邂逅

@Lilly_Lin

           

    

今年も桜の季節が来た。亜紀子は自分の名前にも拘わらず、桜が好きだ。多くの日本人がそうだと思うが、亜紀子も御多分に漏れていない。長い冬を耐えて来てのトランジエント・ビューティーが何ともたまらないのだ。


♢♢♢儚きは 人の世もまた 桜散る


家族連れで賑やかな公園を独り身の亜紀子は、優しい桜の花弁の色に淡い恋の思い出を密かに蘇らせながら独りゆっくり歩みを進めていた。


♢♢♢人の世の 織りなす出会い 桜道

     すれ違っては 一期一会


時間の流れが、道行く彼らとは違う。ゆっくりと歩を進める亜紀子の左胸の上、左肩の下辺りに一枚の桜の花弁がひらり、ひらりと舞い降りた。淡い桜色の花弁の色に思い出が蘇る。「亜紀子さんの、その爪の色がいいんですよ。桜の花びらみたいで。」と洋平に言われた事があった。亜紀子は普段マニキュアをしない。水仕事で剥げてしまうからだ。唯一たまにする色がその桜色だった。丁度、亜紀子の爪の形が花びらの形に似ていたのだろう。洋平はそう言ってくれた。

 川辺にしなだれる枝垂れ桜のこのお花見スポットに独りで来るようになって何年目だろうか。河川敷では3人家族が茣蓙を敷いておにぎりを食べている。「ああいう風に食べるおにぎりって美味しいんだよな」と思わず声に出しそうになる。土手の上には菜の花も咲いている。菜の花と桜と電車の写真を撮りに来ている人達もいる。水面に映る桜もその美しさを倍増させている。ここはガイドブックには掲載されていない、地元の人のみ知る桜スポットだ。この地元感がなんともいい。夜になると提灯がともされ、屋台も出る。夜桜もまたなかなかである。こういうお日柄のいい日も格別だが、雨の桜もまた人が少なくて、情緒がある。


♢♢♢雨桜 持ち堪えてそ 和の魂

     甲子園児は バットを振りつ 


独り桜を眺め歩きながら、広大な宇宙を感じ、この無限の宇宙の中で、何十億年もの時の流れの中で、彼と出会った奇跡を不思議に感じると共に、だからこそ、貴重で有り難く、感謝の念が心の底から沸いて来るのであった。出逢えて良かった。まだ好きだとかやり直したいだとかとは違った感情だが、そう思え、別れたけれど本当にそう思えるのだった。


♢♢♢時空の宇宙(そら) 淡き桜 巡り会い

    


 洋平と別れてから何年経っただろうか。亜紀子は、未だ独り身でOLをしている。別れの悲しみを癒してくれたのは唯一、仕事だった。仕事をしている時だけは失恋の痛みを忘れられた。仕事が終わると悲しみが戻って来る毎日。朝が来て仕事に行き、また悲しみを置き去りにする。その繰り返し。そういう毎日を積み重ねていくうちに、いつの間にか気づいたら悲しみが少しずつ薄れて来ていた。「時間薬ってよく言うけれど、こんな風に洋平を忘れていくのかな。」仕事からの帰宅途中、進行方向とは逆向きに座った電車の中の亜紀子の視線の先で、カーブを描く線路を眺めながら、ふと、そう思った。無意識に人の波に身を任せ、電車を乗り換える。22時を過ぎた夜更けの車両でI Podで坂本龍一のLost Timeを聴きながら、電車の一番端の席に寄りかかって立ち、斜めに映る車窓からの流れる夜景をぼんやり眺めながら、私はあなたの遠い記憶から消えてゆく…。その夜、帰宅した亜紀子は、湯舟に湯を溜め、体育座りをして、鼻の下まで湯に浸かった。爪先が水面から顔を出し、水紋が出来て小窓からの光りが当たっている。その水紋を見つめながら、亜紀子は洋平の事を考えていた。私の事なんて忘れているだろうか。いつか冬のデートの帰り道、並んで座った電車の席で話をしていた時に、洋平が母親の家に立ち寄った話をしていた。帰り際、手袋をしていなかった洋平に、母親が慌てて「これしていって。」と真っ赤な手袋を差し出したと言う。「こんなもん、していたら捕まるぞ。」と洋平は笑い話にしていたのを思い出す。赤い婦人物の手袋でも咄嗟に差し出してしまう程、母親は洋平の事を思っていたのだな、洋平は愛されていたのだなと、くすっと面白い笑みを浮かべながらも、どこか心温まるエピソードだった。立ち上がろうとすると、光だったのか、水面に映っていたものは揺れて原型を留められなくなってしまった。その夜も亜紀子は瞬く星達に見守られ、枕を伝う涙の温もりが、抱きしめる孤独の冷たさを一層引き立てる中、眠りについた。

