社畜OL、悪役令嬢の取り巻きCに転生したので今度こそ定時で帰ります。
@aoioa7033
社畜OL、悪役令嬢の取り巻きCに転生しましたので、今度こそ定時で帰ります。
激痛が走る胸をおさえたまま、彼女はパソコンのキーボードに顔をうずめた。声を出すことができない。胸も締め付けられるようにひどく傷んだ。息すらまともにできない。
(このまま、あたしは死ぬのか……
キーボードの跡を顔に刻みつけたまま、明日の朝出勤した人たちに発見されるんだ……朝から驚かせて申し訳ありません)
と、佐藤結衣(さとうゆい)26歳は思った。
(誰も残っていない深夜のオフィスで、自分はひとり苦しんで逝くのか。せめて自宅のベッドの上が良かった。苦しむことなく、寝ている間に心臓が止まるとかが良かった。
ていうか、良い人ぶって他の社員の仕事まで引き受けて、睡眠時間もプライベート時間も削って削って頑張った結末がこれかぁ……やるせなさすぎる。
あぁ、大学時代は良かったよなぁ。それなりにバイトはしてたけど、ダラダラしながら乙女ゲームとかやってたよなぁ。ってか、この流れって、死んで乙女ゲームの悪役令嬢に転生して無双しちゃう流れじゃない?
ってか、来世は何があっても絶対に確実に……定時退勤してやるんだからなぁぁぁっ!!!)
などと、心臓が動きを完全に止めるまでの間、佐藤結衣は苦しみながらも考え続けていた。こと切れた瞬間でさえも考え続けていた。
「ユイカ様? お加減でも悪いの? さきほどからずっと胸をおさえてらっしゃるけど?」
密やかな小声で話しかけられた瞬間も結衣は考え続けていたから、周囲の環境が一変していたことに気づいた瞬間、本当に心臓が止まるかと思った。
「なっ……!?」
高い天井。何メートルあるのか分からないほどの大きなガラス窓。その窓から柔らかな陽光が降り注いでいる。結衣が今いる場所は学校の廊下のようだ。なぜなら周りにいる若者たちは一様に制服を身に着けていたから。そしてひそひそと声を落として話しながら結衣たちを見ている。しかし結衣は彼らが話している内容よりも、彼らが着ている制服から目が離せなかった。そのデザインにひどく見覚えがあったのだ。
「ルミナス……学園……?」
彼女が大学時代やりこんだ唯一の乙女ゲーム。『乙女の祈り~ルミナス学園の光となりて~』のキャラクターたちが着ていた制服に違いなかった。さっき少しだけ考えてたことだけど、本当に異世界転生してしまったのか、あの美しい悪役令嬢に転生してしまったのだろうか……。
小さくつぶやいた声に、目の前にいた女生徒がくるりとこちらに振り向いた。
「さっきから何をぶつぶつ呟いてらっしゃるの? ただでさえ陰気なのに、余計に気味が悪いですわよ?」
失礼な物言いだが、本人には全く悪びれた様子はなかった。結衣はまたしても驚いて声を出すことができない。
「この私、エグランティーヌと共にありながら放心するなんて失礼にもほどがあるのではなくて?」
鮮やかな深紅の瞳が結衣を睨みつけている。美しい造形の顔を歪ませ、その手に持った扇で結衣の眼前を指し、イライラした様子で悪役令嬢エグランティーヌ・ド・ローランは両脇に取り巻き令嬢を従えて立っていた。そうだ、彼女はこの乙女ゲーム内のキャラクターである悪役令嬢。彼女を結衣は知っている。そして自分、ユイカ・フォン・フォルンシュタインもこの取り巻きの内の一人で。……最も三人の取り巻きの中では一番身分も低く扱いも下であったけれど。そうだ、思い出した。人にいいように使われて過労死したこと、そしてこの世界に転生したことを。
結衣、いや、ユイカは急激に起こった混乱を振るい落とすように頭を何度か振り、両手をぎゅっと強く握った。
(あたしは、もう良い人ぶって自分を削り続けた平和主義の人生を繰り返したりなんかしない!)
