巨大な箱庭の巡礼、あるいは胃袋の拒絶

不思議乃九

巨大な箱庭の巡礼、あるいは胃袋の拒絶

 四十五歳。厄年もとっくに過ぎ、人生の後半戦に差し掛かっている。田舎に生まれ、ヒップホップに魂を預け、「悪そうなやつは大体友達」と口ずさむことで、冴えない自分を武装していた時代も今は昔。かつての「戦友」たちは、今や教育ローンと尿酸値に追われる立派な市民だ。私といえば、いまだにあの九十年代の、ざらついたリアリティの残り香を追いかけている。


 そんな私が、週末の地方都市で「儀式」に臨む。行き先は、郊外にそびえ立つ巨大なショッピングモールだ。

 駐車場に車を停め、自動ドアが開いた瞬間、人工的な芳香剤の香りと、計算され尽くした空調の風が私を叩く。この場所は、もはや単なる買い物施設ではない。迷路であり、聖域であり、残酷なまでに整備されたテーマパークだ。かつての私が、田舎の砂利道をスケボーで駆け抜けていた頃には想像もつかなかった、清潔で無機質なユートピア。


 私は、ここでいつも緊張する。まるで不法入国者だ。


■境界線上のカルディと、動かぬ老婦人たち


 まずは「カルディコーヒーファーム」に足を踏み入れる。入り口で配られる試飲のコーヒーを断るのが、私の最初の矜持だ。あんな甘い液体一杯で、この後の思考を甘やかされてたまるか。

 所狭しと積み上げられた、得体の知れない外国の缶詰やスパイス。私はそれらを眺めながら、疑似的な世界旅行を愉しむ。もちろん、実際にパスポートを更新する気力はない。この狭い通路で、タイのカレーペーストとイタリアのパスタソースを交互に眺めるだけで、私の好奇心は安上がりに満たされる。それは消費というよりは、可能性の断片をなぞる作業だ。「これを買えば、私のキッチンは異国になる」という幻想を百回繰り返し、百回とも棚に戻す。


 ふと視線を上げれば、ドトールコーヒーの入り口に、老婦人たちの集団が陣取っている。彼女たちは、まるで太古からそこに座っていたかのような安定感で、途切れることのない世間話に花を咲かせている。その光景は、どこか平和の象徴のようで、捻くれた私の心にも、一抹の微笑ましさが宿る。

 彼女たちは、この巨大な消費の神殿において、唯一「加速」していない存在だ。流行のパンケーキも、最新のガジェットも関係ない。ただ、十年来の友人と、冷めかけたコーヒー一杯で時間を溶かしている。その「停滞」こそが、この目まぐるしいモールの構造に対する、彼女たちなりのエレガントな抵抗に見えた。


■消失するサブカルチャー、そして「記号」の消費


 歩を進めると、スターバックスの新作を求める若者たちの行列に突き当たる。彼らの瞳には、SNSという名の鏡に映る自分しか見えていない。その横を、携帯電話の激安SIMを勧める営業マンたちが、まるで獲物を狙う鷹のような鋭い視線で徘徊している。私はそれらを、熟練のボクサーのようにステップで躱す。彼らの言葉は、空気に溶けるノイズでしかない。


 目指すは「ヴィレッジヴァンガード」だ。


 ……しかし、そこにあるのは、かつての「サブカルの聖地」の抜け殻だ。九十年代、あの雑多で、悪趣味で、どこか危険な香りがしたバイヤーたちの狂気は、今や資本主義の荒波に洗われ、均一化されている。店舗数は激減し、棚に並ぶのは、どこかで見たようなキャラクターグッズばかり。


「サブカルよ、不滅なれ」


 独り言ちながら、私は店を後にする。あの頃、深夜の国道を飛ばして辿り着いたヴィレヴァンにあった「何か」は、もうここにはない。


 そのまま、隣接する「ムラサキスポーツ」へ。


 並ぶスケートボード、飾られたグラフィティ風のTシャツ。九十年代、田舎の片隅で後追いしていたヒップホップカルチャーの「記号」たちが、ここでは商品として陳列されている。