 視界の薄赤い色が段々と濃くなってゆくのを感じ、まるで熟練の操縦士の飛行機がテイクオフするかの如く、本当に何となくふわっと心地良く目が覚めた。枕元の目覚まし時計に手を伸ばすともう10時を回っていた。カーテンの隙間からの日差しが眩しい。こんな時間、とは言っても今日は予定が何もない。正確に言うと、「今日は」ではなく、「今週末も」である。洋平と毎週末デートしていた頃は、土日は煌々とした曜日で、週末が待ち遠しかったものだ。それが別れと共に心だけでなく、スケジュールも住居空間も空虚になってしまったかのようだった。思い返せば、洋平が部屋に残していったYシャツを渡しに最後にファミレスで会ったのは、クリスマス・イヴの事だった。幸せそうな雰囲気で溢れた家族連れやカップルの客の中、私は中島みゆきの「化粧」の気分だった。ただ、歌詞とは違って、洋平が女の涙を嫌いなのを知っていながら、亜紀子は向かいあった洋平の前で頬を伝う涙を止める事ができなかった。洋平に返すYシャツの袖口にうっすらと赤い口紅がちょっとだけ付いていた事を告げずに、飲み込んでいたからだ。亜紀子の部屋のクローゼットの縁にかけておいて気付いた時は、「まさか、あの洋平が…。」と思い、様々な考えを巡らせたものだ。電車で偶々ぶつかって付いてしまったのかもしれない。同僚とカラオケに行き、ドリンクの受け渡しをしている際、女性の同僚がグラスの口紅を拭いた指のものが付いたのかもしれない。否、私はキープで本当の恋人が、その存在を私にさり気なく知らせる為に、洋平には気付かれない程度に故意に付けたのではないか。いやいや、これは、洋平が実は私に愛想をつかしていて、私の方から別れを切り出させる為に洋平自身が付けたのではないか…。こういう時は、どんどんネガティブな方に考えが向いてしまう。考えに考えた挙げ句、「もし、洋平自演論が的中しているのだとしたら、口紅には触れずに黙ってYシャツをお返ししよう。」亜紀子はそう決めた。それが亜紀子にできる最後の精一杯の洋平への心馳せなのであった。

 あの翌日からだ、週末が、伽藍洞になったのは。部屋の掃除をして、心を少しずつ立て直して来た頃、何か趣味らしき事でも始めようかと、糠床を購入する事を検討したり、レンタルペットショップで一日だけチワワを借りて散歩したりもした。ぬか漬けは、腸にいいというし、引いては肌にもいいので女子力も高めてくれる。と思ったのだが、毎日、糠床をかき回すのが面倒で断念した。

 チワワは、その愛くるしい華奢な身体に釣り合いな程大きな円らな瞳が、ピンとたった耳の付いた、見事な逆三角形の顔立ちの、一番可愛いとされる、おでこと顎の真ん中辺りに配置され、見る者を吸い込むように魅了する。ちょこんと上向きの鼻や、細い前足、後ろ足、重そうな上瞼に眠りに誘われる表情も堪らない。何時間でも見ていられる。チワワを見ている時は他の事を全て忘れてしまう。ペットを飼ったり、u tubeで動物動画に癒されたりする人達の気持ちが解る気がする。そんな幸せな時間を過ごし、チワワを飼いたくなったが、人生の中で結婚も視野に入れている亜紀子はペットを飼うと、そちらが可愛くなり、ペット中心で彼氏を作るのが難しくならないか慎重になってしまう。勿論、ペットを飼って彼氏もいる人もいるし、ペット持ち同士で話が盛り上がり、付き合いに発展なんて事もあるかもしれないが、今の亜紀子はそこまで気持ちが回復していなかった。 