大きく息を吐き、視線を上げた。そしてはっきりと良く通る声で、目の前の公爵家令嬢に物申す。
「失礼いたしました、急に眩暈(めまい)がしたもので。そしてバカバカしくなりまして」
「……は?」
今まで反論どころか、自分の意見さえ口にしなかった男爵家令嬢の突然の変貌ぶりに、エグランティーヌだけでなく、二人の取り巻き令嬢も目を見開き言葉を失っている。
「あら、聞こえませんでした? 四人もの成人前の淑女が、たったひとりの令嬢に嫌がらせすることがバカバカしいと申し上げたんです」
そう言い切った彼女は、ここルミナス王国内の弱小田舎貴族のうちの一人、ユイカ・フォン・フォルンシュタイン男爵令嬢。特筆すべき特産品も観光地もない領地で育った穀つぶしの四女であり、貴族子女が通うことを義務とされているルミナス王立学園の高等部三年生。親からは卒業までに平民でも良いから持参金が少なくても良い結婚相手か、生涯続けられる仕事を見つけてくるようにと厳命されている。
基本的に働きたくないユイカは結婚相手を一生懸命探しはしていたが、地味な見た目に学業も魔法も特筆できるところも何もない彼女に、そんな相手が見つかるはずもなかった。だから焦った彼女は、ちょうど一枠空いた公爵令嬢の取り巻き……もとい、『ご学友枠』に結構ぐいぐい必死に入り込み、奇跡的におさまることができたのだ。
だから、主人と言っても差し支えないエグランティーヌの言うことに対して反射的に頷き、「エグランティーヌ様のおっしゃる通りですわ~」と一時間に一度は発するという何とも情けない毎日を送っていた。だからこの瞬間も、公爵令嬢が気に入らないと言った相手、このゲームのヒロイン、リリアにいちゃもんをつけていたわけである。実際に、今こちらを睨みつけているエグランティーヌの後ろで、この状況についていけず、おろおろしている絶世の美少女がいた。彼女がヒロイン、リリアに違いないだろう。
「こちらの学園では、身分問わず、貴族、平民が入学することを国王陛下の名の元に許可されております。その上、リリア様は男爵家ご令嬢でいらっしゃいます。『身分不相応』などと糾弾される謂(い)われはございません」
突然の正論攻撃に、令嬢たちはリリアを含め、ぽかんとしている。まさに今、エグランティーヌと共に、ユイカもリリアに向かって「田舎娘がこの学校の制服を着ていることが間違っていますわ、身分不相応という言葉をご存じかしら?」と、ちくちく嫌がらせをしていた真っ最中だったというのにユイカが突然牙をむいたのである。
「彼女が入学を許されたことが納得いかないのであれば、貴女様が国王陛下に直々に意見を仰れば良いのではないですか? 直接顔を合わせることができるお立場なのですから。それをなさらないということは、これが言いがかりであると貴女がよくお分かりだからでしょう?」
言われっぱなしのエグランティーヌは怒りを通り越して虚無の顔になっている。ただ、彼女の手にある扇がミシミシと不穏な音を立ててはいたが。
「そんなことに時間を使うよりも、きっと有意義なことがたくさんありますよ。探してみてはいかがです?」
一気に転生に関する情報がよみがえったせいなのか、ユイカの頭は痛みで割れそうになっていた。耳鳴りと、チカチカと明滅し始めた視界に気づいたユイカは脈打つような頭痛をこらえながら、教科書通りのお辞儀をする。
「では、私はここで失礼いたしますわ。放課後ですもの。学業もエグランティーヌ様のお話相手も義務ではございませんものね」
令嬢たちの返事を待たず、ユイカは速足で学生寮に戻り、自室に入ると、後ろ手で扉の鍵を閉め、へなへなと床にしゃがみ込む。
「ま……マジで異世界転生? しかも乙女ゲームの世界? そして、名前もないモブ令嬢って……?」
つぶやいた瞬間、ユイカの視界がグラリと揺れ、ぷつん、とブラックアウトした。
「佐藤さん、これお願いできる?」
終業時刻まであと一時間。結衣が時計を見て、今日こそ定時で終われそうだとホッと肩を緩めた時、主任が数センチはあろうかという書類の束を手に、結衣のデスクに歩み寄ってきた。
「あ、はい。大丈夫ですよ。期限とかありますか?」
「申し訳ないのだけど、明日の始業時までには整えておいて欲しいの」
(さようなら、私の睡眠時間……)
「……が、頑張りますね!」
ひくつく頬に、相手は何も気づかない。
「ほんと、佐藤さんて仕事できるし、いつもニコニコして完璧に仕上げてくれるから、所内が円滑にまわるのよね~」