 家族連れが、その「記号」を通り過ぎていく。父親がかつての自分と同じようなダボついたパンツを履き、子供の手を引いている。それは微笑ましい光景だが、同時に、かつて牙を剥いていた文化が、こうして飼い慣らされ、安全な中産階級の趣味としてパッケージ化されたことへの、言いようのない寂しさを感じる。


 それでも私は、その陳列棚に想いを寄せる。四十五歳の私が、いまだにあの頃の「悪そうなやつ」の残り火を消せずにいるのは、単なるノスタルジーではない。それは、システムに飲み込まれまいとする、最後の意地なのだ。


■脳内シミュレーションという名の「徳」


 エスカレーターを上がり、ロフトへ向かう。


 ここでは、私の脳内は高度なシミュレーターへと変貌する。ターゲットは、私の人生に彩りを添えてくれる、数少ない女性の友人たちだ。


「このバスソルトは、あの仕事詰めの彼女に。このお洒落な文房具は、創作活動をしているあの子に」


 一人一人の顔を思い浮かべ、何を贈れば彼女たちの口角が数ミリ上がるかを計算する。実際にレジに持っていくわけではない。ただ、その光景を「シミュる」だけだ。だが、これでいい。いつか来るかもしれない「明日」のために、私はこの無益な予習を繰り返す。


 なんなら下着売り場、ワコールの「サルート」の新作も見る。


 それは卑猥な視線ではない。職人が施した刺繍の密度、色の重なり、布地が描く曲線の美学。私はそこに、一種の宗教画を見るような敬意を抱く。これを身に纏う女性の矜持と、それを愛でる者の審美眼。そんな高尚な哲学を脳内で展開しながら、私は「明日」のためにその造形を目に焼き付ける。


 最後は、百均だ。


 なぜ、これほどまでに合理的に配置された店内で、私は迷子になるのか。


「日本、すげえな」


 改めて、この国のサービス精神と、低価格への執念に感服する。あらゆる不便を解決するための「百円」の答えが、壁一面に並んでいる。だが、その便利さの海に溺れそうになりながら、私はふと思う。これほどまでに至れり尽くせりの世界で、私たちは何を失っているのだろうか。


■儀式の終わり、そしてスカした空腹


 一通り歩き回り、背中にじっとりと汗をかいたのを感じる。モールの空気は、外の世界よりも密度が濃い。


 時計を見れば、ちょうど昼時。胃袋は確かに、空腹のサインを脳に送っている。


 フードコートからは、ジャンクな油の匂いと、家族連れの喧騒が漏れ聞こえてくる。ラーメン、ステーキ、うどん、ビビンバ。あらゆる「正解」が、そこには用意されている。

 しかし、私は歩みを止めない。

 

 これほどまでに丁寧に、過保護なまでに私の「欲」を先回りして用意してくれるこの場所で、私は何をすべきか。

 

 答えは一つだ。

 「何も選ばない」こと。

 

 カルディで世界を想い、ドトールの老婦人に安らぎ、ヴィレヴァンで過去を弔い、ロフトで友人を慈しんだ。その贅沢な精神的放浪の末に、プラスチックのトレイに乗った定食を胃に流し込むのは、あまりに無粋ではないか。

 この完璧にパッケージ化されたテーマパークに対して、私が唯一示せる「個」としての意思表示。それは、腹を空かせたまま、この門を去ることだ。

 私は、何も買わず、何も食べず、駐車場へ向かう。

 一歩外に出れば、そこには地方都市の、何の特徴もない、でも少しだけ「本当の匂い」がする風が吹いている。

 

 一通り歩いて暑くなり、結局、昼飯も食わずに帰る。

 いつものことだ。

 

 車を走らせながら、きゅうと鳴る胃袋の音を聞く。

 

 ほんと無駄な時間。

 

 それでいい。

 その空腹こそが、私が私であることの証左なのだから。


【了】

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