世界の話は後にしてくれ。今は聖女が震えている ーー英雄のいない世界で、盾は立っていた

@bato00

第1話 ダンジョン攻略前夜

砂漠の陽がまだ地平線にしがみついているうちに、二人はようやく宿屋へ辿り着いた。

看板には、荒々しい文字でこう刻まれている。


――《砂蠍の巣窟》。


乾いた風が吹き抜け、舞い上がった砂粒が木製の扉を叩く。

質素な建物が吹き飛ばされないよう、地面にしがみ付いているように見えた。


「ついたぜ、聖女様」


戦士風の男が、気軽な調子で声をかけた。

年の頃は三十前後だろうか。身の丈ほどもある巨大なタワーシールドを左肩に担ぎ、右腕には小型の盾を装着している。

剣の類は見当たらない。腰に短刀はあるものの、斬り合いを想定した装備には見えなかった。


「……その、聖女という呼び方は、ちょっと……」


応えた声で、若い女だとわかる。

全身を覆う汚れたローブに、深く被ったフード。体格も線も隠され、見た目だけでは男か女かの判別もつかない。


「こりゃあ失礼。リリアーナ殿」


男は少しも悪びれた様子もなく言い直すと、盾の縁で扉を押し開け、さっさと店の中へ入っていった。

リリアーナは小さく息を吐き、その背中を追って宿屋に足を踏み入れる。


店内は、予想以上に賑わっていた。

酒と汗と香辛料の匂いが混ざり合い、世界中から集まった冒険者たちの声で満ちている。

小柄なノームの吟遊詩人が隅で弦を爪弾き、獣人の傭兵が牙を見せて笑っている。


何人もの視線が、自然とリリアーナへ集まる。

熱を帯びた好奇の目。品定めの目。

――だが、それらとは別に、量るように留まる“何か”がある気がして、彼女は思わずローブの裾を握った。


「ほら、見ろよ」


男は気にした様子もなく顎で店内を示す。


「俺たちみたいな、まともじゃない連中ばかりだ。お前も浮かずに済む」


軽く背中を押され、カウンターへ向かう。


店主は片目を潰したドワーフだった。

ぶっきらぼうな視線で二人を一瞥する。


「新顔か。部屋か?それとも酒か?」


「両方だ。二人分。できれば、鍵が二重のやつがいい」


男は懐から金貨を数枚、無造作に置いた。

それは、かつて滅びた国で使われていた古い貨幣だった。


ドワーフは片目を細め、金貨を歯で噛んで確かめる。


「……上等だ。奥の角部屋をやる。窓は小さいが、裏口に近い。逃げやすいぜ」


男は満足げに頷き、宿帳を引き寄せた。

一行だけ記す。


――レオン。


それだけ書いて、振り返る。


しかし、リリアーナは、カウンターの端で立ち尽くしていた。


彼女の視線は、宿屋の奥。

薄暗い階段の影に、釘付けになっている。


そこに掛けられていたのは、一着の外套。

色も、刺繍も、あまりにもよく似ていた。


かつて彼女を「救出」し、

その夜に牙を剥いた――

騎士団長の外套と。


「……レオン」


震える声。


レオンは瞬時に察し、リリアーナを自分の背後にかばうように立つ。

盾をわずかに構え、周囲を見渡す。


「落ち着け。あいつじゃねえ。……ただの偶然だ」


そう言いながらも、視線は鋭かった。


「行くぞ」


二人は喧噪を抜け、薄暗い階段へ向かった。

宿屋の空気は外より幾分ましだが、安心と呼べるほど軽くはない。


ドワーフの店主は、その背中を一瞬だけ見送った。


訳ありか。

この店に来る連中だ。脛に傷の一つや二つ、あって当然だろう。


明日からは、まだ誰も踏破していないダンジョンへの挑戦が始まる。

できれば長生きしてほしいもんだ。町が潤うからな。


――だが、あの女が階段を上がるとき、

空気が、ほんの一瞬だけ重くなった気がした。


店主は眉をひそめたが、その理由を考えることはなく、すぐに次の注文へと意識を戻した。

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