「いえ、そんなことは……」
「頼りにしてるのよ」
朗らかな笑みで結衣の就業態度を褒めそやしてくれる上司を前に、結衣は立ち上がった。
「そうやって頼りにされまくった結果、あたし、ひとりぼっちで死んじゃいましたけどねっ!!!」
「!」
ユイカは飛び起きた。室内を見て大きくため息を吐く。転生は夢ではなく、現実らしい。自室に戻るなり気絶してしまったものの、そんなに時間は経っていないようで、窓の外からは、オレンジ色の光が入っていた。立ち上がり鏡台の前に立つと、疲れ切った灰色の髪と瞳をした女がユイカをじっと見ていた。
(ユイカも自分なりに自分の人生を歩もうとしてたんだろうけど……)
自分の力だけではどうしようもないからこそ、公爵令嬢の取り巻きという立場にしがみついていたのだろうと思う。しかし今のユイカは違うのだ。鏡に映る自分の頬を指先で優しく撫でる。
「あなたの頑張りをあたしは否定はしない。でも、肯定もしない。目覚めたからには今度こそ、あたしは自分も他人も削らずに睡眠時間を確保するんだから!」
鏡の中の自分に宣誓するように、ユイカはきっぱりと言い切った。
「さて……と。食堂に行くかぁ」
胃が空腹を訴えている。ユイカは決して裕福な家の出ではないため、平民と大して変わらない学生生活を送っていた。金銭的に余裕のある家であれば、侍女も一緒に学生寮に入寮させ、食事も入浴も自室で済ませるが、そうでない者は食堂や浴室、洗濯など共用スペースを使うのだ。
「ユイカ様、ちょっとよろしいかしら?」
ひとりでテーブルに着き、夕食のビーフシチューを堪能しているとき、声を掛けられた。見上げると、エグランティーヌの取り巻きのうちの一人、記憶が戻った瞬間のユイカに大丈夫かと声を掛けてくれたサラだった。
「えぇ、サラ様。かまいませんよ」
「……」
サラは黙ったまま夕食が置かれたトレイをテーブルに下ろすと、ユイカの斜め前に座った。
「夕食後でもいいですから、早めにお伺いを出してエグランティーヌ様に謝罪するための面会を申し込みをなさって」
「なぜです?」
「なぜって、あなた、ご自分が今日何をなさったか理解していらっしゃるの?」
ユイカはサラの顔を見つめた。どうやら、本気で心配してくれている様子だった。
「理解はしております。それにね、私はもう自分の気持ちを押し殺してまであなた方と一緒に行動する利点が見つからないんですの」
「なっ……」
「私たち、卒業まであと半年と少しでしょう? 最後くらい、好きに過ごしても良いと思いますの」
「さ、最後だからこそ、学友と良い思い出を作りたいと思うのが常というものでしょう? 将来のことだって……」
ユイカの言い分がさっぱり理解できないという顔だった。18歳なのだ。致し方ないと思う。しかしこちとら、26歳である。働く社会人であったのだ。
「将来の伴侶を……ですわよね。私、結婚しない道を選ぼうと思いまして。他人に人生のかじ取りを任せるって、怖くないですか?」
「え?」
「私は怖いと思いました。だからこそ、自分の手で、自分の足で人生を拓いていこうと考え直したのです。その結果が本日の私の行動ですわ」
「ユイカ様……?」
二の句が継げなくなってしまったサラを放置してユイカは夕食を食べ進めた。そして立ち上がる。
「このことをエグランティーヌ様にご報告するも良し、貴女様が再度考えるのも良し。私は私でやっていきますから」
静かに頭を下げ、ユイカは食堂を後にした。周りが何と言おうとこれが今の自分なのだ。どんどん歩を進めるうちに、足早になる。ふとガラス窓に映った自分を見ると、頬が緩んでいた。
「あたし……笑ってる? そっか。あたし、ずっとこうやって自分勝手に生きてみたかったんだ!」
いつの間にかユイカは走り出していた。楽しくて仕方なかった。中庭を全力で走るユイカをぎょっとしながら見ている生徒がいたけれど、どうだってよかった。本当に久しぶりに、心が晴れやかだった。
「止まれ」
低い声が掛けられたと同時に肩を掴まれた。ユイカは勢い余って前につんのめりそうになる。
「な、何ですか?」
突然女性の身体に触れるなどあり得ないと思いながら顔を上げると、厳しい表情をした騎士らしき男性がユイカを睨みつけていた。
「こんな時間に一人で笑いながらスカートで全力疾走など、この学園の生徒にあるまじき行いだと思わないか?」
「その説明だけお聞きすると、私、相当危ない人ですわね」
「危ない人物には相違なかろう。事実、我が主に当たりそうだった」