 植物を育ててみようと観葉植物を買って来た試しもある。植物はいい。自分の存在を主張せずに、さり気なく、つとめて自然に、そこに居てくれる。亜紀子もそんな気遣いが出来たらと思う。例えば、何か差し入れをする時、癖のある自分の文字で書いた付箋を貼って存在を主張するのは亜紀子には気が引ける。なるべく透明でいたい。植物にも植物なりの思いはあるのだろうけれど…。考えは堂々巡りで纏まらない。

 いっその事、海外で働いてみようか。最近の若い人の中には海外の安い生活費で暮らしながら働いて貯金を増やしている人も多くいる。そうしている中で出会いもあれば棚ぼたではないか。食べ物も美味しいし、家賃も安いし、環境も整っている所も多いと言う。臆病な亜紀子にそれだけの行動力と思い切りがあればの話である。特に今はまだ傷心の身だ。職場での出会いを期待する気にもなれず、投資でも始めてFIREを目指そうかという考えも浮かんで来る。U tubeでドライフラワーが着いたカーペットを粘着テープのコロコロで取り去るASMRを聞きながら、様々な考えが頭の中に渦を巻くように過った。


 ある日の土曜、だいぶ前の雛祭りに作りそびれていた蛤のおすましを作ろうと思った。材料は、昨日、調達してある。蛤を二つ鍋に入れた。ところが、一つが開かない。時間をかけたが、とうとう開かず仕舞いだった。まるで亜紀子の将来を暗示しているかのように悲観的になってしまった。吸い込まれるように見入る煮立った鍋に、片方の目から涙が一滴、滴り落ちた。開かないまま、一応お椀に盛りつけ、形だけは整えてみる。だが、食べられないので、汁だけすすって蛤は泣く泣く捨てる。生まれて来て、開く事なく終える人生…。こんな小さな蛤にだって一生はある。今日も湯舟に湯を溜めよう。

 亜紀子は夏が苦手だ。辱暑は暑さにエネルギーを奪われてしまう。自分はギラギラした太陽の下、生まれて来たというより、静かな月の夜に生まれて来たのだと思う。夏の星の下に生まれた人を羨ましく思う時がない訳ではない。それでも、人は各々だと思いたい。陰がなければ日向もない。月の人がいなければ、太陽の人も引き立たない。そう自分に折り合いをつけて、鼓舞しながら生きてきた。職場のチャリティー・マラソン大会でも亜紀子はランナーではなく、ボランティアを選択した。走者として、燦々と降り注ぐ太陽のした注目を浴びるより、日陰で冷えた飲み物を走者に手渡す方に喜びを見いだすのだ。「ありがとう。冷たくて美味しいよ。」と言葉に出さなくても、疲労から解放された皺くちゃの笑顔が手に取るように感じられるように物語り、それが何より亜紀子にとってのご褒美だ。

 夏の或る日、夏の日差しを避けるように、都心のシティ・ホテルで洋平と待ち合わせをした事があった。その手のビデオを旅館で見た事が無いと亜希子が言ったのがきっかけだった。鑑賞会がてら会う事になったが、何もないはずがない。亜希子は新品のベビー・ピンクに、トップスとパンツの裾に野薔薇の絵が描かれたパジャマを持参してホテルに向かった。

