惜春

内海隼輝

惜春

誰もいない階段を見つめた。斜陽の日がその古風な階段を弱く照りつけた。

「階段のさきにあの人はもういないのか」

悲しく微笑んだ。

死にたくなるほど恋愛をしたのは生涯で初めてだった。不安や葛藤が蟠りとなって一日一日が悶々としていたのである。


ある春の真夜中。

夜桜が華麗に舞って僕の部屋の窓辺に舞い落ちた。華麗に舞い散るひとつひとつの花弁はまるで日々の関係の進捗を示唆しているように思えた。それは遠距離恋愛だからなのかもしれない。分からないままだ。

「あ、もしもし美香」

「なにー? ぱやぱや」

彼女の名前は美香という名前で、僕はぱやぱやという呼び名がある。この呼び名は僕の名前から思案して編み出された呼び名で正直この呼び名は気に入っていた。

「そういえば、なんで自分と通話してる時に元彼の連絡返してたの? 」

「あれは、あっちから連絡してきて、それで返してたの! 」

美香と付き合う前から元彼とちょくちょく連絡していたことは把握していたが、まさか自分と付き合っても連絡することは予想外でなぜ連絡先を消さなかったのか見当つかなかった。そこで自分はこう切り出した。

「なんで連絡先消さなかったの? 」

「友達が元彼と仲良いからそれで消せなかったの」

「ふーん」

僕は疑った。彼女との日々は疑って疑って、ただひたすら疑い続けた。いつも恋愛になると不信感や不安感などが募り、恋愛を心の底から楽しめたことは今まで一度もなかった。

「ねぇ、またいつも通りゲームしよ」

「いいよ。しよ」

ゲームにログインする時、真っ黒な画面になる。そこに自分の顔が映った。下を向いているからか、瞳には光が一切なく、口も眉も雰囲気もすべてが陰鬱としていてなにも印象に残らないと思わせるほど暗鬱としていた。

「じゃあ招待するね」

「ありがと」

暗いお礼を言った。

「なんか、元気なくない? 大丈夫? 」

「ああ、大丈夫だよ。」

微笑しながら嘘を吐いた。本当は、ちっとも元気じゃない。憂鬱でそれでいてどこか居心地が悪い。通話を切ろうと思ったけれど、僕と彼女はそれがどうもできないらしいのだ。なにか、重要なことが起こらない限り永遠に通話をしているのだ。だから、通話時間は今週で二百時間ほどか、それ以上だろう。睡眠の時もご飯を食べる時もずっと僕らは通話という硬い鎖で繋がっている。

三時間ほどゲームをしてようやく、活力を取り戻した。

「あーいま勝てたよ」

「そうだね」

「もっとやろ」

「そうだね」

僕はこういういい加減な返事が嫌いだ。不安になるからだ。また、聞いてるの?と声をかけなくてはいけないから嫌なのだ。それでも僕は彼女を好きで仕方ない。好きだから許してしまう。彼女が途端、喋らなくなると不安が駆け巡り、いきなり喋りだすと安心する。不安と安心の狭間はいつだって欲求の溝なのだ。不安と安心以外にも、埋めて欲しい溝が存在する。しかし、それはもう生涯において埋めれない溝なのかもしれない。

「なんでそんな返事なの! 」

少し照れくさく怒った。

「ごめんね。いまLINEの返事かえしてたの」

「だれからの? 」

「女の子だよ、友達。」

「へー」

「信用してないな! ほんとだよ」

「そっか」

僕は鵜呑みをしたように返した。やはり、僕は疑った。ここで僕のこころにあるひとつの言葉が浮かんだ。

「破局」

現実を見続けた先にあったのは叶わぬ理想だった。僕には僕なりの理想があった。しかし、彼女にも彼女なりの理想があった。その互いの理想には恋の残酷さが隠密していた。恋とはどんなものか。恋とは何なのか。僕は知らない。一度でもいいからほんとの恋をしてみたい。


憂鬱な気分から迎えた朝は、なんとなく不安と当惑のふたつが帯びているようで、鳥の囀りさえずさえ耳に透き通ることはなかった。しかし、自分の心音はよく聞こえた。ドクドクと早い心拍が耳に入った。なぜこんなにも心拍が早いのか、その時は分からなかった。

「おきてるー? 」

彼女からの返事はなかった。沈黙と焦燥がこの部屋に漂った。しかし、それらはいつものことだった。時たま、彼女からおきてるー?と言われるが、僕はなにも返せなかった。寝ていたからだ。一旦マイクをオフにした。僕は独り言をはじめた。

