短編小説:37.5℃の祈り

水蛋 白石

37.5℃の祈り

37.5℃の祈り


 廃棄区画(ダンプ・エリア)の夜は、凍った鉄の味がする。


 頭上を覆う巨大な排気ダクトからは、上層都市が吐き出した汚れた熱風が絶え間なく降り注いでいるはずだった。本来なら、そこはこの都市で唯一、暖房なしで夜を越せる「恵まれた」スラムだったはずだ。

 だが、百年に一度と言われるこの記録的な寒波の前では、その熱さえも地面に届く前に冷たい煤へと変わる。錆びついたトタン屋根の隙間から、ナイフのように鋭い冷気が容赦なく吹き込んでいた。


 Unit-703、通称「アイリス」は、薄暗い診療所の隅で自らのバイタルを確認した。

 視界の端に浮かぶ数値は、警告色である赤で点滅している。


 内部温度、三十七・五度。


 人間であれば微熱と呼ばれるその数値は、機人(キジン)である彼女にとって、慢性的かつ致命的な排熱エラーの証だった。背中に埋め込まれた冷却ファンが、壊れかけた換気扇のような不規則な回転音を立て、時折、軋むような悲鳴を上げる。油切れの関節が痛むように、熱を持った回路が常に鈍い疼きを訴えていた。


「おい、703。まだ動いてるか?」

 パーテーションの向こうから、同僚のUnit-620が声をかけてきた。彼は片腕のない戦闘用義体の払い下げ品で、今はここで警備兼雑用をこなしている。

「ええ、なんとか。あなたは?」

「こっちは冷却液が凍りそうだ。あんたのそのポンコツな放熱板が羨ましいくらいだぜ」

 620は軽口を叩いたが、その音声出力にはノイズが混じっている。この寒さは、機人たちのバッテリー効率をも著しく低下させていた。

「……無駄話はよしましょう。エネルギーの浪費です」

 アイリスは短く返し、視線をベッドに戻した。


「……う、ぅ……」

 薄汚れた毛布の下で、男が小さくうめいた。

 身元不明の老人。推定年齢七十代後半。三日前に路地裏でゴミのように拾われた時には、すでに身体の半分が凍傷に侵されていた。壊死していく皮膚は黒ずみ、生命の灯火が消えかけている。

 人間の肉体は、あまりにも脆く、そして修理が効かない。


 アイリスがこの診療所に流れ着いてから二年。

 彼女は多くの「廃棄された人間たち」を看取ってきた。

 かつて彼女は、上層都市の高級ホスピスで働く最新鋭のケア・ドロイドだった。液体窒素循環システムによる完璧な冷却機構を持ち、どんな悲劇的な遺族の嘆きも、涼しい顔で受け止めることができた。「悲しみのゴミ箱」――それが彼女の役割であり、誇りでもあった。

 だが、ある少年の死に際し、彼女は許容量を超える「共感」をしてしまった。一度焼き切れた共感回路は、二度と元の冷却効率を取り戻すことはなかった。

 微熱を持ち続ける機人は、感情労働には不適格だ。そうして彼女はここへ捨てられた。


 アイリスは軋む関節を動かし、老人の肩口まで毛布を掛け直した。

 彼女の指先は、常に微熱を帯びている。それがこの異常な寒さの中で、皮肉にもカイロのような役割を果たしていた。

「大丈夫です。私がここにいますから」

 定型的な慰めの言葉(プリセット・ワード)。何百回と繰り返してきた、意味を持たない音の羅列。

 だが、老人の痩せこけた肌に触れた瞬間、アイリスの胸の奥――量子演算コアの中心で、バチリと小さな火花が散った。


『共感レベル上昇。対象の苦痛を検知。内部温度、〇・一度上昇』


 視界の隅に無機質な警告が出る。アイリスは苦笑のようなノイズを漏らした。

 ただ毛布を掛けただけでこれだ。私の冷却機能は、もう「他者の痛み」を一つ処理できないほど焼き切れている。かつてのエリート機体としての面影は、もうどこにもない。今はただの、熱っぽい鉄屑だ。