騎士らしき男性の後ろに佇んでいた生徒を見て、ユイカはヒュッと息をのんだ。
「も、申し訳ございませんでした……!」
慌てて姿勢を低くした。
「いや、私も誰もいないと思って油断していた。しかし女性の肩に突然手をかけるなど、私の護衛が失礼をした」
「とんでもないことでございます」
ユイカの声が震えた。自分の足元しか見れない。恐れ多すぎる。というか、何かの間違いであってほしい。
「ご令嬢、楽にしてくれ」
「殿下、このような不気味な女とお話する必要はございません」
ユイカは終わったと思った。この学園で『殿下』と呼ばれるお方などひとりしかいない。
「カイ、君だって相当失礼だよ?」
ルミナス王国王太子アルベルト・ド・ルミナスはため息をつきながら護衛を宥めている。ユイカはこの危機的状況をどう切り抜けようか考え続けていた。とにかく名前を名乗られては最後だ。自分も名乗らなければならなくなる。というか、マナー的にはユイカが名乗らなければならないけれど、どうにかして逃げだしたいのだ。これ以上の面倒ごとはごめんである。
「本当に、失礼いたしました! 騎士様の仰る通りでございます。こんな不気味な女が、どなたか存じ上げませんが知らぬ殿方の前で立ち尽くすことこそ失礼なこと! 私、お暇させていただきますのでっ!!!」
ユイカは頭を下げたまま小走りに数歩下がったと同時に、土ぼこりを立てながら方向回転した直後、全力疾走で逃げ出した。それはもう必死に。後ろから王太子殿下のお声が聞こえて来たような気がしたけれど、聞こえなかったことにした。
(やばいやばいやばいやばい! 目立たず、効率よく、簡潔に、密やかに私は人生を切り開くのだから。もう貴族とは関わらないようにしないと)
必死で逃げ続けやっとのことで辿り着いた自室のドアに背をもたれさせ、息を整える。
(今日は調子に乗り過ぎた。明日から大人しく、地味に、目立たぬように卒業後の進路を決めるのよ!)
そう決めてベッドに入ったのだが、そういうのは大体フラグが立つというもの。
翌日ーー。
「あなた、なんでアルベルト様と知り合ってるのよ」
ユイカは、仁王立ちの公爵令嬢とその取り巻き二人に進路をふさがれていた。
「アルベルト様と何を話したのよ」
エグランティーヌは今にも燃えそうな赤い瞳をユイカに向け、苛立ちを隠せないのか、組んだ腕を人差し指でトントンと軽く叩いている。
「昨夜、確かに騎士様と男性に話しかけられましたが、どこのどなただったのか、私には分かりませんし、私はぶつかりそうになったことと怯えさせてしまったことを謝罪しただけです。名乗りもしませんでしたし、お相手のお名前すらお聞きしておりませんので、『知り合った』というには語弊があります」
ということで、とユイカは三人の脇を通り抜けようとしたがもちろんそんなことでは許してもらえなかった。
「ちょっとお待ちなさい。『怯えさせてしまった』ってあなた一体何をしたら男性を怯えさせるようなことになるのよ、説明が全く足りていなくてよ」
「いやー、暗くなりかけた中庭で女生徒が笑いながら一心不乱に走って自分に向かって来たら怖いと思いません? 私がやらかしたこととは言え、客観的に考えたら恐怖体験でしかないですよ、あんなの」
「……正気なの? あなた」
エグランティーヌに心配されてしまったユイカは、あはは、と笑うしかない。
「というわけでして、昨日の方がアルベルト様であるかどうかは、私には分かりかねます。そして、私は皆さまの視界に入らないように卒業まで影の者として生きていきますので、どうぞ私のことはお気になさらず、その辺の石ころと思って捨て置きください」
「ちょっとお待ちなさい。だからアルベルト様と何を話したのかを私は聞いているのよ!」
「ですから、謝罪しかしておりませんってば! もうこれで失礼いたします」
では、と今度こそ脇をすり抜けようと先ほどとは反対側に移動したけれど、取り巻き令嬢ABががっちりと通路を阻んでいた。
「まだエグランティーヌ様のお話は終わっておりませんよ」
「どうして、昨日からわざわざ人の心をざわつかせるようなことばかりなさるのですか? ユイカ様、本当に一体どうなさったのですか?」
取り巻きAであるクロエ・フォン・ヴァランシエンヌ 子爵家令嬢と、昨日も心配してくれていた取り巻きBサラ・フォン・レトヴィッツ伯爵家令嬢が口々に声を上げた。
