第15話

 のような苦味を舌先に感じて、利玖は小さく呻き、目を開けた。ハンカチで口を拭きたかったが、両手は背中の後ろで縛られている。足首も同じ状況だった。

 どこか、暗く、湿った場所に転がされている。

 柔らかい葉が体の下に敷きつめられていて、それを触ってみたが、感覚のフィードバックが鈍い気がした。痺れているような感じだ。

 口には、多孔質で、弾力のある、干からびたこんにゃくみたいなものが詰め込まれていて、そこから苦味が染み出てくる。舌で押し出そうとしてみたが、びくともしなかった。どうやら、さるぐつわのように、口の上から長い布を巻かれているらしい。

 意識はだんだん冴えてくる。

 視力は、もう元に戻っていた。どこにも照明がないのに、それがわかるのは、二メートルほど先にいびつな楕円形の開口部があり、そこから別の景色が見えるためだ。おそらく外に通じているのだろう。雨は降っていないようだが、風が強いのか、草木のシルエットが音を立てて揺れている。

 空は、淡いグレイで、夜明けが近い事を示していた。

 大きな木に出来た洞の中か、あるいは、岩穴のような場所にいるのだろうか、と考えていた時、開口部のそばの闇が蠢き、猫の形になって切り離された。歩いてくる間に、それはグレンの姿になり、利玖が目を開けてわずかに体を起こしている事に気がついて、ぎくっと歩みを止める。

「もう気がついたのか」グレンは心底驚いたように呟いた。「眠っている間に、すべて終わらせるつもりだったのだが……」

 利玖は、首をふり、それから視線で猿轡を示した。苦味がどんどんきつくなっているし、息もしづらい。

 グレンは頷き、利玖の顔の前までやって来た。

「大きな声を出したり、暴れたりしないと約束してほしい」

 利玖が頷くと、グレンは彼女の頭の後ろに回り、結び目のような固い部分を咥えて揺さぶった。何度かグレンがそれをくり返すうちに、ふっと、頭を覆っていた圧迫感が消え、顔の前に細長く裂かれた布が落ちた。

 利玖は、小さく咳き込みながら、口の中のものを吐き出した。

「ありがとうございます……」

「感謝をしてもらうような立場ではない」

 利玖はグレンを見上げ、苦笑する。

「そのとおりですね」

「どうか、怖がらないでほしい」グレンが宥めるような口調で言う。「すぐに帰る事が出来る。我らとしては、ほんの少し血を分けてもらえれば、それで十分だったのだ」

 グレンは、利玖の足のそばへ移動し、壁の一部を鼻先でつついた。

 すると、やや経ってから、ぽん、と壁の一部が向こう側へ外れ、西日のような金色の光がこぼれ出てきた。初めは目が眩んでよく見えなかったが、しばらくすると、それが樹皮のようなもので出来ており、何人ものヤマブドウの精が力を合わせて運んでいるのがわかった。やはり、今までずっと、木の洞の中にいたらしい。

 外された壁が、慎重に地面に下ろされ、向こう側の景色が見える。

 灯籠のような、有機的で柔らかい光の中に、四つ足の獣が蹲っていた。四つ足といっても、猫とはまったく違う。バイオリンの弓のようにぴんと張りつめた足は、捕食者から逃げるための草食動物のそれと酷似していて、蹄がある。何よりも、大きさが桁違いだった。乗馬用の馬よりも二回りほど巨躯である。

 四本の足をすべてこちらへ投げ出すようにして横たわり、腹を上下させていた。相当、呼吸が苦しいはずだが、利玖には何も聞こえない。四つ足の獣には、鎌で刈り取られたように、途中から首がなかった。元々、そういう姿なのか、ここに来る途中でそうなったのか──あるいは、本当はあるはずの頭部が、自分には見えないのか。

