕から見て、左、ということ)に向かって掲げて、指先。僕はその、指し示すほうを見た。

 指先に向かって道路。左側にはアパート、家、家。右手に、こじんまりとしたビニールハウスと畑。指先の道路はまっすぐ伸びて、ずっと向こうでT字路。その、更に先に空。夕暮れの太陽。太陽。でも変。それは変だったのだ。

 太陽は、ぶよぶよと膨らんで、とても大きくて、青白い。

 あれっ。

 と……僕は思った。まるで弱々しい。生ぬるい太陽……

「そうなの。青白い。ぶよぶよぶよぶよしちょる……人の世の終わり……だから、大変なことになっちょる」

 おじさんはそう言って、鼻を啜った。そのあと「きみ、いくつ?」と聞いてきたので、「九歳です」と僕は答えた。

 ほおん、とおじさんは言った。そのあと「お父さんと、お母さんは?」と聞いてきた。

「ウチにいます」

 おじさんはまた、ほおん……と言って、

「帰るの?」

「うん」

「そりゃええね。それがいい。一番いい……」

「でも……」

「でも?」

「なんだか、遊び足りないんです。遊び足りないんだ、全然」

 ほおん、とみたび言ってから、急におじさんは怖い声で、

「帰りなさい。早く。ご両親のところへ」

 と言った。

 僕は自転車に乗って、おじさんと青白い太陽に背を向け、ウチを目指した。


 ウチについた。手を洗った。うがいもした。

 ウチにはお母さんも、お父さんも、それからハミングもいた。ハミングはヘッヘッヘッヘッ、ヘッヘッヘッヘッと言った。

 僕はハミングの頭をごしごしと撫でた。

 ダイニングへ行くと、テーブルいっぱいにごちそうが、エビフライ、ハンバーグ、スパゲティ、目玉焼き、ソーセージ、そういうのがもう、たくさん並んでいて、僕はさっきの公園でたぷたぷになったお腹をちょっとだけさすった。

 お父さんはもうビールを飲んでいて、顔がちょっと赤くて、ニコニコとしていた。お母さんも、ニコニコとしていた。僕もニコニコとしていたし、ハミングもニコニコとしていた。

 僕が椅子に座ると、お父さんが「それじゃあ、さいごにお祈りをしようか」と言った。「そうね」とお母さんも言って、椅子に座った。

「だれに? なにを祈るの?」と僕はたずねた。

 お父さんとお母さんはただ笑ったきりだった。

 それで、僕とお父さんとお母さんは、それまで一度もそんなことしたことはないのに、テーブルを囲んで、手を繋いで、お祈りをした。僕はお腹が空いているような気がしたし、でもまだ生ぬるい水道水はお腹の底でたぷりたぷりと波を打っていた。お父さんとお母さんが目を瞑ったので、僕も目を瞑った。ヘッヘッヘッヘッ、ヘッヘッヘッヘッ。ハミングの声がした。ハミングは僕の足元にいた。僕はハミングの腹を足のつま先でそっと撫でた。

 まぶたの裏側の薄ぼんやりとした暗がりが徐々に明るくなってきた。

 すこしだけ目を開けると、閉じ切ったリビングのカーテンの隙間からあの青白いぶよぶよぶよぶよとしたやわらかな光が部屋のなかに差し込んできてそれは徐々に強くなったけれど優しい光、光、光がどんどん大きくなって僕はお父さんとお母さんを見てお父さんとお母さんも僕を見てそれでもどんどん青白い光がまぶしくて僕はもう目を開けていられないのでまぶたをぎゅっととじるのにその隙間からぶよぶよぶよぶよとした光が青くて、白い。

 それから…… 

 やがておおきなものがぼくたちを包み込む。僕とお母さんとお父さん。そしてハミング。そして、そのときになって気づいた、のだけれど、とても、大きな音、がする。それは数知れぬ叫びが壁のように巨大に埋め尽くす。空気。空気そのもののように。

 光。光がおおきくなる。ぶよぶよ。つま先にハミングの柔らかなお腹の感触。

 それで、僕はさいごに、


 遊び足りないなあ。まだまだ、

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