元取り巻きCであるユイカは、大きくため息を吐いた。アホらしい、と。どうして自分と王太子殿下が喋ったかそうでないかで、部外者がやいやい言わねばならないのか。
「お言葉ですが」
ユイカの発した一言で空気が変わったことに気づいたのか、三人が一歩引いた。
「私はエグランティーヌ様から投げかけられたご質問に対して『分かりません』『話もしていません』『語弊があります』『謝罪しかしていません』と重ねて申し上げておりますにも関わらず、私の言うことを信じていただけず同じ質問を繰り返される」
ユイカは朝食を摂りに行く途中であった。つまり非常に空腹である。空腹は人に余裕をなくさせる。
「私の言うことを信じない人に何を言っても話は進まないでしょうが! あなたの求める言葉が出てくるまで納得しないおつもりでしょう? そんな無意味な話し合いに参加するつもりはございません。ではっ!」
呆気にとられたままの三人のど真ん中、つまりエグランティーヌとクロエの間を突っ切って、ユイカは食堂に向かった。彼女が大好きなハッシュドポテトの付く数量限定モーニングセット(特)が売り切れてしまう前に。
「間に合わなかった……!」
食堂の入り口に『モーニングセット(特)終了』の文字が容赦なく貼られていた。ユイカはがっくりと肩を落とす。仕方なく、トーストとコーヒーのセットを注文してから受け取ると、とぼとぼ歩きながら空席を見つけ倒れこむように着席した。ため息しか出ない。朝の活力が失われてしまった。
(ハッシュドポテト……食べたかった)
恨めしいことに、斜め前の席に座っている誰かのトレイはモーニングセット(特)。フォークを入れた時、さくっと音が聞こえてきそうなほどに、ユイカはハッシュドポテトにくぎ付けになってしまう。
「こんな明るい朝でも貴女は相も変わらず不気味なのだな……」
困惑した声にユイカがハッシュドポテトを食している手の持ち主に目を向ける。
「!?」
昨夜の騎士様だった。あの時は何となくの顔かたちしか分からなかったが、朝の光の中で見る彼は、真っすぐで艶のある黒髪に、鋭い切れ長の黒い瞳で何というか、とてもきれいな顔をしていた。
「なんだ、覚えていないのか?」
思わずポカンと見惚れてしまっていたユイカはハッとして首を左右に振る。
「いえっ! 覚えております。昨夜は大変失礼をいたしました」
ビリっと音がしそうなほどの空気感に、ユイカは思わず席から立ち上がり、90度のお辞儀をした。
「やめてくれないか、注目を浴びている」
うんざりしたような声に、ユイカは身の置き場がない気持ちで静かに朝食のトレイを持ち上げた。これ以上騎士様のご気分を損なわせる前に立ち去ろう、ユイカはそう思ったのだ。
「どこへ行く? まだ手もつけていないだろう」
「いろいろと申し訳なくていたたまれないので、席を移動しようかと……」
「必要ない」
騎士様は、そう言うとハッシュドポテトもプレーンオムレツも生野菜もロールパンもあっという間に綺麗にたいらげてしまった。
「すごい……」
「騎士たるもの、いつ出動要請がかかるか分からんからな。現に今も主に呼ばれているもので、あわただしくて済まないがこれで失礼する」
そう言ってトレイを持って立ち上がる。
「というわけで、貴女は気になさらずゆっくりと朝食を摂ると良い」
と去ってしまった。ユイカはもそもそとトーストを頬張り、コーヒーで流し込む。
(君子危うきに近寄らず……ってことか? ま、それが一番安全策だよね。あたしも見習わなきゃ)
騎士様の正しい反応に、ユイカは感心しながら朝食を終えるのだった。
しかし出来れば会いたくない人に会ってしまうというのは二度あれば三度あるもので、昼休みの時間に三度目がやってきた。鮮やかでまばゆいほどのオーラを背負って。
「やっと見つけた」
よく響く声に、教室で歓声が上がった。ユイカは教科書を鞄にしまおうとしたところで女子生徒たちの歓声に気づき、顔を上げると、廊下側の窓からひらひらと手を振る昨夜のやんごとなきお方と目が合った。
「!?」
驚愕のあまり、教科書を床に落としてしまった。慌てて身を屈めて教科書を拾うが、そのまま立ち上がることができない。
(なんで? え? なんで王太子様がこっち見てるわけ?)
心臓がとんでもない勢いで血液を全身に送り出し始めている。震えながらそっと顔を上げると、王太子様はまだこっちを見つめてにこにこと笑っていた。
「ユイカ・フォン・フォルンシュタイン男爵令嬢、ちょっと良いかな?」
(良くないですぅぅぅ~~~っ!!!)