「わたしの血を、何に使うのですか?」利玖は訊いてみた。「別の体に乗り移るための儀式に必要だとか言われると、ちょっと、困るのですが……」

「そんな話もしたか」グレンは笑ったようだった。「いや、そんな使い方はしない。滋養のある飲みものとして与えるだけだ」

 グレンは、利玖の顔のそばへ戻ってきた。

「あいつには、もう、食べものを咀嚼する力も残っていない。木の実の汁も果実酒も、すでに分け与えられる上限に達した。この上はもはや、人間に頼るしかなかったのだ」

 横になったままでは、視界が傾いていて違和感が大きかったので、利玖は壁に肩をこすりつけるようにして上体を起こした。

 四つ足の獣の胸元で、何かが動いているのが見える。目を凝らすと、ヤマブドウの精が一体、そこに捕えられていた。下半身を拘束され、自分の力では抜け出せないようだが、意識はあるらしく、時々、仲間の呼びかけに答えている。

「人質……、ですか」利玖は呟いた。

「女王陛下のご忠告を無視して、好奇心任せに近づいた彼女が迂闊だったのだ」グレンは唸った。「恥ずかしい話だが、我らは時々、悪戯好きの血が騒ぐのをどうしようもない。だが、先にちょっかいを出したのが彼女達だったとはいえ、同胞が目の前で潰されるところを、むざむざと見過ごす訳にはいかない」

「ええ、それは、当然だと思います」利玖は頷いた。「あの、一つお伺いしたいのですが、あの妖が、わたしの血が欲しいと要求したのですか?」

「いや」グレンは首を横にふった。まるきり人間と同じ仕草である。「ライゾウとナナミは、日々まめに働き、我らにとって居心地の良い住み処を提供してくれる。彼らを傷つける訳にはいかない」

「白津さんは?」

「誰だ、それは」

「えっと、白津透さん」

 ああ、とグレンは頷いた。

「トオルか。──あれは、銀の弾丸を持つ者だからな」

「銀の弾丸?」

「我らにとって、とても厭なにおいがする、毛が逆立つような危険を感じて、どんなに友好的な態度を取られても、離れたいと思わずにはいられない。そういう人間の事を、我らは、銀の弾丸を持つ者、と呼ぶ」グレンは横を向き、鼻を鳴らした。「ここに来たばかりの頃は、そうでもなかったのだがな。大方、我らのようなものを屠って生きる道を選んだのだろう。トオルが自らの意思で決めた事なら、我らは口出しせぬ」

「つまり、消去法でわたしだけが残った、と……」

「そういう事だな」グレンは、わずかに牙を見せた。「我らにとっては幸運だった」

「そのようなご事情があったのなら、最初に話してくだされば良かったのに……」利玖はため息をつき、縛られたままの足首をグレンの方へ傾ける。「ちょっと痛い思いをして血を分ける事くらい、惜しみはしませんよ。量にもよりますが……」

「そう言う人間は滅多にいない」

 利玖は顔を上に向け、黙って目を瞬かせた。確かにそのとおりだな、と思ったからだ。

 グレンが、四つ足の獣の方へ向き直り、地面を掻くような仕草をすると、ヤマブドウの精が何体か、ふわふわとした緑色の綿のようなものを持って飛んできた。

『これは、わたし達が膝小僧なんかを擦り剥いた時、早く傷を治すために使う苔なの』一番高いところで苔を持っている精が説明した。『よく水を吸ってくれるから、薬草を煮出した汁も染み込ませられるし、この苔自体にも、少しだけど傷を癒やす力があるわ。これに、貴女の血を分けてくれる?』

「はい」利玖は頷き、自分の体を見下ろす。「えっと……、指だと、驚いて動いてしまうかもしれないので、別の部位だとありがたいのですが……」

 ヤマブドウの精が一体、苔から離れ、利玖の腰の辺りへ飛んでいき、

『ここに少しだけ隙間があるわ』

と言った。

 そうか、上下のインナの境目がその辺りか、と利玖は気づく。

「では、そこでお願いします」利玖は縛られている手首で上衣を引っ張り上げ、体をひねった。「これで、大丈夫ですか?」

『ええ、そのまま……』ヤマブドウの精の声が小さくなり、少しして、腰の右側に、冷えたものをぎゅっと押しつけられる感覚があった。その感覚は、すぐに離れ、柔らかいものがさっきと同じ場所を包むように触れる。おそらく、苔はこっちだろう。

