義妹に婚約者を奪われた令嬢が、亭主関白で有名な辺境伯に嫁いだところ……!?

間咲正樹

第1話

「でさ、相手がニャポッシュをミスした隙に、僕はすかさずニャポロンをニャポバーンして、見事逆転勝利を収めたってわけさ」

「そ、そうなのですか……」


 今日は我が家の中庭にある東屋で、婚約者であるエメリヒ様と二人でお茶会を開いていた。

 だが、先ほどからエメリヒ様は、最近貴族男性の間で流行っている『ニャッポリート』というカードゲームのお話しかせず、ニャッポリートはルールすらわからない私には、まったく話についていけない。


「……あのさぁ」

「え?」


 その時だった。

 エメリヒ様がハァと、大きな溜め息を吐いた。


「前から思ってたんだけど、リーゼルってなーんかノリ悪いよね」

「――!」


 途端、冷や水をかけられたみたいな感覚がした。

 ノリが……悪い……。

 ……確かにそうかもしれない。

 一人娘として家督を継ぐため、子どもの頃から勉強ばかりしてきた私は、人とコミュニケーションを取るのが苦手になってしまった。

 所謂陽キャというものに分類されるエメリヒ様からしたら、私みたいな女は大層つまらなく感じることだろう……。


「あっ、エメリヒ様、いらしてたんですね!」

「おお、ヘレーネ! 今日も可愛い格好してるね!」


 その時だった。

 唐突に義妹のヘレーネが現れた。

 ヘレーネはお父様の再婚相手の連れ子で、全てが地味な私と相反して、流行のファッションにも敏感で、常にキラキラと光り輝いている、宝石みたいな女の子だ。


「えへへー、ありがとうございます! あっ、そういえば最近私、ニャッポリートにハマってるんですけど、今度戦術教えてもらえませんか?」

「えっ!? そうなの!?」


 なっ!?