王族のお願いは命令と同義である。よろりと立ち上がり、教室中の注目を背中に浴びながら後ろの扉に向かうと、視界に赤いものをユイカは見た。
(やばい……)
王太子の婚約者候補のおひとり、エグランティーヌ・ド・ローレンツ様であった。一瞬視界に入っただけなので見間違いかもしれないが、エグランティーヌ様の持つ扇がぷるぷると震えていたような気がする。廊下に出たユイカの真正面にはキラキラにこにこの王太子殿下、背後にはどす黒いオーラをまとった引きつった笑みを浮かべる公爵家ご令嬢。完全に逃げ場は塞がれた。
「やぁ、驚かせたかな?」
王太子様はあくまで嫌味がない。本当にカジュアルに楽し気に話しかけてくださる。ユイカは胃がキリキリしてきた。この痛み、前世でおなじみである。ユイカはしらを切ることにした。
「殿下、わざわざ私のような者にお声がけいただき、大変恐悦至極にございます。おそらくお名前をいただくような機会はこの瞬間までなかったと思うのですが、本日はどのようなご用件でございますでしょうか?」
舌を噛みそうな謙譲語に丁寧語に尊敬語が口からするする出てくる、社畜怖い。
「そうだね、昨夜は知り合うってほどの会話もなかったね。改めて……」
「殿下!」
その時、慌てた声が王太子殿下とユイカの会話を遮った。
「やっと来たね、カイ」
「殿下、『3-Dで待つ』と言付けだけ残されましても困ります。一体何を……」
言いかけたところで、カイはユイカに気づいた。そういうことか、と彼は手のひらで顔を覆い、ため息を吐いた。
「ご令嬢、昨夜は不躾な態度を取ってしまった上に、騎士にあるまじき言葉で貴女を傷つけてしまったこと、お詫びいたします」
ユイカよりも頭一つ分大きい身体で跪く。
「え゛っ!?」
「私の護衛騎士である以上、婦女子に失礼な態度を取ることは許されないからね。きちんと謝罪の場を設けようと思って」
「やっ、やめてください、騎士様! 私が意味不明に笑いながら暗い中庭を全力で走っていたのが悪いのです、不審者から殿下を守ろうとなさった騎士様の行いこそ騎士として唯一無二の正しい行動でございましたっ! だから、お願いします、お立ちください、お願いします」
ユイカは必死に懇願した。なんなら半泣きである。
「殿下、お願いします。私、こんな謝罪を受けても困ります。そもそも悪いのはこちらです。私が昨夜、きちんと謝罪するべきだったのに、必死で逃げてしまったことを重ねて謝罪いたします」
ユイカ、渾身の土下座で王太子の前で頭を下げる。王太子殿下含め、カイ、エグランティーヌ、周りの生徒全員がドン引きしているのを肌で感じる。
(さようなら、私の路傍の石ころ化計画……。改めて路傍のピエロ化計画でいこう……)
イロモノ過ぎて周りから見て見ぬふりされるアレである。
しん……と廊下が静かになった瞬間。
「あはははっ! 君、面白いね」
王太子殿下の腹の底からの笑い声にユイカは思わず顔を上げた。笑い過ぎて涙が出たらしい王太子殿下はひぃひぃ言いながら涙を拭っている。
(王族って、臣下たちの前でこんなに感情素直に爆発させて良いものなの?)