洋平は既に到着していて、部屋のドアを開けて出迎えてくれた。洋平は午前中、仕事だったらしく、ワイシャツとスーツのズボンを履いていたが、備え付けの浴衣に着替えた。亜希子はそのタイミングで持参したパジャマに着替えた。こういう行為に慣れていなかった亜希子は、どのようにベッドに横たわっている洋平の胸に飛び込めばいいか、勇気とタイミングが合わず、窓から外を見ていると、「どうぞ。」と洋平が両手を広げて来てくれた。導かれるがままに洋平の胸に飛び込み、同じ方向を見て、画面を見る。こんな時、どんな会話をすればいいのかと思っていると、「それ薔薇?チューリップ?」と洋平が聞いた。パジャマの柄の事だ。「薔薇かな。」まじまじと見た事が無かったので、迷うように答えたが、それは、どちらでもいい会話だった。「何でこんな事をするの?」かまととでは無く、素直な疑問を投げかけると、「パフォーマンスだな。」と説明し、二人は同じ画面を眺めていた。眺め終わると、二人の時間がやってきた。


 秋は春と同じ位に四季を感じられる亜紀子の好きな季節の一つだ。一円玉天気の日は特にだ。洋平と行った京都の清水寺からの紅葉の得も言われぬ景色、南禅寺で食べた自然な温もりを感じる湯豆腐、そう言ったお決まりの定番もさることながら、亜紀子は、早朝に起きて外に出て感じた京都の空気感、湿度がなんともたまらなかった。関東とは湿度が異なるせいか、肌の状態がとても良いのだ。今日一日、何かいい事が起こりそうな予感がして来る。清水寺の三年坂で買った四季折々の模様の入った箸置きはお土産に買って今でも愛用している。箸を休める度に洋平の事を思い出す。洋平にとって箸休めになるような、ほっと出来るような存在でありたいと思っていた亜紀子であったが、いつも支えてくれて、安心させてくれ、心の止まり木であったのは洋平の方であった。


 冬になると思い出すのは、洋平と行った北海道旅行である。今でこそ、世界屈指のスキーリゾートになったニセコだが、スキーをしない亜紀子にもニセコ藻岩の深雪に降り注ぐダイヤモンドダストはまるで映画のサントラの歌詞の世界にいるかのようだった。さらさら、ふわふわとした粉雪は、下界の汚れさらって行き、ストレスを吹き飛ばして忘れさせてくれる。まるで浄化剤のようだ。山の木の枝に付いた所謂、樹氷は真夜中に輝くクリスマス・ツリーよりも繊細で美しい。

 冬という季節がある国や地域ならば世界中どこでもそうであろうが、冬は一番、ファッションを楽しめる季節でもある。アパレル会社は、東京で服を売る前に、市場の動向調査としてよく札幌で先行販売する為、札幌の人達はお洒落で最先端のトレンドを取り入れているという事になる。そういう人達を通りすがりに眺めるだけでも楽しい。

 箱根の旅館でふかふかの分厚い羽毛布団にくるまれて眠ったのも、冬の思い出である。あの羽毛布団は分厚いなんてものではなかった。なのに、重さがないのではないかと思う位、軽かった。あの時は本当に質の良い睡眠が取れた。冬は寒い分だけ、温もりを感じる。布団の温もり、炬燵の温もり、カーペットの温もり。そして、現代はヒートテックの温もりであろうか。

 何年か経って、思い出のパジャマもウェストの部分が朽ちて来たので、リサイクルして、ミシンで薔薇の柄を活かして巾着にした。

 温もりを求めて、冬の冷える朝に下を向きながら職場からの帰り道を歩いていた時の事であった。

洋平と亜希子はすれ違った。お互い下を向いていたので、双方とも気づかなかった。ただ、洋平の目に薔薇の巾着のお弁当袋が目に入った。

こうやって人はすれ違って行くのである。雑踏の中、お互いの姿はお互い気づかぬまま見えなくなった。洋平は紅灯緑酒の中に消えるのであろうか。そんな性格ではない。


ふと、向けていた足下から、少し前の道を歩いている人の足下に目を向けた。その後ろ姿は初老のご婦人であった。何か気になる。何かに導かれるように、もう少し視線を上に上げてみた。

すると、目に飛び込んで来たのは深紅の手袋であった。


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