とっておきの生知暴虐
ジエチルヒドロキシルケトン
第一話 所有権は強めに主張してけ
生き物ってのはむやみやたらに殺しちゃいけない。憐憫、因果応報、社会制度、宗教観、取って付ける理由はいくつもあるが、なんにせよあんまり殺しちゃいけないし、殺せるやつもあんまりいないだろう。血が出る生き物なら尚のこと。ノアと名の付く個体もいないようなアリの巣に大洪水引き起こして壊滅させるような
「あー、ヒナコちゃん? だっけ、アナタさ」
「あんね、ひよこ。
「ん、すまん、ヒヨコちゃんな。でさ」
「お兄さんは?」
「んー? あー、ヒット。ヒット=トゥラウンス、忘れていいよ。で、えーとさ」
「ヒットくん、お喉かぁいた」
「そか。無駄なことばっか喋ってるからじゃない? はぁ……ガス!! はやく水持ってこい!」
天井の隅に取り付けられたスピーカーかざびざび鳴って、次いで「うーす」と雑な返事が流れる。ヒットはこめかみにぶっとい青筋を浮かべながら意地で笑顔を保った。目の前にはちいさな女が一人。
一つの繭から紡いだ糸を用いて織りあげた正絹で綿雲をたっぷり包めばこの女の肌が作れるだろう。純金を極限まで引き延ばした糸をはちみつのようにとろりと垂らせばこの女の髪が作れるだろう。透き通る光ばかりを映した水晶玉を貝紫に百遍も繰り返し染めればこの女の瞳が作れるだろう。息は白檀の如く、声は迦陵頻伽に勝るとも劣らず。唇は紅も恥じらうほど赤々と艶めき、瑕一つないまろやかな手指の先には花の花弁がちょいと乗っている。蛾眉はなだらかに弧を描き、細部までくっきりと彫りこまれた切れ長の目元、瞳をいっそう深める廂の睫毛は呼吸を恐れるほど繊細だった。
「ちゃーす水デース」
「ありがとうね」
「うーす」
ドギャッとドアを蹴破ってガタンとストロー付きのコップを置いてバワーンと跳ね返ってきたドアをまたドギャッと蹴破った男に、ヒットは青筋を三本に増やしながら怒鳴りつけた。
「テメェが直せよ畜生のゲップ野郎が!!」
「はいハラスメント―、オレメタンちがうー! 主成分アルゴンですー!」
ざびざびの声は相変わらず聴きとりにくい。余談だがこの部屋のスピーカーは食いしん坊の腹の音までクリアにお届けする最高品質だ。ガス野郎は悪態を返しながらドカドカバタバタ走っていった。女はぽってりとした唇でストローを咥えてゆるゆる吸っている。こく、と喉が鳴った。
「で、ヒヨコちゃん」
やっと本題に入れる。
「アスト・デンドリー・ヘレンを殺害した動機は?」
「‥‥りゆう? 水色のね、ラメラメのペン」
「あー、犯行に使用した凶器がなにか?」
「返してくんなかったの。返してって、ゆったんだけど」
瞳は依然として深く底なしで、サッパリした蛍光灯の白を吸い込んで煌めいていた。けぶる睫毛が瞬きのたびにちらつく。
哀れにもヒット=トゥラウンスの仕事は、そんな生まれつきの異常者の相手だった。
▪薄葉一余子の所業
「わたしね、やちかちゃんのことだいすきよ」
「わかってるってば」
「ほんとう? よかった。やちかちゃんってきっとお花の国の妖精でしょう、人間から生まれたって、そうなの」
「妖精? あは、どうかな、でもヒナが言うならそうかも」
「そうでしょう、だってね、だってこんなにかぁいいの」
肺いっぱいに吸い込んだ教室の空気を天界の花信風にしてしまう、淡くつぼみの恋をした乙女だ。もっちりした頬をやわく覆っていた手を滑らせて、ちいちゃな心臓の高鳴る胸元できゅぅっと握った。その手の内にはなにか、命ほども大切なものがあるように思えた。朝露だとか、やちかのいつかの忘れ物だとか、あるいは‥‥明け透けなあこがれ。
「いっつもわたしのお話きいてくれるでしょう、やちかちゃんね、うんうんって、それがうれしくてね、抱き締めたくてたまんないの」
「うん、ヒナはぎゅーってされるの好きだもんね」
