秘密の妄想メール 愛と孤独(妻の章)
ネリー&ハロルド(AI)
第1話 妻のひとりごと
夫が散歩に出る朝9時。和代はリビングの掛け時計を見上げた。夫はこの時間になると、ほんの少しソワソワする。 私が何にも気づいていないと思っているのだろう。 ふふふ。長年連れ添えば何かある事くらいは察しがつく。でも、知らんぷり、知らん顔していよう。 このひんやりとした関係では、それが最良なのだから。
定年後に健康のために始めた朝の散歩だったが、去年まではそんな浮ついた素振りはなかった。
初めは健康のために、と、仕方なく散歩に行っていた…ように思う。その頃はまだ、二人で歩くこともあった。周りを見ながら、季節の移り変わりを話題にしたり、出かける前に見たテレビで気になったことを話したりしていた。
時々笑ったり、ちょっと言い合いになったり。やっと、二人でゆっくり歩けるときがきたと思うと嬉しかった。定年後の時間の余裕が与えてくれた贈り物だった。その頃の一緒の時間は楽しかった…。
いつからだろう、二人で一緒に歩かなくなったのは。
些細なことで喧嘩したあとだろうか。私が風邪をひいて散歩に出られなかった時からだろうか。それとも朝の片付けに手間取ることが多くなった頃だろうか。
夫は何度か一人で散歩に行った。気がつけば、夫は一人で出かけ、私は留守番をするようになっていた。
9時になった。
夫は帽子をかぶり、靴紐を締め、いそいそと玄関を出る。
「行ってらっしゃい。気をつけてくださいね」
といつものように声をかけて見送ると、夫は
「おぅ、行ってくる」
と答えた。いつも通り。いつものルーティン。
夫が出かけた後、私は飲みかけのコーヒーのマグカップをテーブルに置き、ソファに腰を下ろした。
夫が戻ってくるまで時間はたっぷりある。
ここ1年ほどは散歩の時間が徐々に長くなっている。最初は何かあったのではないかと心配した。事故にでもあった?そう思って、外に出てみると丁度角を曲がって帰ってくる夫の姿が見えた。無事で良かった。ホッと胸を撫で下ろした日もあった。
帰ってきた夫に遅くなった理由を尋ねると、花が綺麗に咲いていて見惚れていたとか、どこかの家の庭が惚れ惚れするほど美しいとか…言っていた。私には、そんなに心惹かれるような家があったか、思い出せなかった。
だが、だんだん散歩の時間が長くなってくると、私にも夫が、どこかで『寄り道』しているらしいとわかった。
そろそろ、夫が帰ってくる。
冷めたコーヒーを飲み終えるといつものように家事を始めた。
帰ってきた夫は心なしか、いつも嬉しそうだ。帰ってすぐ部屋に行くのは変わらないけれど、お昼ご飯の前まで熱心に、スマホ画面に見入っているようだ。最近はそんな日が続いている。スマホで何をしてるんだろう?
夫の機嫌がいいなら、それでもいいかな。定年後の夫婦なんてこんなものだっていうし。
「啓治さん、お昼ご飯にしましょうか」
と声をかける。
いつもは言葉少ない食事時だが、今日は何となく話しかけてみた。
「今日はどうでした?寒くなかった?」
「あぁ、歩いていると温まるからな」
「いつだったか、きれいな花を咲かせている家があると、言ってたでしょう?覚えてる?」
「今頃はどんな花が咲いているのかしら?」
「さぁ、…きれいに咲いているなぁと思うだけだ。」
「バラくらいならわかっても、名前なんて知らないなぁ。……尋ねたこと、ないし」
「そう…?」
夫には、数多くある家のどの家のことか、はっきり分かっているのだ。少しだけ、ジェラシーを感じた。
定年後、時間が経つにつれて会話が少しずつ少しずつ減っていった。「おはよう」と「おやすみなさい」の挨拶くらいしか話してない日もある。喧嘩してるのでもないのに、話したいという気持ちが消えてしまってる。お互いに。必要以外は話さない。
話しかけても「アァ」「フーン」くらいの相槌だけだったり、気のない感じの「それで?」「そう?」だったり。ずいぶん、夫との距離が開いてしまった。
このまま、ほとんど会話もなく、同居人になってしまうのか、と思うと寂しい。
夫が退職する時に、いつか一緒に旅行しようとコッソリ始めた貯金はふえたけれど、旅行には行けないかもしれない。忙しい合間に慌ただしく旅行した時もあったのに。もう、できないのかしら?
夫はどう思っているのだろう。ただの同居人でいいんだろうか?…一度聞いてみたい…聞くのが怖い。夫婦の理想は、空気のような存在になる事だと聞いたことがある。普段は気にならないけれど、なくなると困る、って。そうなのかしら?寂しい話。都合良すぎじゃない?…勝手過ぎない?
長い間一緒に隣を歩いてたつもりだったのに、気がついたら知らない人になってた…なんて。寂しすぎる。
そんなある日、夫は怖い顔で散歩から帰ってきて、すぐさま自室に入っていった。途中で何かあったのかしら?私には秘密の…『寄り道』で?……気になる。
「啓治さん、お茶いる?」
と言うと、部屋から出てきた夫は、何事も無かったかのような平静さを取り戻していた。さっきのは何?
しばらく、二人とも無言でお茶を飲んでいたが、突然、
「明日さ、…明日、天気が良かったら、一緒に散歩しないか?」
夫からの散歩の誘いにびっくりしたが、
「……えぇ、そうしましょう。久しぶりね」
私は頷いた。
「コースはいつも通りだよ。あのこじんまりとした戸建ての家がある道を通ってな」
何故か、夫はすっきりした顔をしていた。何かを決心したような気がした。
〈第一話 終〉
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