 じわじわとしか出血しなかったのか、思っていたよりも長い間、じっとしていなければならなかったが、結局、痛みはほとんど感じなかった。

 ヤマブドウの精が口々にお礼を言って、元いた方へ戻っていく。さすがに、彼女達が持っているものをじっくりと見る気にはなれなかった。

「研いだ石で、まっすぐ横に薄く切った」グレンが腰の後ろへ回り込み、そう報告する。「もう出血は止まっている」

「長さは、どれくらいですか?」

「一インチほどだ」

 利玖はしばらく沈黙した。

 ひょっとして、日本ではほとんど使われない単位か、と思い至る。

「えっと……、わたしの小指の長さと比べたら?」

「だいたい半分、あるいは、傷の方が少し長い」

「そうですか……」利玖は、どうしようか、と考えながら、ぼんやりと外の景色に目を向けた。動いたら、傷口が開いてしまうかもしれないが、いつまでも肌を剥き出しにしていると寒い。夏とはいえ、ここは気候の特殊な杏嶌なのだ。ましてや、今は夜明け前。最も冷え込む時間帯である。それに体の下は、直に接していないとはいえ、湿った地面なのだ。

 幸い、インナは無地の黒いものだったので、万が一血がついても、洗えば目立たなく出来るだろう。そう考え、利玖が縛られたままの手首でぐいぐい上衣を押し下げていると、グレンが呆れたような声で言った。

「拘束を解いてくれと、頼めば良いだろう」

「え、良いのですか?」

「ああ……、待っていろ」

 猿轡を外してもらった時と同じように、ぐいぐいと揺さぶられるような感覚の後、両手が自由になった。指先まで一気に温かいものが満たすような心地良さがあって、思わず歓声を上げたくなるほどだった。

「ありがとうございます」礼を言って、利玖は早速、足首がどうなっているかを確かめる。頑丈な蔓のようなものが、幾重にも巻かれ、きつく結ばれていた。結び方が複雑で、無理に外そうとすると、かえってきつく絞まる。

 そちらも、グレンが解いてくれようとしたが、利玖はそれを断った。これは猫の足で出来るような結び方ではない。手首の蔓をほどくのも、グレンにとっては非常に疲れる作業だったはずだ。一本ずつ、力任せに噛み切ったのに違いない。事実、グレンは何度も口を開いては、舌を出して、牙や口の周りを舐める仕草をくり返していた。

 編み物をしている時にだって、こんな風に糸が絡まってしまう事がある。だけど、ほとんどの場合は、落ち着いてそれぞれの糸がどう交わっているかを見極め、時間をかければ、ほどく事が出来るのだ。

 利玖は、四つ足の獣がいる明るい空間の方へ近づいて、結び目を観察する。

「つまり、最初にやって来たアールさんの方が正式な使者だった」利玖は手を動かしながら、考えている事を口にした。「女王陛下は、ヤマブドウの精を救う事よりも、わたしがこのような状況に陥らないように守る事を優先されたのですね」

「正しいご判断だ」グレンの視線は、捕まったヤマブドウの精に向けられていた。「危ないものだと警告したのに、それを無視して、捕まった。こんな風に大勢が危険を冒して助けるべきではないのかもしれない」

 捕まっていたヤマブドウの精が、ぽうんと宙へ放り出され、一瞬の静寂の後、半ば泣き声のような歓声があちらこちらで上がった。彼女の拘束も解かれたのだ。他の精に支えられ、ふらつきながら、必死に逃げていく。

 四つ足の獣は、まだ同じ場所に座っていたが、首をもたげて一心不乱に何かを啜っていた。顔は見えないのだが、草食動物とよく似た四本の足とは別に、首の途中に二本のヒトに似た腕がついていて、それでどす黒い苔を握ってむしゃぶりついている。