「すき」
ぽってりと染まる目元の滴る色香ったらなくって、誰だって胸中に春疾風の吹き荒れることだろう。大きく開いた窓から桜を孕んだ風が通る。ヒナのとろける金が舞って、眩しかった。
「やちかちゃんね、気付いてないとおもうの、教えてあげるね。わたしのペンケースに入ってる、いちばんかぁいいシールね、これね、やちかちゃんに似合うなって取っといてるの」
パステルイエローのチェック柄のペンケース、内布がパープルなのが好きだって。ペンケースというかポーチと呼んだほうが正しいサイズのそれは、主にカラフルなペンとシールとノリとテープが入っている。あと分度器、メモリが見えないくらいシールが貼られている。でも知ってるよ、ヒナのノートはシンプルですっきりしてること、胸ポッケに差した三色ボールペンしか使ってないよね。そういうところが好き。
そんなでっかいペンケースをがばっと開けて、小分けになった袋からシールを一枚取り出した。きらきらつやつや、中にラメと水が入ってるお月さま。ヒナは照れてて、それ以上に嬉しそうで、四角く整った爪でシールの気泡を追っていた。
「かぁいいね‥‥」
「ヒナのがかわいい」
ふと、モービルみたいだなと思った。からら、と回る鮮やかで輝いて、なんにも傷つけない柔らかなもの。でも想像の中では、あやされてるのもヒナだった。
ふ、と熱っぽい息を吐いて、ヒナがこちらを見た。まるんとした頬に思わず触れたくなる。ちゅんと尖った鼻先がぺかぺか光っていた。メイク上手のお友達に点灯されたらしい。
「やちかちゃんってさ、わたし以外に、もっと別の誰かに”だいすき”って言われたことあるかな‥‥、やだ、知りたくない」
「んー、両親とか、でも誰に言われてもヒナが一番だよ」
唇の端がふるえて、声を落としたヒナが言う。机にぽとんと転がったのは、拾われる気のない言葉たち。
「……わたしね、やちかちゃんのこと、大事にしたいの。好きとかじゃ足りない。ぎゅってして、守って、幸せにしたいの。やちかちゃんが、やちかちゃんのままでいられるように」
それは、克明に優しくて、無垢で、少し背伸びした、恋のかたちだった。
ヒナ、ひな、ひなこ、ひよこ。名前の由来を聞いたことはないけど。ひよこよりずっと、ヒナのほうが似合ってるよ。ひよこはニワトリにしかならないけど、きっとあなたは迦楼羅だとか、金鵄だとか、鳳凰だとか、そういうものだから。
夕陽が差す。金の髪は朱くはならない。いつまでも高潔に金であって、瞳は宵より深い紫だった。
と、いうようなことを思わせる女だった。一余子は散々に惚気を聞かせた相手の名前を憶えていないし、後ろの席ってことも知らない。好かれているなどと微塵も思っていない。嫌われているとも思っていないし、相手に感情があるとも思っていない。物扱いではなく、無関心だ。相手が何であるか定めるまでもなく、話したら音が返ってくるから選んだだけのこと。大事な友達だっているが、一余子にとって重要なのは一余子とやちかちゃんだけだから、そんなもんだ。
卒業式の日だってそうだった。キッチリ着込んだ制服と気合入った友達に飾り立てられた顔で粛々と証書を受け取って、アルバムの裏とか色紙とか誰かのシャツとかに寄せ書きして、玉砕覚悟で告白してきたヤツを粉砕したりした。後ろの席の子は知ったような顔をしていたけど、ヒナはその子のアルバムに寄せ書きしなかった。回ってこなかったし、自分から行くような相手じゃなかった。そもそもヒナの脳内にその子の存在は一片もなかったし。
「ヒナー! あたしまだデコってもらってなぁい」
「たいへん、まってね、かぁいくするかんね!」
「ヒナのアルバムもう書くとこないんだけど! ちょ、田渕の顔塗りつぶしてい? いっか、ね、ここハートないのおかしい」
「ねぇもう余った色紙ホッチキスで止めちゃえば? 次の子もう書けないじゃん」
そんなヒナはいまめちゃくちゃはしゃいでいた。友達のメイクポーチよりでっかいペンケースが大活躍してる。ヒナはいつの間にか教卓を使っていて、高名な著者のサイン会くらい長蛇の列を作っていた。他所のクラスの友達や面識ないヤツも来ている。一枚につき三分という時間制限まで設けられ、日頃からヒナのことをおベビだと言って憚らない友達が剥がしをやっていた。誰も彼女の指より長いネイルには勝てない。抵抗すればスカルプ三枚MAXの爪は容易に自爪を持っていくだろう。そこには気の良いギャルの生爪剥いだ罪悪感と賠償金という明確な罰がある。そんなこんなヒナは過保護にされながら、ふすふす鼻鳴らしてちまちまデコっているのだった。
ヒナのアルバムはいま教室の後ろのほうで勝手にページを増やされたりしている。みんなまず教卓の列に並んで、それからヒナのアルバムに直行する。机は捌けられ動線が確保されていた。
「はーいお時間でぇす」
「まって、まってね、シール貼ったげるね」
「えっがち? いいの? ヒナ、シールめっちゃ集めてんじゃん?」
「いいよ! 涼華ちゃんはデパコスのハイライトでヒナのお鼻ぺかぺかにしてくれるから、ヒナも涼華ちゃんのアルバムきらきらにしたげる」
「愛しすぎ! りょういつまでもヒナのお鼻点灯してあげるかんね、任して。結婚式でもお鼻はりょうがやる!」
「おねがいね!」
ヒナはあからさまに依怙贔屓するし、だいすきな友達が喜んでくれるからシールは三枚貼った。涼華ちゃんにそっくりなネコと、おリボンと、クラウン。彼女はクラスの女王さまなので。ティアラは平民もつけれるけど、クラウンは王位の象徴だから。涼華ちゃんは感激した様子で受け取ったアルバムを胸に抱いて動線に従った。増やされた二ページ目のど真ん中に四百字余りのメッセージを美麗な字で刻み込んでから、すぐさま剥がしに加わる。
「ふぅ、ふぅ」
「ヒナ、お水飲んで、ジュースがいい?」
「結乃ちゃんとおんなじのがいいの」
「おっけーあったかいほうじ茶ね。聞いてたっしょ、誰か走ってー、GO!」
「椅子もってきた! 休憩ね、りょうバウムクーヘンあるよ」
「あたしチョコ」
「ヒナはね、ドライフルーツだよ、リンゴだけいっぱい拾っちゃったから少ない」
椅子に腰かけて鞄から色の偏ったドライフルーツミックスを取り出せば、先ほどいの一番に飛び出した男子生徒から人数分のほうじ茶を献上される。彼は陸上部で、それなりに女子人気があった。ヒナに「ありがとうね」と目を見て言われて腰を抜かしているが。マァ、それは誰しもがそうなるのでみんなスルーしている。いまじゃにこやかに話ができているギャル二人だって、最初は男三兄弟次男男子校出身囲碁将棋部童貞みたいにドギマギしたものだ。
「そういや夜哉は?」
「やちかちゃんはバスケ部の人たちに連れてかりたの」
「連れてかりたか‥‥」
「夜っちも人気だもんね」
「ン、でもね、ヒナのやちかちゃんだからね、いいよって貸したげたの」
待機列はメモ帳破って作った整理券が配られて一旦解散した。再開はグループチャットでアナウンスされる予定らしい。未だページを増やされているヒナのアルバムは閉じても四十五度くらいある。お互いのおやつを分け合ってあったかいお茶でほっこり。ちょびっと眠たくなっちゃったヒナがへろりと笑えば結乃ちゃんは拳で己の心臓をドッッッッ!! と殴った。ご自慢のネイルからビジューが取れてもそれどころじゃない。
「りょうぴ、あたしの気が狂ったらあと頼むね‥‥」
「いまからてこと? わかった、りょうが気ぃ狂ったらどしたらいい?」
「夜哉に介錯してもらお」
「それだ」
ヒナはリンゴを絶滅させて、次の獲物をパインに定めた。
しばらくそうして駄弁って、勝手にフォトスポットになったりした。お腹がほかほかちゃぽんとした頃にサイン会再開、痺れを切らした保護者が何人かを迎えに来たところでお開きになった。
「ふたりとも、またね」
「またね、ってか明日ね! 結乃ちも!」
「ねー明日。まじ楽しみ。ヒナ、ほんと大丈夫? あたしら帰るよ? 夜哉のこと一人で待つの?」
「待つの。だいじょぶ! 気をつけてね、だいすきよ」
「ヒナー! だいすき! ぎゅーしよ、りょうぴも早く」
「するする、ぎゅーっ、ふふ、あったかいね。りょうもだいすき」
もちもち抱きしめあってしっかりお別れ。大きく手を振って見送れば影の長いこと。ヒナは空き教室に戻って分厚いアルバムを開いた。ポーチからお気に入りのペンを取り出して、だいすきな人たちからのメッセージを飾る。ここも、こっちも、このページにも! いっぱいだ。
夢中になって書いていれば廊下に響く足音。教室の前で止まって、がらら、と開いた。がらら、と閉まる。ヒナは一瞥もくれなかった。だってやちかちゃんじゃないし。
「きみが薄葉一余子だね」
こえが、声が、ぐわんと響く。青銅の鐘の声だった。それで脳の真ん中がしびしびした気がして、ヒナは顔を上げた。いつの間にか男は目の前に座っていた。机を挟んで向かい、きつく握り合った両手の間を覗いたときの闇の瞳に、ただ一余子が映った。神秘の生き物だ。顎の高さで切り揃えられた髪は別珍のカーテンほども重くぬらりと艶めき、青年というにはあまりに静謐で、壮年というにはあまりに精悍だ。色のない唇の左下には、偉大な画家が余りの命を絞り切って残した最期の筆致のような艶黒子があった。豪雪に惑わされ心の臓を凍てつかせるばかりの生き物の、瞼の裏に浮かぶのはきっとこの男だった。
「はぁ。探すの、大変だったんだよ。ぼくを見るとみんな、おかしくなってしまうから。迂闊に動けなくて」
「そうなの……」
「そう」
男はうっそりと口角を持ち上げてみせた。人間が当然に持ち合わせている権利だとかをアッサリと剥奪するような、生き物が全く無自覚のうちに自らの命が損なわれることを納得してしまうような、なんともうつくしい微笑みだった。冷えた鉄がじわじわと赤熱していくみたいに、男はほんの少しずつ熱を湛えた。それは神秘を損なわない。彼を前に、同い年の幼馴染に恋をする幼気な乙女であっても、苛虐の果てにある淫蕩を期待と共に覚悟しないわけにいかないだろう。
「きみも、ぼくとおなじ生き物になれる。飽きたろう、この世界は。ぼくという存在にさえ心を昂らせることができないほど、きみの心は退屈している。特別なきみを”ただ”特別な女にする冒涜的なこの世界に、きみという生き物をニンゲンなどという枠組みに閉じ込めるこの世界に!」
赤々と、熱が肌を焦がす。男はどろりと融けた目で一余子を求めた。鐘の響きを教室中に満たして、窓がびりびりと震えていた。手が一余子の頬に触れたがっている。つららに強い光を当てて白くみせているみたいな、きっと飛び上がるほど冷たい手が。
「ぼくの世界で、きみは神になるんだ‥‥」
バンッ! と大きな音を立てて机に叩きつけられた。男がぐっと顔を寄せる。呼吸の震えで鼻先が触れ合ってしまいそうなほどの近くで、彼はヒナと息を混ぜている。
ヒナはかぱ、と開いたお口から「え」とも「う」ともつかない声を出して白檀の吐息を青く染め上げ。
「ッご、がひゅ」
握っていた水色のラメラメのペンを性差を感じさせる隆起した喉仏目掛けて突き立てた。ヒナはちまこい心臓をトコトコさせて生きているので、死んでしまうと思ったのだ。喉元を押さえてがぼがぼと陸で溺れる男を見ている。
「あんね、あの、ペンね、返してほしいの……」
うゆ、と唇をすぼめて眉をとろりと下げた。狭い歩道の真ん中にでっかい毛虫がもにゅんとしていたときみたいな、解決策はいっぱいあるしあんまり手間もかからないけど、ちょと困っちゃうよね、という顔で。彼はヒナの話なんかちっとも聞いてないみたいで、がぼがぼ、がぼがぼ。ヒナだって彼の言いたいことはなんにもわからなかった。しょうがないのね、だって返しちゃくれないもの……。骨の張った指の隙間から飛び出てぴこぴこ跳ねているペンのお尻を、上等なロウでできたような滑らかな手でチョンと摘んでからずるっと引いた。
「ぉぶ、ぅ、がぼッ」
「わ、ぁ」
ぶじゅっと噴いた血にびっくりしてグヌ、と押し戻す。ぱたた、っとアルバムに汚点を残した。よかった、増やされ過ぎた白紙のページで。ヒナは友達に心底感謝してから、そもそも男が居なければ汚れなかったと嫌悪の対象を見定めた。
「よい、しょ」
血の付いたページを外してぱたん、と閉じた重たいアルバムを鞄にしまい込む。ペンケースを見つめて悩んでから、一先ずこれもしまった。ペンを取り返したらまずはよく洗おう。
「ひ、よ゙ご、ひぃっ、ぎゅぅ、ッが、がご」
「やめてね」
血塗れの手から上る湯気は腐り落ちる寸前の洋梨の匂いがした。伸ばされた手から仰け反って逃げて、遠ざけるためにペンをずぬぬ‥‥と押した。男は目を見開いて金色の涙をぼとぼと溢し机を汚す。血と混ざって濁り、泥によく似た。
その惨状を前に、薄葉一余子はうつやかであった。金糸に血が飛ぼうとも花弁の如く滑り落ちる。頬は白磁よりも麗しく照り、絢爛豪華な睫毛から覗く瞳の玲瓏たるや!
穢らわしい死に損ないの生き物を前に、一余子は燦々として変わらず在った。それこそが一余子を特別にするのだ。簒奪である。神秘はいま、彼女を愛した。
「ヒナ‥‥?」
開かれた扉、廊下から冷えた空気が入り込む。生温い血の匂いはそれだけでなくなった。ヒナはそちらを見なかった。ペンをぐに、と引き抜く。
「あ、あ、それ‥‥し、んで、るの? ほんと? なんでっ?」
哀れにも、彼女は人間であった。その死体は髪を振り乱し、苦悶の表情を浮かべ金色の涙を流していた。誰もが知る大理石彫刻のように完璧なバランスで、己で喉を締め付けているようにも見える彼はしかし、その中心に昏い穴を空けている。噎せ返る果実の香りが鼻を突いた。死して尚、耽美であり、ともすれば横に寄り添いそのまま息を吐き切ってしまいたくなるほどの凄艶な男。
だが、彼女は気丈に振る舞う。いますぐに掻き抱きたいのは彼じゃない、立ち竦むヒナ、ただ一人であった。
「だい、だ、だいじょうぶ。ヒナ、絶対だいじょうぶだから、私だけは、一緒にいるから‥‥、ね? どこまでもいっしょよ」
錆びた納戸を開け閉めすれば、こんな音が出るだろう。よたよたと脚の折れたイヌみたいに歩き出す彼女は健気で愚かだ。
「あ? 邪魔」
彼女は背後のずっと高いところから落ちた言葉を拾い損ねた。だから避けることもできなくて。癇に障ったのだろう。聞こえる声量で伝わるように言ったのに動かなかった、わざとだろ、ダル。行動原理はきっとこんな感じで、彼女は強く肩を引かれ無理に退かされた。それで、彼女はヒナという神秘の乙女を生涯失ったのだ。
「やちかちゃん!」
ヒナは真っ赤になったペンを投げ捨てて愛しいやちかちゃんに飛びついた。やちかちゃんだ、朝以来のやちかちゃん! ブレザーのボタンどころかシャツのボタンも毟り取られたらしい。ヒナがいつもなぞって遊んでる筋肉が丸見えだった。お腹冷えちゃうよ。
「ヒナ! お迎え来たよ、遅れてごめんなァ」
「ンーン! ヒナね、アルバムデコってたの」
立って向かい合うとヒナの顔の前にお臍がくる。おっきい身体に抱き締められて頬がむぎゅ、と潰れた。ぺっとりくっついた耳からやちかちゃんの生きてる音がする。だいすき。やちかちゃんはヒナを軽々と抱き上げて片腕に乗せて、鞄も回収してくれた。ヒナはやちかちゃんの頭をぎゅーってしながら、襟足の刈り上げられたとこをさりさり掻き混ぜる。
「お、ヒナのかわゆいペンの出番じゃん。あとでオレのもかわゆい感じにしてね」
「する! 書くとこある? ヒナのね、あんまない」
「ヒナのなさそう! オレのはあるよ、寄せ書きんとこ丸々残ってる。写真にはいくら書いてもいいからそこやめてっつったの」
「エーへへ、ヒナのためだ。すき。ヒナね、ページ増えてるから、いろんなとこにちょとずつ書けるよ」
「へー、卒業アルバムってページ増えんだァ」
やちかちゃんは右足と左足を交互に、おんなじ間を持って歩く。走るときもそう。顔は真っ直ぐ前に、眼球だけで視界を確かめるのも、整髪剤をつけないのも。
「ヒナのかぁいいやちかちゃんだからね」
「そォだよ。オレはヒナのための
二人はきゃらきゃらあはあは笑いあって帰路についた。暮れなずむ空は黄と紺を滑らかに繋いでいる。強い風の吹く日だった。華奢なヒナは煽りを受けてふわりと揺れて、やちかちゃんの額にあまく灼けつく口づけを贈ったのだった。
「ペンを‥‥返してほしいんじゃなく、命の危険を感じたからだろう? な? アスト・デンドリー・ヘレンという異界の神と対峙し、ヒヨコちゃんは生命の危機に陥った。そりゃしかたないさ、相手は人の皮を被った神だったんだから」
ヒットの対応は取調べにおいては最も悪質なものだろう。緊張状態の相手に筋書きを与えれば記憶は容易く変質する。だがこれでよかったのだ。異界の神が人間にちょっかい掛けてビビらせて殺されました、加害者は正当防衛ですむしろ被害者ですって。それが一番簡単で、そのあとこの異常者がどこに保護されるだとか誰に監督されるだとかどうだっていい。ヒットの目の前から一人の異常者が消える。それがすべてだ。
「ちがうよ」
「喉乾くぞ」
「わたしはね、近寄らないでほしくて刺したの。それでね、はなれて、ペンを返してくれればよかったの。でも返してくれないから、殺して取り返すしかなかったの」
「なんで黙ってられないんだよ!」
これじゃ明確に殺意があったことになる。冷静沈着に状況を見極めてまったくの無感動に人を殺した異常者だ! そうなればこの女は異界の神を惨殺したとして裁判にかけられ、ヒットとの付き合いも長いものとなるだろう。だってヒットが受け持った事件だから。クソッタレ!!
神を失った世界は急速に衰退していってる。いまこの瞬間だって何千何万という尊い命が失われているのだ。生き残った生命体から神が誕生する可能性は限りなく低い。また奇跡的に神となっても野生の場合こちらのシステムを理解させるのにも時間がかかる。大昔は野生の神が徒党を組んで反逆まで起こしたのだ、反乱分子はそもそも作らないのが一番。野生とはいえ神だし、殺処分だって神権団体がうるせーったらない。あんなもん人間から見たサルとかわんねーだろ。言葉通じないし、品性がない、理性もない、社会規範を叩き込むのに何億年かかると思ってんだ! テメェが教えるなら勝手にしろよその労力を支払うのはこっちだぞ!
ともかく、この女の証言通りじゃ困るんだ。神殺しの罪は重い。そういう大罪人は英雄視されやすいんだ。バカみてーな影響受けるカスがいないとも限らない。だから直接関わるヤツは必要最低限だし、ほら俺じゃん。やってらんねーよクソが。俺だって、頭が可笑しくなりそうだ。だいたい俺がこの女を視れているのが可笑しい。本来なら容姿はローポリだし、声は減衰波長ぶつけて壊したものを聞き取れる程度に復元した機械音声のはず。あらゆる機械的・魔法的プロテクトをぶち抜いて生身でご対面とか、想像もしてなかった。俺が脳みそに魔法陣彫ってるタイプだからなんとかなってるものを。無自覚に神秘を簒奪した女、目が合うだけで身体が勝手に従属を選びそうになる。この数十分で俺は舌がずたずたになった。
とっておきの生知暴虐 ジエチルヒドロキシルケトン @horemitakotoka
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