春の色は

月野 麗

色は未だ

 青春、それは僕をずっと苦しめてきた言葉。


 部活動で大会に出る。クラス一丸となる学校行事。夢を目指す大学入試。そんなものが、「正しい」学生のするべきことだと決めつける言葉。大嫌いだ。



 肺に溜まっていた空気を、吐く。ほこりと木材の匂いが、僕の鼻を刺激した。


「憂鬱だ」

 口に出した言葉は、僕の心を重くするばかりで。黒く鬱陶しい長髪を撫でつけると、グレーのパジャマが揺れた。

 カーテンが半開きだったせいで外が見える。ブルーグレーの向こうに咲く梅の花に苛ついた僕は、自分でも驚くぐらい乱雑にカーテンを閉ざした。耳障りな音が部屋を満たして、消えていった。



 僕はいわゆる引きこもりだ。高校に入ってすぐ、先輩からのいじめの対象となり、学校に行かなくなった。


 先輩が怖かった。

 いや、先輩よりも怖い人たちがいた。

 助けてくれない先生やあざ笑ってくる同級生が、もっと怖かった。


 だから僕は高校へ行かなくなった。「行きたいけど行けない」だったものが、ある日パタッと、「行きたくない、行かない」に変わったのだ。

 最初は罪悪感もあったが、今はもう、そんな感情も燃え尽きてしまった。



 ふと天井を見上げる。

 薄暗い六畳の部屋には、寝具や服、机以外は何もなかった。


 この部屋は、繭だ。僕という柔らかな幼虫を守るもの。

 だが僕は繭を破ることはないのだろう。この繭の中で力尽きて静かに枯れてゆくのだろう。そう思いながら冷たく硬い床を撫でた。


 扉の向こうで音がする。母さんがまた、僕のご飯を置いてくれたのだろう。魚の匂いが漂ってきた、僕はそんな理由で扉を開けた。

 動かなくても食欲だけはある。黒く丸いお盆の上には、真っ白なご飯と焼き魚、お味噌汁。今日の僕の朝食兼昼食だ。

「いただきます」

 僕は床に正座すると、手を合わせる。椅子に座るのも最近はおっくうで、閉めた扉に寄りかかって僕はご飯を食べ始めた。


 と。

「ん……?」

 今日のお盆の上には、どうやらいつもとは違うものものっていたらしい。

 それは一枚のはがきだった。

 左手でつまみ、表と裏を見る。切手や消印がないところから見るに、郵便受けにそのまま入れたのだろう。


 僕ははがきというものが嫌いだ。

 というか、手書きされたメッセージに込められた気持ちが苦手だ。込められた想いは怖いくらい純粋に僕を刺してくるから。

 悪意やマイナスの想いが伝わってきたら、僕はどう逃げればいいのかわからないから。


 でも、今日の僕ははがきから逃げなかった。なぜか、表に大きく書いてある「八谷智弘様」の一行に見覚えがある気がして、僕ははがきを裏返した。

「八谷、元気?急にごめんな。この間、家の片づけをしてたら、俺らが入学した頃の写真がでてきて。お前、どうしてるかなって思ったけど、メールが返ってこなかったからはがきで言うわ。いつかまた話そうな。」

 紛れもなく、それは高校での唯一の友人の字だった。はがきに込められていた感情は、僕が考えていたよりも柔らかなもので。映画みたいに涙は出なかったが、僕の胸は暖かくなった。


 はがきを机の上に置く。暗い部屋の中、ほこりがふわりと舞う。その日の僕は一日中、ただはがきの上の文章を撫で続けていた。



 次の日から、僕はある事をした。朝起きて、カーテンを開ける。透明な黄色い光が、僕の部屋にはまぶしい。

 思ったよりほこりが白く輝いている部屋は、なぜだかいつもより広く見えた。

「おはよう」

 扉の向こうが今日もきしむ。僕は扉を開けて、母さんに一言挨拶をした。

「おはよう……!」

 久しぶりに見た母さんは、泣きそうな顔をしていた。扉の向こうとこっちが、半年ぶりに繋がる。僕の繭に、僕自身が穴を開けた日だった。


 そして、毎食前の挨拶と朝の換気をする日々が、一日、一週間、一か月と積もっていった。



 もう春も終わりの、ある日。

 西日が差し込む家に、蛙の鳴き声が響く。梅雨の近づきを感じながら、久しぶりに僕は片付けをしていた。小綺麗になった部屋から服の山を運び出す。

 最近は僕も時々一階に降りる。階段の前の引き戸を開けると、ちゃぶ台の前に座る母さんと目が合った。

「あの、これ洗濯頼んでいい?」

 左腕に抱えるそれらを揺らす。せんべいをかじったまま首を縦に振る自分の母を見て、僕は洗面所へ向かった。


 廊下の突き当たりにある洗面所のカゴに、服を全部放り込んだ。振り向いた先の鏡には、僕の姿が映っていた。前よりも清潔になった衣服とミスマッチな、長い前髪。過去から目をそらし続けたいといういつかの意思が、現実になったようなものだった。


 そっと、洗面台の引き出しを開く。二段目の引き出しにしまってあったのは、母がコットンを切るハサミで。若干鈍く光るそれを、僕は手に取った。


 何を思っていたのか、わからない。気づいたときには「ザクッ」と耳元で音がしていた。足まで落ちる髪の風圧が、不思議なくらい心地よかった。


 その足で僕は、廊下を走る。

「母さん!少し僕、外を散歩してくる!」

 一応リビングへ声をかけて、僕は白いサンダルに足を通した。

 とんとん、とつま先で土間を叩く。鍵を開ける。

 扉の外に広がる世界はオレンジ色だった。僕は待ちきれなくて、そのまま駆け出した。背中の後ろで母さんの声を聴いた気がした。



 春は生命が芽吹く季節。前までの自分を捨てて、未知の自分になれる時期。

 それなら、何色をしていたって良いじゃないか。春は青くないといけないわけじゃない。

 みんなの春が青くても、僕の春が何色かは、僕が決める。

 だって、僕がその春をつくるのだから。


 この春が巡って実をつけるとき、果たしてそれはどんな実か。今から楽しみで仕方がない。



 思い切って顔を上げてみた。短くなった黒髪が、僕の視界から消える。僕の額が涼しくなる。

 琥珀色の夕日が、地平線の向こうに輝いた。

 ここは近所の歩道橋だが、ここから見える景色は昔から変わらず綺麗だ。


 明日はきっと、理容室に行こう。母さんに言ったら、喜んで連れて言ってくれるはずだ。

「ははっ!」


 笑って、歩道橋を降りた。まだ春の夕方はすぐ暗くなってしまう。僕は全速力で家へと走る。

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