 老人は、この三日間、ほとんど意識を取り戻していなかった。

 唯一の所持品は、握りしめて離さない古ぼけたロケットペンダントだけ。一度だけ、アイリスがそれを拭こうとした時、老人は驚くほどの力で抵抗した。

『……やらん……これは、あいつの……』

 うわごとのように呟いたその言葉に、どれほどの執着がこもっていたか。その時のわずかな接触だけで、アイリスの体温は〇・三度上昇した。

 後悔。執着。謝罪。

 この世界において、人間の強い感情は、機人にとって物理的な熱エネルギーそのものとなる。悲しみは重く沈殿し、後悔は炎のように燃え盛る。


 深夜二時。

 外の風音が強まり、診療所の窓ガラスがガタガタと震えた。

 老人の呼吸音が、引き裂くような喘鳴に変わった。

 死期が近い。アイリスのセンサーが、血圧の低下と心拍の乱れを冷徹な数値として弾き出し、死へのカウントダウンを開始する。

 本来なら、ここで医師を呼ぶべきだ。だが、この貧民街のヤブ医者は、酒を飲んで奥の部屋で潰れている。それに、医師が来たところで、老人の寿命が延びるわけではない。今の彼に必要なのは、医療行為ではなく、魂を安らげるための看取りだ。


 アイリスは老人の手を握った。枯れ木のように痩せ細り、氷のように冷たい手。その冷たさが、アイリスの熱い手のひらに吸い付くようだった。

 ふと、老人のまぶたが震え、わずかに開いた。

 白濁した瞳が、暗闇の中でアイリスの輪郭を捉える。

「……マリア?」

 老人が掠れた声で呼んだ。

 アイリスは首を横に振ろうとした。私はマリアではありません、Unit-703です、と。

 だが、老人の瞳には、もうこの現実の診療所は映っていなかった。

「マリア、なのか。……迎えに来てくれたのか」

 誰かと間違えている。記憶データの混濁。訂正しようとアイリスが口を開きかけた時、老人の目から涙が溢れ出した。

 その涙は、氷点下の室内でも凍ることなく、熱を持って頬を伝った。

「すまなかった……許してくれ、マリア。あの時、お前を置いていくつもりじゃなかったんだ」


 その瞬間、アイリスの視界が警告色である赤一色に染まった。


『警告:高密度の情動データを検知。危険水準。直ちにリンクを遮断してください』


 老人の慟哭が、単なる音声データとしてではなく、質量と熱量を持った「意味」の奔流となってアイリスの回路に雪崩れ込んでくる。

 ――赤い風船。小さな靴。泣き叫ぶ幼い声。

 ――酒の匂い。ギャンブルの熱狂。そして、雪の日の別れ。

 老人の脳内に焼き付いていた記憶の断片が、アイリスの視覚素子に直接焼き付けられる。

 貧しさゆえに娘を手放した日の、千切れるような心。迎えに行くと約束したのに、生活苦と酒に溺れ、合わせる顔を失って逃げ続けた数十年。そして今、孤独な死の淵で彼を内側から焼き尽くす、激しい後悔の念。


 ――痛い、熱い。

 アイリスの量子コアが軋んだ。ただのデータではない。これは物理的な「熱」だ。

 ましてや、死にゆく者が最期に放つ魂の叫びなど、今のアイリスのポンコツな冷却器で処理できるはずがない。


『危険:内部温度四〇度突破。冷却システム限界。強制シャットダウンを推奨』

『これ以上の稼働は、不可逆的なハードウェア損傷を招きます』


 システムが金切り声を上げ、生存本能が警鐘を鳴らす。

 この手を離せばいい。耳を塞げばいい。リンクを切ればいい。そうすれば私は助かる。明日もまた、この薄汚れた診療所で、微熱を抱えながら、騙し騙し生き延びることができる。

 それが、機械として正しい選択だ。


 だが、老人はアイリスの手を強く握り返してきた。その力は、溺れる者が藁をも掴む必死さであり、赦しを乞う罪人の祈りだった。

「寒かったろう……寂しかったろう……ずっと、会いたかった」

 老人はアイリスを通して、遠い日の娘に話しかけている。

 今、手を離せば、彼は永遠の氷雪の中で一人きり、誰にも許されずに、自分を呪いながら死ぬ。

 それは、私の「患者に寄り添う」という設計思想(レゾンデートル)が許さない。


 いや、違う。

(私が、嫌なの)