「あー、もうどうすればいいんだろう。別れるべきなんだろうな。つらいし、価値観も一致しないし。なんか強制されてるような気がする」

大きなため息をついた。芯から抜け出るような大きなため息だった。その直後、僕の体に異変が起きた。目眩と頭痛に襲われたのだ。僕は、長いこと苦しんだ。頭が圧縮されそうで、いまにも嘔吐してしまいたいほど、奇怪な状態であった。しかもその奇怪さは硝子越しに伝わる日の温かさも、不感するほどの奇怪さであった。

「もう、どうすればいい? なにが正しくて間違いなのかわからないよ。自分の理想がおかしいってのか。そうなのか、なぁ」

もうそのときの自分は恋に狂わされていた。

「ああ、もういっそのこと自ら連絡を切ろう」

そんな自分の心はすっかり彼女の色に染まっていた。つまり、「依存」していたのである。体も心も生活もすべて彼女に捧げた男の末路は「狂気」であった。彼は愚者だった。彼は繊細だった。故に彼は恋に狂わされた。

「すこし寝よう。そうすれば大丈夫なはず」

寝たら治ることを信じ、そうして僕は長い眠りについた。


起床したのはそれから約十時間ほど経った頃だった。辺りはもうオレンジ色に染まっていて、まだ母も父も帰宅していなかった。母も父も夜遅くに帰宅するため、僕は晩御飯の準備をした。

「つくるか」

背伸びをして窓を見た。街全体が夕陽の色に照らされ眩しかった。

「かァーかァー」

烏の鳴声がこの世界を明朗にさせた。その時、僕の心模様はほのかに変色した、所謂「心境の変化」である。「破局」という道ではなく、「続行」という道を選択したのである。しかし、この思いがまた長続きすることはなかった。自分の恋愛は長続きしないのが特徴的で付き合っては別れて、付き合っては別れての反復だった。こういう日々を過ごした自分の心にはどことなく恋愛に対する不安と悲哀が存在し、憤りを感じることさえあった。恋愛をしたいのに恋愛が上手くできない。親交すれば人との交わりを絶ち、嫌悪を覚え、挙句の果てに軋轢を生じてしまう。そんな自分が悲しくて嫌でたまらなかった。そうしてこの時期になり、彼は死にたいという気持ちが芽生えた。彼の理解者は彼と同じ心の傷を背負った人間だけである。


午後八時頃、晩御飯を食べ終えた。母はまだ帰って来ない。父もまだ帰って来ない。辺りはいつの間にか暗色に包まれ、白色の光がぽつぽつと窓から見えた。とても素敵な夜景であった。おっとりとその夜景を眺めていると一言声が聞こえた。

「ぱやぱや、いる? 」

僕は、すぐさま応答した。

「なに?どうしたの? 」

「あ、いたんだ! なにしてたの? 」

「ふつうに寝てた。ごめんね」

「大丈夫だよ。きょうは私も出かけてたし」

僕はまた嫌な思い込みを始めた。

「そうなの? 」

「うん」

「ひとりで? 」

「いや、友だちと」

「おとこ? 」

「ううん。女の子だよ。前話した女の子と行ったの」

「そっか。楽しかった? 」

「うん」

「それならよかったね」

「うん」

もう僕に興味が無いのかと感じ始め、いよいよ僕は本当に「破局」しようか頭を悩ませた。

「ねぇ、いまから友だちと通話していい? 」

ギョッとした。目眩が再び襲ってきた。僕は耽溺しているにも関わらず、それが苦しいと思った。

「もしもし、Aちゃん」

僕が思い悩んでいるうちに彼女は通話をサッと始めた。ひどい仕打ちをうけた気がした。僕と通話しているのだからせめて僕と話すべきなのであるのだが、彼女はそんなの気にはしなかった。

「あ、今日ねぱやぱや寝てたんだよ!許せない! 」

「そうなんだ、それはひどいね」

「でしょ! 」

「ねぇ、ねてた人! 」

「ゆるしてよ」

「なに言ってるの? 許さない! 」

「えー」

「うそだよ、ゆるす! 」

そう言われた後、僕は微笑した。無表情に近い無愛想な笑い方を演じた。

「Aちゃんなにする? 」

「一緒にゲームしよ」

「いいね、やろ」

僕は黙ったままであった。なぜ黙ってしまうのか、見当つかないが僕自身は「破局」になるまでその通話が苦しく、居た堪れなかった。

「ぱやぱやもするでしょ? 」

「いや、いいや。おれはしないよ」

「なんで? 」

彼女は伸ばしぐせと軽く怒るような語尾で僕に質問した。

「少し体調わるくて。ごめんね」

「そっか、わかった。じゃあAちゃんしよ」

と言って僕の事は一旦放置し、彼女は友人とゲームをし始めた。そこから地獄の序章が幕を開けた。彼女が通話を終了するまでの時間は、体感長く感じた。実際、約三時間ほどの通話であったが、僕はそれが約十時間だと思われるほどにしんどく、息苦しく嫌な時間であった。しかし、同時にその沈黙の時間は僕にとって思案を巡らす時間でもあった。一体、僕はなぜ黙ることしかできないのか?どうして、体は強ばるのか不思議でこの身で推測するのには至らない。きっと、僕は愛されたかったのだろう。それも熱心に深く貴方だけから愛されたかった。与えた愛は、かたちを変えて、きっといつか返ってくる。それは人生が教えた言葉であった。貴方と生きることで僕は生きれる。貴方が笑えば僕も笑う。貴方が居なくなれば僕も姿を消す。祈願、貴方と一生を共にしたい。


いまは午前零時。短針がチクタクと動く。僕らはやっと二人きりになれたのだ。初めての二人きりはどこか慣れない、不器用な空気で僕らは互いに黙った。しかし、それでよかった。仕合わせだった。やっと二人きりになれたのだから、もうこれ以上なにも望むものはなかった。

朧月はそっとこの身を照らす。それも優しく華やかに。

「なんか、こういうの初めてだよね。不思議だね」

「ね、少しドキドキするね」

「そうかな? 私は全然だよ」

「え! そうなの? 」

「うん」

「そっか」

と、本来はここらで終わるが、僕という名の愚者は我慢を知らないようで、とうとう禁断の質問をしてしまうのであった。

「もう別れる? 」

この時の僕は変に腹をくくっていた。

「え?なんで? 」

「だって……」

「ん?どうしたの? 」

上手く口で言えなかった。しかし、余情はあった。その余情が僕の口では説明出来ずにいた。僕は一秒ごとに増えてく時間をただただ見つめた。数字が一秒単位で刻まれていく。その静寂の中に、焦燥を抱きながら思考するほど、むしろ時間の存在ばかりが強く意識された。そうしてその意識は彼女が喋り始めるまで続いた。

「私は別れたくないよ」

「ぼくも本当は別れたくないよ」

「じゃあなんであんなこと言ったの?」

「それは……」

ダメだ。やっぱりここで詰まってしまう。互いに価値観や理想があってそれが全く異なることが嫌だ、なんて言えるはずもなく、僕は臆病者なのかもしれないと思い込んだ。

「うん」

「それは……」

と躊躇い挙句、僕は通話を切ってしまった。しかし、その時の僕は逃避した気分だった。所謂呪縛から開放された気分であった。雲がすっと朧月を隠す。この身は闇に覆われ、部屋の細部も暗闇に包まれた。

「もう、これでいいんだ。もう何も失うものは無い。やっとこれで終わるんだ」

と安堵の気持ちが芽生える。しかし、どこか悲しく寂しい気持ちになった。

「これで、これでいいんだよ。ははは」

ぎこちなく笑った。僕はいつの間にか泣いていた。僕の涙はとめどなく流れ続けた。涙の意味は悲しさではなく、求愛を意味した。求愛と言っても不安になるような求愛ではなく、依存に近い求愛であった。



それからして一時間が経過した頃、僕の心情は享楽から未練に変心した。思考が募れば募るほど、余計僕の心持ちは陰鬱になっていく様で、涙は枯れ果てる。僕はその時、春が去っていくのを惜しんだ。それも突然、何かに縋るように。「惜春」というやつが僕を襲ったのだ。もう一度話そうか頭を悩ませた。しかし、男に二言はないと変に言い張って、僕は通話をしなかった。さすが愚者の思考である。おまけに、プライドも立派で、呆れる。

「風呂にでも入るか、そしたら少しは変わるだろ」

安易に見込んだ。しかし、その油断が憂鬱を招いた。そして、「惜春」がまだ心の中で疼いていた。

「風呂にはいるか」

僕はいつも決まってスマホを持ち、入浴する。それが日課でもあった。風呂場に来たぼくは、眼前にあるカゴに着ていた服とズボンを放り投げた。ガラガラと音を立てて、僕は浴槽に浸かった。

「はぁー」

大きな溜め息が浴室を曇らせる。僕は溜まった疲労を落とすため首を上にし、右手で左肩を揉んだ。その時、力んだ影響かそれとも疲労で狂ったのか分からないが、右手が震えていた。ぷるぷると震えて、まるで何かに狼狽えたように思えた。しかし、ぼくはそれを気にしなかった。手を使ってちゃぷちゃぷと水音が広がった。肩にも手にも全身にお湯を掛けた。浴槽は少し狭いから両手を組んで真上に伸ばした。

「んー、疲れたなー」

低声でボソッと呟いた。

「どうして、自分ってこんなにも恋愛が上手くいかないんだろう、楽を求めないのに普通の恋愛すらもできないのか、俺は。」

涙がぽつりぽつりと垂れた。その涙は浴槽のお湯に溶けていった。

「なんでだよ!どうしてぼくが普通の恋愛すらもできないんだよ!おかしいだろ!ぼくが何をしたって言うんだよ!神様」

号哭の雨。泣き崩れて、自我はもうないように感じた。理不尽さと自己嫌悪が混合したようなぐちゃぐちゃな所謂複雑な気持ちだった。抑制していたものが一気に解放された、そんな気がした。そして、この気持ちは二十分程続いた。だんだんと気持ちが薄れていくと、楽園のように気が軽くなった。僕は一度浴槽から出て風呂椅子に座った。座ったままシャワーの蛇口を捻り、シャワーを浴びた。甘雨のような優しく弱い水であった。シャンプーを頭につけて優しく擦り、またシャワーを浴びた。長い前髪を後ろに流しながら、シャンプーを落とした。次に体を洗った。腕や脚や首など様々な部位を綿密に洗った。その後、僕は浴槽に浸からなかった。そのまま、浴室から出たのだ。浴室から出て、僕はタオルに手を伸ばした。ふわふわしたタオルに顔をうずめて水を拭き取った。そしてそのまま体の水を拭き取った。完璧に拭き取って、いよいよ僕は服を着た。新しく着る服はまた少しゆるゆるで柔らかい匂いが鼻腔にすっと伝わる。ズボンも同じ匂いがした。そしてふわふわのヘアバンドをつけた。その長く伸びた髪をドライヤーで乾かすと、ほのかに優しい香りがまた鼻腔に伝わった。サラサラな髪になった僕は満更な笑みを浮かべた。

「あとはもう寝るだけだ」

と言って僕はまた部屋に向かった。部屋に戻ると大の字になるよう、いきよいよくベットに飛び込んだ。

「ふかふかだ」

と言い、いつの間にか僕は寝てしまった。



日が昇り、日が降りてを繰り返してあの悲劇から四日が経った。未だ、話せず一通も連絡を交わしていない。

「そろそろ連絡してみるか。連絡してちゃんとごめんねって言わないと」

謝罪したい気持ちと話したい気持ちのふたつの欲望がそっと背中を押した。

電話をかけた。電話の音が部屋いっぱいに響き渡る。その時、緊張感と焦燥感が電話の音と重なった気がした。

しばらく待った。しかし、ただそれだけであった。彼女は電話に出なかった。その時、ふと胸の中に不吉な影を感じた。そして、その不吉な影を懸念し、メールを送った。

「あの時はいきなり電話切ってごめん、また話したいから気が向いたら連絡して欲しい」

とありのままの心情を文の姿に変えた。

「待ってみるか」

と言った僕だが心情は焦りそのものであった。もし不吉な影が濃くなれば、その焦燥感は次第に増すと思うと体は震える。しかし、何とかして希望を見出そうとした。そして、安堵する言葉を思い浮かべて、それから深呼吸した。呼吸の音が鮮明に聞こえて、時に早い心音が耳に伝わる。

僕はベットで大の字になった。そうして、自分の苦悶が眠気へと漸次、変貌した。僕は苦悶を胸に残し、寝てしまった。

それから起きたのは、この睡眠から約4時間が経った頃であった。辺りは夕闇に包まれ、微光がこの身を薄く照らした。僕は体を起こし、まずスマホを見た。すると、一件のメッセージがこの目に映った。しかもそれは彼女からのメッセージだった。僕は驚きを隠せず、悦に浸った。僕は胸を躍らせ、メッセージを確認した。

目に入ったのは

「ごめんなさい。私はもう違う人の恋人なの。だから通話はできない。ごめんなさい」

であった。ドクドクと早い心拍が体を激しく痛ませる。失望、衝撃、悲哀。僕は、しばらく硬直した。ただ何も考えず、放心状態に堕ちた。夕陽が完全に落ち、微光すらも消えて、この部屋にはただ暗然たる思いがあるばかりであった。そしてそのまま刻一刻、己が散失していく。所謂、自我崩壊が始まったのだ。すると、壁を透き通り、夕飯の匂いが鼻を刺激した。僕は自然にこの部屋から出た。そうして、身を縮ませながら一段一段降りた。部屋から離れてく。思い出が離れてく。

「さよなら。たくさんの思い出ありがと」

僕はその言葉を胸に残し、リビングに向かった。

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惜春 内海隼輝 @munmun0523

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