「ただ、我らが見過ごせなかった。陛下のように迅速に、大多数にとって安全な決断をする事が出来なかった。──それだけだったのだ」

 利玖は、手を止め、四つ足の獣の方に目を向けた。死ぬまでのわずかな時間を、安らかに過ごせれば良いというような消極的な動きではなく、一口でも、一滴でも多く栄養を取り込み、生き延びようとする野性的な切迫感に満ちた、その姿を、しばらく声もなく見つめていた。

「……もう、助からないのですか?」

「ああ」グレンは頷く。「最初に見つけた時は、まだ、話をするぐらいの体力は残っていたのだがな……」

「どんなお話をされたのですか?」利玖は、足首の蔓をほどくのを中断し、膝を抱えるような姿勢で座り直した。

「縄張り争いに負けたのだそうだ。致命的な傷は負わなかったが、落ち延びる道中で力を使い果たし、ついに自らの足で立つ事も出来なくなった。死を覚悟した時、自分に刃向かわない事を約束するのなら、再び蹄で大地を蹴る力を与えてやろう、と持ちかけてきた存在がいた。不利な取引だとはわかっていたが、死に瀕しており、受け入れるしかなかった、と」

 心臓が、どくんと一度跳ねた。

 動揺を悟られないように、何か喋らなければ、と思ったが、それよりも先にグレンがこちらを振り向いた。

「繭の中にいたもの。とても邪悪なもの」グレンは、古い詩を詠むように言う。「我らに繭を作る習性はないが、ひととおりの知識は持っている。あの獣に力を与えた存在は、繭に籠もって自分の身を守りながら、外の世界と交わり、力を蓄えているのだという」

「繭の中で……、力を蓄えて……」利玖は口元に手をやり、そのフレーズをくり返す。「何のために?」

「決まっているだろう。羽化するためだ」グレンはわずかに双眸を細くした。「何者かは知らんが、本体がウシベコ・レイクから動けないというのは、せめてもの事だ。繭の中に閉じ籠もっていてもなお、あれほどおぞましい影響を及ぼすものが、成体になった時に一体何が起きるか、考えるだけでぞっとしない」

「待ってください……」

 利玖は片手を上げる。

 肘が体にぶつかって、痣を作りそうなくらいに手が震えていた。

 何度も、

 喋ろうとする。

 だが、頭の中で目まぐるしく連想と照合が行われ、彼女の喉は声を発する器官としての役割を放棄した。

「私は〈猫の王国〉の近衛士長。女王陛下をお守りする精鋭の兵士を、長年にわたって指揮してきた」グレンの声が、どこか遠いところにあるように聞こえる。「お前をここへ連れてくる時、優しい言葉で籠絡するのではなく、厳しく急き立て、猶予を与えなかったのは、あのヤマブドウの精を早く自由にしてやりたかったというだけではない。聡いお前が、気づかないようにするためだ」