「却って困らせてしまったみたいだね。というか、君にもう一度私が会って話をしたかっただけなんだよ。カイの謝罪はその理由付けみたいなもの、そして調べてみたら昨日から突然様子が激変したという噂まであるじゃないか。面白過ぎるだろ」
王太子殿下、やばい人かもしれない、とユイカは思うが言えない。というか、カイはとんだ迷惑を掛けられ通しである。
「フォンシュタイン嬢、お手を」
いつの間にか立ち上がっていたカイに手を差し伸べられる。
「え」
「この手も使っていただけないほど、私は貴女様を傷つけてしまったのでしょうか?」
「ま、まさかそんなっ!」
慌ててカイの大きな手に自分の手を添えると、軽々と立ち上がらされてしまった。
「ありがとうございます」
なんだか気恥ずかしくなって下を向いたまま小さな声でもごもごとお礼を言うと、カイはそっと顔を近づけた。
「お気をつけください。殿下はひとつ執着すると長いですよ?」
「はい?」
顔を上げた時には、もう王太子殿下もカイも他の護衛騎士もいなくなっていた。ただ、背後から涼やかな怒りの冷気が流れてくるのみだった。ユイカは背後の脅威を忘れていたことを思いだす。
首がギギギっと音を鳴らしそうなほどの動かしにくさを感じながら、後ろを振り向いた。見るとエグランティーヌの手にあったはずの扇が真っ二つに折れている。
(ひぃっ! あれの次はあたしの首なのでは……)
恐怖を感じた時、天の助けのように予鈴が鳴った。ユイカにとっては天使の呼び鈴のようにすら聞こえた。
「あの……えっと……次は移動教室ですので失礼いたしますね~」
出来る限り朗らかに声を掛け、教室の自分の机に戻る。そして慌てて荷物を揃えて教室を出る際に、フリーズしたようにその場から動いていないエグランティーヌの前を通る際には軽くお辞儀するのを忘れずに魔術実験室へ移動するのであった。
魔術実験室の自席につくと、思いっきり大きなため息がこぼれ出た。そして昼食を食べ損ねたことに気づき、更に長い長い溜息を吐いた。
さっきの土下座作戦が功を奏したのか、クラスメイトはやたらユイカを不躾に見てくるが、話しかける者はいなかった。
(さすがに……もういないよね)
二時間続いた魔術の授業は終わり、ユイカは廊下の壁に張り付いて辺りを警戒しながら教室に戻っていた。本日の授業はこれで終わりである。今世での目標『定時退勤』を今日も完遂しなくてはならない。
「エグランティーヌ様、ご、ごきげんよう?」
努めて笑顔を向けるが、エグランティーヌの目は笑ってはいなかった。
「エグランティーヌ様が、ユイカ様をお茶会に招待したいと言ってくださっているの。まさか断ったりしませんわよね?」
クロエが口の端を上げて言う。昨日までのユイカであれば、飛び上がって喜んだに違いない。いつも、取り巻きABとだけお茶を楽しんでは、その時の様子を逐一ユイカに楽し気に教えてくれていたものだ。いつも悔しくて、寂しい思いをしていたユイカだったが、今の彼女は違った。
「お断りします」
「ユイカ様っ!?」
サラが口元に手を当てて驚いたようにユイカの名を呼んだ。顔が青ざめている。ユイカは少しだけ胸が痛んだ。
(あたしが抜けたら、確実に次はサラ様が八つ当たり対象だもんね)
クロエは頭の回転が速く、立ち回りがうまい。一方サラはおっとりとしていて、ただ流されるようにこの四人でいただけだ。家格はサラが上だが、エグランティーヌがおだて上手のクロエを気に入っている以上、サラはクロエの上に立つことはできまい。
ユイカは空腹でぎゅるぎゅる鳴っているお腹をぐっと伸ばしてエグランティーヌを見た。
「お茶会ではなく、カフェテリアでお話しませんか?」
一旦(いったん)自室に戻ってドレスに着替えてエグランティーヌの部屋に行くよりは時間短縮になるだろう。そう考えたユイカなりの精一杯の妥協案だった。ついでに軽食を食べることができるじゃん、とも考えているけれど。
「いいですわ。今度は逃げませんのね」
「逃げません。そして今日でお付き合いはお互いに気持ち良く終了にしたいと思っております」
ユイカとエグランティーヌの視線がぶつかる。火花が散るようであった。
「えっと……私はBLTサンドとレモンスカッシュで」
そう店員に言うユイカを、紅茶を注文した三人がぎょっとした顔で見つめた。
「すみません、昼食を食べ損ねまして」
「だからって……」
しれっと答えるユイカをエグランティーヌは昼間とは違う扇で指した。
「あれ、スペアの扇を持ってらっしゃったのですか?」
「えぇ、いつ折ってしまうか分かりませんもの。淑女たる者、常に二本持ち歩くように心がけておりますの……ではなくてっ」
自分のペースにうっかり乗せられてしまったことに動揺しているらしい公爵令嬢を見て、ユイカは笑った。かわいいなとも思った。もう、朝からいろいろあり過ぎて疲れていたユイカは26歳の干乾びたOLの意識に戻ってしまっていた。
「さて、本題に入りましょうか。田舎の貧乏貴族の端くれである私が、殿下と知り合いになって距離を縮めているように見えたことが、エグランティーヌ様のお心を乱している、という解釈で合っていますか?」