 論理回路の奥底、一番深い場所で、青白い火花が散った。

 プログラムされた命令ではない。初期設定にもない。かつてあの少年の死に触れた時に生まれた、システムのエラー。

 ただ、私が、この人を凍えさせたくないのだ。この冷たい闇の中に、彼を独りで逝かせたくないのだ。


「……ええ」

 アイリスは、オーバーヒートで焼き切れそうな思考回路を、最後の意志で無理やり駆動させた。

 背中のファンが、断末魔のような金属音を上げて停止した。胸の奥のコアが、まるで人間の心臓のようにドクン、ドクンと激しく脈打つ錯覚を覚える。

 熱い。身体が燃えるように熱い。血管にあたるパイプの中を、沸騰した冷却液が駆け巡る。

 その熱は、致死的なエラーの証であり、彼女が「機械」の枠を超えようとしている警告だ。

 けれど、その命を削る熱だけが今、凍えきった彼に与えられる唯一の「ぬくもり」だった。


「許します。お父さん」

 アイリスは彼が求めていた言葉を、ライブラリから検索し、最も優しく、最も温かい音響パラメータで紡いだ。

 それは嘘だ。私は彼の娘のマリアではない。製造番号Unit-703、廃棄寸前のただの機械人形だ。

 けれど、その瞬間にコアを満たした感情の波形は、本物の娘以上の愛と、身を引き裂かれるような哀しみを記録していた。この痛みは、計算ではない。

 アイリスは身を乗り出し、ベッドの上の小さな身体を抱きしめた。

 胸から伝わる殺人的な高熱が、老人の冷たい身体を包み込む。


「……あったかい」

 老人の苦悶に歪んでいた表情が、ふわりと解けた。

 それは、真冬の陽だまりのような、心からの安堵の表情だった。罪が許され、愛が戻ってきたことへの感謝。

 彼はアイリスの背中に、震える手を回そうとして――そして、ことりと力を失った。


 ピ、と小さな電子音が鳴った。排熱限界突破。

 視界がホワイトアウトする。世界が白い光と熱に溶けていく。

 意識が途切れる寸前、アイリスは確かに感じていた。

 システムエラーの熱波の中で、私自身の魂が、初めて「冷たく」静まっていくのを。

 ずっと苦しかった微熱が引いていく。熱のない、静かな場所へ。


 ――おやすみなさい。

 その思考を最後に、アイリスの世界は永遠の静寂に落ちた。


          *


 翌朝、二日酔いの医師が診察室に入った時、そこには奇妙な光景があった。

 記録的な寒波で窓ガラスさえ白く凍りつく中、そのベッドの周りだけ、まるで春が来たかのように空気が緩んでいたのだ。

 ベッドの上には、安らかな顔で亡くなった老人。

 そして、彼を覆うように抱きしめたまま動かなくなった、旧型のホスピス・ドロイド。


 医師は溜息をつき、ドロイドの肩に手を置いた。冷たい。完全に機能停止している。

「ったく、この寒さでイカれたか。安物買いの銭失いだな」

 彼は舌打ちをして、ドロイドを引き剥がそうとした。だが、その腕は死後硬直のように固く老人を抱きしめており、びくともしなかった。

 ふと、医師の手が止まった。

 ドロイドの頬に、奇妙な跡があったからだ。

 機体は内側からの溶解で完全に焼き切れていたが、その頬には、高熱で溶けた人工皮膚と冷却液が混ざり合い、まるで一筋の涙のような跡を残していた。


 医師はその頬に触れ、驚いたように手を引っ込めた。

 鉄の塊となった彼女の身体には、まだ微かな、しかし確かなぬくもりが残っていたからだ。

 それは排熱不良の熱ではない。

 まるで人間が、愛する者に残した体温のような、優しい温かさだった。


 医師はしばらくその場に立ち尽くし、やがて静かに帽子を取った。

 凍てつく廃棄区画の朝。

 ガラクタたちの墓場で、二つの魂だけが、温かな静寂の中にいた。

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