 利玖は、立ち上がろうとしたが、まだ足首の蔓がほどけていない事に気がついた。


 そうだ。

 アールが、ちゃんと言っていたではないか。

 四つ足の獣は、自分を追ってくるのだと。

 同胞を人質にとられ、仕方なく、消去法で自分の血を分けてもらう事にした、というグレンの話と、それは矛盾する。


 頼造でも七生でも、

 透でもなく、

 彼が欲したのは自分だった。


 彼に力を与えた存在というのは、おそらく銀箭だろう。透が、自分が銀箭に狙われている事を明かした時、グレンは、その繋がりに気づいたのだ。

 自分は、今、ようやくわかった。


 衝撃。

 肩に何かがぶつかって、

 体の左側を下にして倒れる。

 まだ、立つ事が出来ない。

 足首に蔓が……。

 指が震えている。


「外へ出ろ!」グレンが吼えた。「這って……」


 ひゅう、と白い鞭のようなものが目の前を横切り、グレンの声が途切れた。

 四つ足の獣の体から伸びた何本もの触腕が、グレンに絡みつき、無造作に魚でも摘むように持ち上げた。


 自分を庇ったのだ、とわかった時には、その触腕がぐうんとうねって、グレンを壁に叩きつけようとした。


「やめて……!」


 利玖は叫ぶ。

 手を伸ばすだけでは届かない高さだった。

 まだ、足首を拘束されていて、跳躍の体勢が取れない。

 それでも、しゃがみ込んだ姿勢から、勢いをつけて体を伸ばそうとし、

 爪先で蹴った地面が、

 層ごとずれるように、滑った。


──間に合わない。


 一瞬にしてあらゆる音が遠のき、気管が狭まるような恐怖を感じた瞬間、左から真っ黒な影が飛び込んできた。

 迷いのない動作で地面を蹴り、壁とグレンの間に割り込む。どすんという鈍い音がしたが、グレンは影にしっかりと抱えられて、壁ともろにぶつかる事態は避けられたようだった。

 着地した時、彼女の顔が見えた。

「利玖さん、外へ!」白津透が鋭い声で言った。片手に、銀色に光るナイフを持っている。「グレンに続いてください」

 何が起きたのか、利玖にはまったくわからなかったが、透がナイフを仕舞うのと同時にグレンが起き上がり、全身を震わせて触腕の切れ端を払い落とすと、利玖の方へ駆けてきた。

「ついて来い」

 頷き、立ち上がろうとしたところで、足首の蔓の事を思い出したが、いつの間にかそれは細かな断片になって足元に散らばっていた。飛び込んでくるのと同時に、透が気づき、ナイフで切ってからグレンを助けに向かったらしい。

 開口部を抜けた時、銃声が聞こえた。

 後ろからだ。透が撃ったらしい。

 グレンが一歩、洞の中へ戻って、

「トオル!」と声を張り上げた。「殺すな。それも〈王〉だ」

「ヌシだったって事?」透の声が聞こえる。「参ったね、そりゃ」

「陛下のお力が必要だ」

「後ろにいるよ!」

 それを聞いて、利玖とグレンは同時に後ろへ顔を向けた。

 朝靄が庭を覆っている。そのためにどの植物も、色彩を半分ほどまで失い、それでなくとも嵐の被害が少なく済むように、ビニルのシートを被せられたり、紐で束ねられたりしているので、どこか無機質で、痛々しい印象だった。

 その中を、一匹の猫が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 ターコイズ・ブルーの瞳は、まるでその輝きだけで何かの魔法が使えるみたいに気高く、美しい。顔と耳、足、尻尾の毛が濃いブラウンで、あとはミルクのように優しい白色だった。グレンよりも、もう少し毛が長い。

 後ろには、二匹の猫が頭を垂れるようにして付き従っている。そのうちの一匹は、利玖が頭を撫でてやった、あのアールだった。

 長毛の猫は、利玖の前で腰を下ろし、瞬きをした。

「サクラガワ・リク様」の始まりを知らせる弦楽器の調べのような、深い艶のある女性の声が、長毛の猫の口から発せられた。「初めまして。わたしは〈猫の王国〉の女王、ジュディスと申します」

 利玖は、咄嗟にその場に片膝をつき、胸に手を当てて頭を下げる。王族に謁見した事など、もちろんないのだが、日本式のお辞儀だけでは失礼だろうか、と思ったからだ。

 ジュディスはゆったりと頷き、その挨拶を受けた。

「この度は、我らの同胞が大変なご迷惑をおかけしてしまいましたね。わたしの力が及ばず、申し訳ない事でした」

「いえ、そんな……」利玖は首をふる。

「サクラガワ様を傷つけてしまった事へのお詫びと、同胞を救うためにお力を貸して頂いた事へのお礼は、後ほど……」ジュディスは腰を上げ、洞の方へ向かう。「少しだけ、そこでお待ち下さいな。ナナミが手当ての道具などを揃えています」

 ジュディスの視線を追って、プラム・ポマンダ・ホテルの建物が見える方へ目を向けると、アール達よりもさらに後ろに、頼造と七生が並んで立っていた。七生の方が、ひどい顔色で、ぼんやりと焦点の定まらない目で洞の方を見て唇を震わせていたが、ジュディスに名を呼ばれた事で我に返ったように、タオルを広げながら、利玖に駆け寄ってきた。