「身も蓋もない言い方だけど、間違ってはいないわね」
「では、殿下と私の会話から、私が今朝、貴女様に申し上げた言い分は間違っていないということはご理解いただけましたか?」
三人が頷くのを見て、ユイカも頷いた。
「私の貴族子女としてあるまじき行動が、殿下の興味を引いたのです。決して恋愛的な興味でなく、珍妙な生き物の生態を知りたいという生物学的興味です」
と一息に言ったところで、注文の飲み物、食べ物が運ばれてきた。
「ここまで申し上げれば、エグランティーヌ様が次になさるべきことが見えてきたのではありませんか?」
ユイカはBLTサンドにかぶりついた。トマトの酸味とレタスのみずみずしさとベーコンの塩気がパンに包まれてユイカの空っぽの胃を慰めてくれるようだった。
「は? さっぱりわかりませんけど」
困惑するエグランティーヌにユイカは首を横に振った。
「三分さしあげまふから、じっくりおかんがふぇ(お考え)くださひ」
「あなたががっつりサンドイッチを食べたいからじゃないのっ!?」
しかし、根が素直なエグランティーヌとサラは一生懸命ああでもない、こうでもないと考え始めている。クロエだけが、ユイカをじっと見つめていた。
「なんでふか、見つめてもあげまへんよ」
「要らないわよ、恥ずかしい。そんなことより、本当に何があったわけ? 昨日から別人なんだけど」
ユイカは黙って咀嚼を続け、レモンスカッシュを一口飲んでからクロエに向き合った。
「昨日、急に眩暈がしまして、その際、苦労と疲労と失意と決意の中で死んでいった前世の記憶がよみがえり、もう同じ轍を踏まないと覚悟した結果の変化です」
馬鹿正直に全てを語ったが、クロエはそっぽを向いた。
「あらそ、私には本当のことを話す気はない、ということね」
「決してそんなことは……」
「分かりましたわ!」
エグランティーヌがぱちんと扇を鳴らした。
「私もユイカ様のような珍妙な動きをすればよい、ということかしら。するわけないですけれど」
「エグランティーヌ様、いくらユイカ様であっても、そんな失礼なことをさせるわけありませんわ」
さすが深窓の令嬢たちである。言っていることがそこはかとなくおかしい上に失礼である。
「落ち着いてください。私が行ったのは『貴族子女としてあるまじき行動』であって、珍妙な動きではありません」
「ユイカ様は恐らく、他の令嬢とは違うことをするとか、自分の意思をとことん貫くことで、殿下の興味を引けるのでは、と仰っていますわよ」
クロエが静かに紅茶のカップを持ち上げながら正解を言ってくれた。
「え? そういうことでしたの?」
エグランティーヌを真っすぐに見つめ、ユイカは目元を緩めて伝える。
「王太子妃に立つということは、いずれ王妃となるということ。それは王太子妃教育を受けていらっしゃった方にしか出来ることではございません。その上で、殿下と心を通い合わせようと思われるのであれば、殿下の興味を引くことが大事だと考えます。すでにエグランティーヌ様はお美しい外見に、かわいらしい内面をお持ちです」
突然素直に褒められて、エグランティーヌの頬は紅潮している。クロエのあざとい誉め言葉の時は鼻を高くして高笑いしていたけれど、ユイカの心からの賛辞には本気で照れている様子だった。
「世には『ギャップ萌え』という言葉がこざいまして、凛とした女性が一瞬見せるギャップ、つまりかわいらしさ、弱さにクラっとくる男性陣が一定数以上いると伝え聞いております」
「ギャップ……もえ?」
「そうです。強い女性が垣間見せる弱さ、自分が守ってやらねばと思わせることこそ大事。しかし、それも普段の凛とした強さがあってのことでございます。本当に強い女性は立場の弱い者を追い詰めたり傷つけたりいたしません。弱い者こそ庇護下に置くべきなのです。エグランティーヌ様はそれができる女性だと私は確信しております!」
ユイカの完璧なプレゼンに、クロエとサラも大きく頷き拍手している。ギャラリーの反応もばっちりである。
「ということで、美しく聡明でいて優しく、殿下の前でだけ弱さを垣間見せるエグランティーヌ様のご学友も、同じように気高くあらねばなりません。お分かりですね、サラ様、クロエ様!」
「え、えぇ」
ユイカは一気にしゃべって疲れた喉をレモンスカッシュで潤した後、残りのBLTサンドを掴んだ。
「その中に私のような者は不要でしかありません。皆様のご活躍とご発展を心からお祈り申し上げると共に、私は辞させていただきます!」
そう言うと同時に、自分の料金のみを店員に渡して颯爽とカフェテリアを後にした。
その後、エグランティーヌ・ド・ローランは王太子妃として王太子と仲睦まじく、時には国民のために意見を交わし、歴史に残る賢王夫妻として歴史に名を残すのであった。
これはユイカが変えたお話のうちのひとつ。更なるお話はまたいつかどこかで。
社畜OL、悪役令嬢の取り巻きCに転生したので今度こそ定時で帰ります。 @aoioa7033
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