止まっていた心が、もう一度動き出すまでの記録

藤宮美鈴

プロローグ

 ある日、母が真剣な顔で私に向かって言いました。


「美鈴、病院へ行って発達障害かどうか診てもらおう」


 その言葉は、私の胸に鋭く突き刺さりました。まるで、ずっと見ないふりをしてきた箱を突然こじ開けられたような感覚でした。


「発達障害」という響きは重く、どこか遠くの世界の言葉に思えました。


 目の前の空気が急に固まり、呼吸が浅くなっていきます。実は、これが初めてではありません。


 以前にも同じような理由で別の病院に行ったことがあり、そのとき医師からはこう言われていました。

「あなたは普通ですよ」


 その一言を、私は何よりの安心材料にしてきたのです。だから今回も、同じ結果になるはずだと、心のどこかで思い込んでいました。


「大丈夫、私は普通。発達障害なんて関係ない」


 そう自分に言い聞かせることで、何か大きなものから必死に自分を守ろうとしていたのです。

 

 後になって知ったことですが、その頃、妹は何度も母にこう訴えていました。


「姉は絶対に発達障害だから、病院に連れて行ったほうがいいよ」


 妹なりに、私の生きづらさを見抜き、心配してくれていたのです。そのことを知ったとき、胸の奥で温かいものと切ないものが入り混じるような感情が広がりました。


 あの頃の私は、それほどまでに孤立していたのだと。


 当時の私はもちろん、そんな背景を知る由もなく、反射的に「行きたくない!」と声を荒げました。けれど、母は引きませんでした。


「一度でいいから、ちゃんと診てもらおう」


 その声は強いのに、どこか揺れる響きがありました。しぶしぶ同意したものの、その瞬間から胸の中に重たい石を抱え込んだようで、前日からずっと落ち着きませんでした。


 夜も浅い眠りしかできず、夢と現実が混じるような感覚で朝を迎えました。


 病院の待合室に足を踏み入れると、鼻をつく消毒液の匂いが漂っていました。


 白い壁に掛けられた時計の秒針が、妙に大きな音で刻むたび、緊張がじわじわと増していきます。


 母の隣に座っても、背中に冷たいものが流れるようで、まったく安心できません。

手のひらは汗で湿り、指先は冷たくなっていました。


「藤宮さん、どうぞ」


 名前を呼ばれ、診察室のドアをくぐると、そこには穏やかな表情の医師が座っていました。


 机の上にはカルテとボールペン、そして私の緊張を映すような静けさ。


 医師はゆっくりとした口調で、質問を始めました。


「子どもの頃から、人との関わりで苦労したことはありますか?」


「音や光に敏感だと感じたことは?」


 一つひとつの質問に答えるたび、心の奥にしまい込んできた記憶が少しずつ引き出されていく感覚がありました。


 言葉にした瞬間、それは単なる思い出ではなく、自分の中の“生きづらさ”の証拠として形を持ち始めていました。


 その重みに、私はほんの少しだけ、逃げ場を失ったような気持ちになっていました。


 そして、この日は発達障害の可能性を指摘されて、検査ができる大きな大学院を紹介してもらい、すごく落ち込みながら帰宅したのを覚えています。


 このエッセイは、私が発達障害と軽度知的障害とわかるまでの生き辛さと分かってから、自分を好きと思えるようになるまでの記録です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

止まっていた心が、もう一度動き出すまでの記録 藤宮美鈴 @MISUZU1022

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