「ごめんなさい、こんな事に巻き込んでしまって……」七生は、さらにもう一枚、別のタオルを利玖の頭に被せながら、泣きそうな声で言った。そうか、髪が濡れていたのか、それでこんなに顔が冷たかったのか、と利玖はようやく気がついた。「お怪我は……、どこかで、横になられますか?」

「いえ、大した傷は負っていません」利玖は首をふる。「あ、でも、少し……、眩暈がするかも……」

「では、こちらへ」

 七生に導かれて、利玖は、小道の脇に置かれたベンチの前へ移動した。まだ、そこら中に雨粒がくっついていたが、頼造が一瞬でそれらを拭き取り、腰かけた時には、わずかにひんやりとした質感があるだけだった。

 ヤマブドウの精に何か飲まされた事は黙っていた。ホテルの中で起きた事だから、それを伝えたら、頼造や七生が責任を問われるかもしれない、と思ったためだ。

 グレンは、ジュディスにはついて行かず、洞の入り口に留まっている。それを確かめた時、ちょうど、洞の中から透が出てきた。

「利玖さんがいなくなるのとほぼ同時に、グレンの居所が掴めなくなったので、陛下が自ら捜索に加わると申し出て下さったんですよ」洞から全身を外に出し、もう何も持っていない手を払いながら透が言った。「何が起きているのか……。情報をまとめて、今後の対応について話し合っているうちに、これもまた突然、グレンがこの洞の中にいるとわかった」

 透は、腰に手を当てて体を伸ばしてから、傍らのグレンを見下ろした。

「あれは、救難信号だったんですね?」

 グレンは、じっと洞の中を見つめていたが、やがて、透ではなく、利玖の方へ歩いてきた。

「貴殿の血を飲ませれば、あの獣が暴走し、さらなる贄を求めて牙を剥くかもしれないという事は、攫う前からわかっていた」

 グレンは目をつぶり、項垂れた。

「だが、可能性の一つだったのだ。必ずそうなる、という確証もなかった。本当にそんな事態が起きた時は、私自身の命を使って、死を与えるつもりだった。原始的な呪いであれば、我らは誰でも、それを使う方法を知っている」

「気になさらないで下さい」利玖は微笑む。「庇って下さって、ありがとうございました」

 利玖は、洞の方へ目を戻す。

 ミズナラだろうか。確かに大きな木だったが、自分も透も、グレンも中に入って、それでも余剰があったとは到底信じられなかった。自分達よりもずっと巨大な四つ足の獣が蹲っていた空間も、ここから見る限りでは、存在していないようだった。

 妖精達だけが出入りし、自由に使える場所だったのだろう。きっともう、二度と行く事はない。

「陛下が、自ら手を下されるのですね」

 利玖が、呟くように言うと、グレンは黙って頷いた。

「彼もまた〈王〉だった。どこかに国を持ち、かつては確かに、そこの長だった。そういう者を〈王〉たり得る力を持たぬ者が殺めると、例え正義が味方をしても、しっぺ返しがある」

「日本ではそれを、祟られる、と表現します」透が、利玖の隣へやって来て言った。「キングかクイーンでしかチェックメイトをかけられない、と……。うーん、それは、だいぶ面白くない」

 利玖はタオルを傍らに置いて立ち上がり、深く頭を下げた。

「白津さん。助けて頂き、ありがとうございました。本当に危ないところでした。攫われる前に知らせる事が出来なくて、ごめんなさい」

「面白いシチュエーションですね、それ」透は腕を組んで、ベンチの手すりに寄りかかり、片手で座面を示した。「どうか、お気になさらず……。座っていてください。まだ、立っているのは辛いでしょう?」

 利玖は頷き、再び腰を下ろした。息を吸って、吐き、それから頬を触ってみる。冷たい、という信号が走ったが、どちらからどちらへ向けてのものか、わからなかった。

 それを見た透が、すっと耳のそばへ顔を寄せてきた。

「彼らに何かを飲まされたのなら、頼造さんへ伝えてください。必要に応じて妖精達から薬を融通してもらいます」そう言うと、透は少し顔を傾けて、微笑みを見せる。「大丈夫。ホテルの過失にはなりませんよ」

 利玖は、ほっとして、肩の力を抜いた。

「呼んできましょうか?」透が訊ねる。

「お願いします」利玖は頭を下げた。

 透が、離れた所に立っている頼造に近づいて、何か耳打ちする。

 頼造は、片方の眉を上げた後、何かを考え、隣に立っている七生に声をかけた。内容までは聞き取れない。だが、七生はびっくりしたように目を見開き、祖父と透の顔を交互に見てから、ぎゅっと口を引き結んで頷いた。

 透と一緒に、頼造と七生がベンチの前までやって来た。

「実は、近々、彼女を正式なオーナにしようと考えております」頼造は、七生を手で示しながら言った。「こういった事態への対処法も、学んでもらわなければならない。もし、よろしければ、彼女とともにお話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「はい」

 頼造と七生に真剣な表情で見つめられ、思いがけず緊張を感じたが、利玖はこれまでの経緯を時系列順に説明した。特に、飲まされたり、直に肌に触れたりしたものについては、出来る限り細かい所まで思い出して二人に伝えた。

 日頃、滅多にないような体験の連続で、所々記憶が飛んでいる箇所があり、寝不足のためか、頭の回転も上がり切らなかった。それでも何とか、最後まで話し終えて、一息ついた時には、頼造の足元にジュディスがちょこなんと座っていた。

「洞の中は片付きました」ジュディスが周囲の人間の視線に気づいて、そう答える。「今、アールとレノに戸締まりを手伝わせています。彼らが戻ってきたら、わたしの役目はおしまい」ジュディスは、グレンの方を振り返り、目を細める。「彼の処罰も、その後、手抜かりのないよう進めます」

「あの、あまり、重い罪には問わないで頂けないでしょうか」利玖は思わず口を挟んだ。「わたしを庇ってくださったのです」

「それをトオルが庇ったので、結果的に彼女が怪我をしています」ジュディスが答える。

 そうなのか、と驚いて透を見ると、彼女はきまり悪げな表情で首をふった。

「ちょっとぶつけただけです。大した事はありません」

「トオルにも、後ほど薬を届けさせます。もちろん、それを使うかどうかは、貴女達の自由です」

 ジュディスは、青い瞳で七生を見上げる。

「さきほど聞こえてしまったのですけれど……」ジュディスの声色に、その時、わずかに感情的な揺らぎが生じた。「彼女が、次のオーナになるのね?」

「ええ」頼造が頷く。「今日明日に、というお話ではなく、また、私も当分の間は残るつもりですが。よろしければ、それについて、陛下のお許しを今、ここで頂ければありがたい」

 ジュディスは瞬きをして、頼造を見た。

「ライゾウ」彼女は硬い口調で言う。「わかっているのでしょう? 赦しを乞わなければならないのは、わたしの方よ」

「え?」七生が驚いたように声を上げる。

「そう……」ジュディスは、それを見て、納得したように顎を引くと、おもむろにベンチの座面に飛び乗った。利玖が使った後のタオルで、きちんと爪先の汚れを拭き、そのまま利玖の膝の上に移動して腰を下ろした。

 微塵の迷いもない、堂々たる足並みで、利玖には萎縮する暇もなかった。

「わたしは、貴女の祖母、シヅエの体を借りて、ライゾウとチェスをしました」ジュディスは、羊皮紙に記された功罪を一つずつ読み上げるように淡々と語った。「シヅエはきわめて稀な体質で、わたし達を見る目を持つだけではなく、彼女がそれを認めれば、体を借りて、自分のもののように動かす事が出来たのです。当時のわたしは、どうしようもなく幼く、王家の窮屈さや、思いどおりにならないもどかしさばかりが気になって、いつも何かを憎み、何かに対して憤っていた……」

 ジュディスの顔が、わずかに頼造の方へ向く。

「彼と過ごす時間だけが救いだ、と思っていました」

 それだけを口にすると、ジュディスはつかの間、地面を見つめ、すぐに毅然と顔を上げた。

「わたしが頻繁に体を借りた事が良くなかったのかもしれません。あるいは、わたしがライゾウと会っている事を、何らかの形で利用しようと考えた勢力がいて、彼らがシヅエを追いつめたのかもしれない。わからない。民に緘口令をき、決してヒトに悟られる事のないように、手を尽くして調べましたが、確かな事が、何もわからないのです。シヅエの最期は、ヒトの世界では不自然なものだったと聞いています」

 ジュディスの肩に力がこもった。

「わたしも、すでに後継者の育成に取りかかっています。だけど、それは未来のため、そして、わたしに万が一の事があった時、国まで巻き込まずに済むようにするため。わたしが王位を退くのは、まだ、ずっと先です。だから、ナナミ、貴女に認めてもらわなければならない。シヅエが早くに逝ってしまった要因を作ったかもしれない、このわたしが、貴女達の世界と近々と接している、もう一つの国で、王であり続ける事を」

 七生は、握りしめた右手を胸に当ててジュディスの話を聞いていた。

 そこに、もう片方の手が重なる。

 表情が変わらないまま、深呼吸をして、

 瞬きをする。

 片方の目から涙がこぼれ落ちた。

「七生……」頼造が、孫娘の肩に手を置く。

 七生は、何度も首を横にふって、もう一度大きく息を吸い込んだ。

「陛下、わたしは……」

 そう言いかけるが、途中で声をつまらせる。

 七生は横を向き、自分の腕を顔に押し当てた。涙を拭くものがないのだ。

 雲が流れ、庭全体に少しずつ、まだ弱々しい朝の陽射しが広がっていく。幾度か、雲の内側が瞬いた後、剣のようにまばゆく、峻烈な一縷の光が七生の体を照らし上げた。

 その光の中で、七生は腕を下ろし、穏やかな表情でジュディスを見た。

 しばらくそうしていたが、やがて、ジュディスに向き直った時には、七生の表情には光るような強靱さがあった。

「陛下が、それを打ち明けて下さった事を、心より嬉しく思います」

 彼女の目元は、まだかすかに赤かったが、声は低く、落ち着いていた。

「祖母の最期については、こちらの世界でも様々な憶測がされました。警察が、事件性はないと言っているのに、ここが世界中からお客様をお迎えする場所である事を理由に、何の関係もない事件や事故、あるいは、根拠のない妄想と結びつけられて、陛下のお耳に入れるのも憚られるような噂が、あちこちで流れたのです」

 七生は、胸の下で両手を組んだ。

「我々も、警察の捜査だけでは表面的な事しかわからないのではないかと、自分達の力で、祖母の身に何が起きたのか、明らかにしようとした時期がありました。今も、その思いが完全になくなった訳ではありません。当時からずっとここに住んでいる祖父は、一層、その思いが強かったと思います。ほとんど眠る事が出来なかった時期もあったでしょう。それでも、わたしも祖父も、陛下でさえも、何が祖母に死をもたらしたのか、確信を得られない」

 七生は瞬きをし、それから、力を込めて頷いた。

「それなら、きっと、神様にだってわからない事なのだろうと思います。そんな途方もないものを追い求めるよりも、わたしは、杏嶌で生きている人間として、このホテルをより長く、より多くの人から愛されるものとして守りたい。祖父と祖母が大切にしたものを、きちんと受け継ぎ、同じように大切にして生きていきたいと思います」

 七生は、利玖の前に進み出る。地面に片膝をつき、ジュディスを見上げて、微笑んでから目を伏せた。

「そのために、陛下から様々な事を教えて頂けるのであれば、これ以上の喜びはございません」

 それが、騎士が忠誠を誓う仕草である事を、利玖はふいに思い出した。

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