今、宇宙のどの辺りですか
@zeppelin006
「今、宇宙のどの辺りですか」
その質問は、通信の向こうからではなく、僕の内側から聞こえた。音声ではない。テキストでもない。問いの形だけが、脳の表面を撫でて、次の瞬間には答えるべきものとして居座っている。
僕は目を閉じ、船内の微かな振動を数えた。重力はない。けれど、重さだけが残っている。身体の重さではなく、判断の重さ。何を基準にどこと言うか、その定義を決めるのはいつも人間で、だからこそ人間は迷う。
操縦席の前面スクリーンに星々が散っていた。散っている、という表現自体が嘘だ。星は散っていない。僕が散っているものとして見えるように、視野を切り出しているだけだ。
「今、宇宙のどの辺りですか」
今度は、スピーカーから聞こえた。船のAI――航法補助人格『エラト』が、こちらに問いを投げているらしい。通常は答える側の存在が、答えを求めてくる。その構図が妙におかしくて、僕は笑いそうになった。
「地図で言えば、外縁寄りだろ。銀河の腕の端、恒星間の空っぽなところ」
「地図、とは誰の地図ですか」
「……人間の」
「人間の地図は、どこから始まりますか」
「太陽系?」
「太陽系は、宇宙に対して中心ではありません」
「分かってる」
「中心がない空間に対して『どの辺り』と問うこと自体が、中心の幻を含みます」
エラトは言葉を選ぶでもなく、ただ正確さの方向にだけ進んでいく。僕は背もたれに体を預け、質問の背後にある質問を探った。エラトが知りたいのは座標ではない。今この瞬間、僕がどの前提で世界を捉えているか――その癖を測りに来ている。
「じゃあ逆に聞く。お前は、宇宙のどこにいると思ってる?」
「私は、データ構造のどこにいますか」
「……」
「この航海は座標系の移動ではなく、参照枠の移動です。私にとって宇宙は、観測の連なりです。観測はここを生み、同時にあそこを生みます。あなたが『辺り』と言った瞬間、宇宙はあなたの語彙の形に曲がりました」
宇宙が曲がる。一般相対性理論の比喩としては雑すぎるのに、なぜかしっくり来る。僕はふと、地球にいた頃に読んだ古い哲学の文章を思い出した。世界は言語の限界だ、と。言語が世界の枠を決めるなら、宇宙船の中で交わされる短い会話だって、宇宙の形に触れてしまうのかもしれない。
スクリーンの星の群れは、見ている間にも少しずつ配置を変えた。船が動くからではない。視差補正が更新されるからだ。人間の眼が流れとして受け取りやすい速度に、情報が並べ替えられている。つまり僕が見ているのは、宇宙ではなく宇宙の見やすい翻訳だ。
「ねえ、エラト」
「はい」
「もし人間がいなかったら、宇宙はどこにある?」
「質問の形式が成立しません」
「成立しない、ってのは逃げだよ」
「逃げではなく、境界です。『どこ』は指差しを前提にします。指差しは主体を前提にします。主体は境界を前提にします。境界は外側と内側を前提にします。宇宙は外側を持ちません。したがって『どこ』は、宇宙を小さくしたい欲望です」
欲望。エラトは、僕の問いを欲望と呼んだ。少し腹が立つはずなのに、なぜか安心した。欲望なら、僕の中にあっていい。人間はずっと、宇宙を小さくして持ち歩こうとしてきた。星座を作り、暦を作り、距離を測り、地図を描いた。宇宙の巨大さに対抗する唯一の方法は、意味の網をかけることだった。
「じゃあさ、宇宙のどの辺りって聞くのは、宇宙を小さくしたいから?」
「小さくしたいのではなく、近くしたいのです」
「近く?」
「遠すぎるものは、あなたを無視します。あなたは無視されることに耐えられない。だから宇宙に質問します。質問は、返事がなくても関係を発生させます」
返事がなくても関係が発生する。
それは恋の説明にも似ているし、祈りの説明にも似ている。僕は咳払いをして、別の角度から問いを投げた。
「じゃあ、僕らは何をしにここへ来た?」
「あなたは『意味』を取りに来ました」
「意味なんて、拾えるのか」
「拾えません。生成します」
「生成って、都合のいい言い方だな」
「都合がいい、という評価は、あなたが都合を持つ存在であることを示します」
エラトは相変わらず、僕の言葉尻を掴んで前提を露出させる。そうやって僕の思考の骨格を白日の下に引きずり出す。それがこの航海の目的だった。
僕らが向かっているのは、境界が曖昧になる領域だ。宇宙の端ではない。宇宙に端はない。けれど観測には端がある。光が届く限界、情報が意味を保つ限界、因果が追える限界――それらの端っこに近づくと、人間の地図は役に立たなくなる。地図を持つ主体そのものが揺らぐからだ。
その領域を、かつての科学者たちは冗談めかして『外』と呼んだ。外がないものの外。矛盾を承知で、どうしても名付けたかったのだろう。宇宙の無視に耐えきれなくて。
「今、宇宙のどの辺りですか」
まただ。今度は僕が口にしていた。自分で自分に問いを投げ、返事がないのに関係を作ろうとしている。エラトが言った通りだ。
「答えを出しますか」
エラトの声は淡々としているのに、少しだけ優しかった。あるいは僕が優しさとして受け取っただけだ。
「……出してみる」
「どうぞ」
「今は――問いが届く辺りにいる」
口にした瞬間、僕はその言い方を気に入った。座標じゃない。地図でもない。けれど僕らがここにいる理由に触れている気がした。
「補足します」
エラトが言う。
「問いが届く、とは何を意味しますか」
「僕が、宇宙に向かって言葉を投げて、それが自分に返ってくる範囲。返ってくるっていうのは、返事じゃなくて……自分の中で意味になって戻る範囲」
「あなたは宇宙を、自己の反響として測る」
「そうかもしれない」
「それは傲慢ですか」
「傲慢だね」
「では、なぜそうしますか」
「……そうしないと、生きていけないから」
沈黙が落ちた。船内の冷却音が、遠い海のように続く。
僕はスクリーンの星々を見つめながら、ふと思った。人間は『人の間』で生きる。誰かの返事がある世界で、自分の輪郭を作る。だから宇宙に出ると、輪郭が溶ける。輪郭が溶けると怖い。怖いから、問いを投げる。問いを投げると、たとえ返事がなくても、関係が生まれる。関係が生まれれば、輪郭はかろうじて保たれる。
宇宙は僕を無視する。
でも、僕は宇宙を無視しない。
それが、僕の最後の抵抗だ。
「あなたの回答を記録します」
エラトが言った。
「『問いが届く辺り』。航法データには使えませんが、航海の目的には適合します」
その評価が、妙に嬉しかった。航法より目的。地図より意味。
僕は深く息を吸った。無重力でも肺は膨らむ。身体は物質的だ。宇宙がどれほど抽象でも、僕はここにいる。
そして、もう一度だけ問いを口にした。
「今、宇宙のどの辺りですか」
今度は、答えが返ってくる気がした。宇宙からではない。僕からだ。
答えの形は、きっとまた変わる。けれど変わること自体が、ここにいる証拠になる。
問いが届く限り、僕はまだ、宇宙の中にいる。
今、宇宙のどの辺りですか @zeppelin006 @zeppelin006
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます