第2話:プロファイリング・アイズ


あの「硬度H」の衝撃から、一週間が経過した。


札幌の冬は、容赦がない。

路面は圧雪から凶悪な氷盤(アイスバーン)へと姿を変え、市民の歩行速度は著しく低下する。

誰もが転倒という物理的リスクに怯えながら歩くこの季節において、私の「通勤ルーチン」だけは、熱を帯びた狩場と化していた。


私は毎朝、7時45分に家を出る。

以前の私なら、ギリギリまで布団にくるまり、スヌーズ機能と不毛な戦いを繰り広げていただろう。

だが、今の私は違う。

ターゲット――仮称「安全靴の彼」の出社時刻に、完璧に同期(シンクロ)させるためだ。


地下鉄のホーム。

列の三番目。

ここが私の指定席(ベスポジ)だ。

私の視線の先、斜め45度前方。

そこに彼がいる。


(本日の観測を開始する。対象、相良耕太……社員証の名前は確認済み)


私はマフラーに顔を半分埋め、スマホを操作するフリをして、前髪の隙間から彼を凝視する。

これはストーキングではない。

企業のM&Aにおける「デューデリジェンス(買収監査)」だ。

物件の価値を正確に査定せずに入札するなど、ギャンブル狂のすること。

私は論理的思考に基づき、彼というシステムの運用状況をモニタリングしているに過ぎない。


この一週間の観察で、彼についていくつかの興味深いデータが得られた。

その一つが「装備の変動」だ。


彼は、日によって装備(鞄)を変える。

ある日は、機内持ち込みサイズの頑丈そうなスーツケース。

またある日は、ポケットが無数についた機能的な黒いリュックサック。


(今日はリュックの日ね……)


札幌の地下鉄には網棚がない。

彼はリュックを前に抱え、周囲の邪魔にならないようコンパクトに収まっている。

特筆すべきは、その鞄の状態だ。

スーツケースもリュックも、デザインは地味だが、常に「新品同様」に見える。

汚れやほつれが一切ないのだ。

普通、愛用品なら経年劣化があるはず。

だが、彼の鞄はいつもパリッとしている。


(買い換えている? いや、これはおそらく「支給品」だわ)


私の脳内プロファイリングが走る。

鞄が汚れたり破損したりした状態で客先に行くことを良しとしない、厳格な規律(ポリシー)。

あるいは、常に万全の状態であることを求められる技術職。

スーツケースの日は重装備、リュックの日は軽装備。

毎日決まったデスクに座る事務職ではない。

現場によって装備を変える、何らかのスペシャリスト。


(正体不明。だが、そのミステリアスな稼働実態が、私の解析意欲をそそる)


そしてもう一つ、意外な発見があった。

彼は、アナログ派なのだ。


最初の遭遇時で観測した際はスマホを操作していたが、平時の彼は、車内で文庫本を開いていることが多い。

リュックを抱えた狭いスペースで、器用に片手でページを繰る。

本には、見覚えのある紺色のブックカバーが掛かっていた。

たしか、駅前の大型書店のものだ。タイトルは分からないが、縦書きの小説であることは見て取れる。


(タブレットやPCを使いこなしそうな指先なのに、あえて紙の本……?)


デジタルの疲労を、アナログな質感で癒やしているのだろうか?

その知的な横顔を見ていると、私の胸の奥で、所有欲という名のエラーログが蓄積されていく。


その時、混雑した車内で小さなトラブルが発生した。


「あ、すみません、降ります……!」


奥から小柄な女性が、ドアの方へ向かおうとしていた。

しかし、通路は屈強なサラリーマンたちの壁に阻まれている。

誰もが自分のスペースを死守することに必死で、女性の声はノイズとして処理されていた。


だが、彼は違った。

文庫本から視線を外すことなく、まるで未来予知でもしたかのように、彼は動いた。


スッ。


彼は抱えていたリュックを数センチ持ち上げ、同時に体を半身にひねった。

それだけの動作で、彼の背中と隣の乗客との間に、人が一人通れるだけの完璧な「導線(パス)」が出現したのだ。


「あ、ありがとうございます」


女性が通り過ぎる瞬間、彼は小さく会釈をしただけで、すぐに視線を本に戻した。

恩着せがましさゼロ。

ただ、「そこにパケット詰まり(渋滞)が発生したから、帯域を空けて解消した」という、極めて事務的かつ論理的な処理。

女性は頬を少し赤らめ、彼の横顔をチラリと見てから降りていった。


その瞬間。

私の心臓の奥で、どす黒い炎が立ち上った。


(……は?)


イラッとした。

そのスマートな気遣い。

無駄のない所作。

それは、私が発掘した「機能」だ。

私が最初に見つけた「優良物件」のスペックだ。


(なに赤くなってるのよ、あの女。その「神対応」は、私のものよ)


彼が誰にでも優しいわけではないことは分かっている。

あれは単なるマナー、あるいは社会的なアルゴリズムの実装に過ぎない。

それでも、許せなかった。

彼というシステムの管理者権限(root権限)は、私だけが持ちたい。

他のユーザー(女)に、ゲストアクセスすら許したくない。


「……決めた」


さっぽろ駅での乗り換え。 彼が階段を上っていく。

その背中は、どんなトラブルも解決してくれそうな、頼もしさに満ちている。


私は人混みに紛れながら、彼を見据えて小さく呟いた。

観察フェーズは終了だ。

これ以上、野放しにしておけば、他のハイエナにかっさらわれるリスクがある。


「待っててね、耕太さん。……その鉄壁のファイアウォール、私がこじ開けてあげる」


私はマフラーを直し、決意を固めた。

次は、偶然を装った「接触(アクセス)」だ。

それも、彼が絶対に無視できない、不可抗力のイベントを利用して。

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2025年12月23日 15:00
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理子の恋愛プロファイル トムさんとナナ @TomAndNana

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