 ヘレーネがニャッポリートをやってるなんて話、聞いたことがないけど……。


「いいよいいよ! 今度と言わず、今教えてあげるよ! ちょっとここ座んなよ」


 エメリヒ様は自分の隣の席をポンポンと叩く。


「え、でも、今はリーゼル姉様との大事なお茶会じゃ?」


 ヘレーネがチラリと、私を窺う。


「ああ、いいのいいの。リーゼルはニャッポリートのこと全然わかんなくて面白くなかったからさ。ちょうどよかったよ」

「――!」


 エメリヒ様は私のほうを見向きもせず、そう言った。

 面白く……ない……。

 自覚はあったものの、面と向かってそう言われると、鋭利なナイフで突き刺されたみたいに、胸がズグンと痛んだ。


「アハハ! ですよねー。じゃ、失礼しまーす」


 身体を密着させるように、エメリヒ様の隣にちょこんと座るヘレーネ。

 あ、あぁ……。


「でさ、ヘレーネはどっちかというとニャポラッシュ型? それともニャポディッシュ型?」

「あー、私はガンガン攻めたいタイプなんで、やっぱニャポラッシュ型です!」

「ハハ、まあ、最初はみんなそうだよね! でもさ――」


 こうして二人は私の目の前で、それはそれは楽しそうに、ニャッポリートの話題で盛り上がったのだった――。

 その間、私はずっと無言で、紅茶をチビチビ飲んでいた……。




「リーゼル、来てくれ。大事な話がある」

「は、はい」


 その数日後。

 お父様が神妙な顔で、私に声を掛けてきた。

 この瞬間、私の背中を悪寒が走った――。




「やっほー、リーゼル姉様」

「――!」


 お父様と一緒に書斎に入ると、そこにはヘレーネが待っていた。

 私の中の嫌な予感が、いよいよ確信に変わる――。


「リーゼル、実はエメリヒ様から、婚約者をお前からヘレーネに替えたいという打診がきているんだ」

「……」


 ああ、やっぱり……。

 弱小子爵家の我が家と違って、エメリヒ様は名門伯爵家の三男。

 いくら我が家に婿養子にくる立場とはいえ、エメリヒ様にそう言われたら、お父様としても受け入れざるを得ないだろう。


「ゴメンなさいねリーゼル姉様! 私は全然そんなつもりはなかったんだけど、エメリヒ様にそう言われちゃったら、従うしかないもんね」


 ヘレーネは勝ち誇った顔を、私に向けてきた。

 ……何を白々しい。

 ヘレーネが我が家に来てからの数年間。

 私はありとあらゆるものをヘレーネに搾取されてきた。

 綺麗なドレスに、種々のアクセサリー。

 先日はお母様の形見だったネックレスまで、「私のほうが似合うから」という理由で奪われた。

 お父様が私よりもヘレーネを可愛がっていることも、それを後押ししていた。


「でも、安心してリーゼル姉様。この家は、私とエメリヒ様でちゃーんと繁栄させてくから」


 そして今日、遂にヘレーネは私から、婚約者と家督まで奪ったのだ――。


「そういうわけだリーゼル。代わりといっては何だが、お前には新しい縁談を用意してある」

「――!」


 新しい……縁談……!?


「これだ」

「……」


 お父様から差し出された釣書を無言で受け取り開くと、そこにはヴァルター・ラングハイム辺境伯の名前が記されていた――。

 ――なっ!?

 ラングハイム領といえば、亭主関白で有名な土地柄。

 その領主であるヴァルター様は、中でも最上級の亭主関白だとか。

 ちなみに亭主関白というのは、その昔日本という異世界から転移して来た聖女様が広めたワードで、夫が妻に対して暴君のような態度を取っている家庭のことを言うらしい。

 大昔ならまだしも、聖女様の尽力のお陰で女性でも家督を継げるようになった今の時代において、未だに亭主関白などというものが幅を利かせているのは、時代錯誤も甚だしい。

 そんな家に嫁いだら最後、待っているのは地獄だけだわ……。


「なあに、亭主関白なんていうのは、単なる噂に過ぎないよ。そんなに心配することじゃない」

「そうよ! 案外嫁いだら大事にしてくれるかもしれないし。よかったわね、リーゼル姉様。私もリーゼル姉様の幸せを願ってるわ」

「……」


 二人の顔には、これでやっと厄介者を追い出せて清々するという感情が滲み出ていた。

 ……とはいえ、私に拒否権がないのも事実。


「……承知いたしました。今までお世話になりました」


 私は奥歯をグッと嚙みしめながら、お父様に頭を下げたのだった――。




「よく来たなリーゼル。俺がヴァルター・ラングハイムだ」


 そしてその翌月。

 単身ラングハイム家に嫁いで来た私を、ヴァルター様が出迎えてくださった。

 ヴァルター様はとても背が高く雄々しい佇まいをしており、優雅に空を舞う大鷲を連想させた。

 この方が、今日から私の夫――。

 ラングハイム家の屋敷は、ちょっとしたお城くらいはあるのではないかという豪邸だった。

 貴族とは名ばかりの私の実家とは、雲泥の差だわ……。


「よ、よろしくお願いいたしますヴァルター様。リーゼルでございます」


 私はカーテシーで応える。


「うむ、よろしくな。――知っているとは思うが、我がラングハイム家は、代々亭主関白な家系だ。リーゼルも我が家の嫁になったからには、亭主である俺の言うことには、何でも従ってもらうぞ」

「は、はい、承知しております」


 嗚呼、いよいよ始まるのね、私の地獄の夫婦生活が――。


「うむ、ではまず最初に――何だお前のその服はッ!」

「っ!?」


 ヴァルター様は私の着てきた、みすぼらしいドレスをビシッと指差す。

 あ、あぁ……。

 勘当同然に家を追い出された私は、こんなボロボロのドレスしか与えられなかった。

 妻となる女がこんなボロ雑巾みたいな格好で嫁いで来たら、怒りたくもなるわよね……。


「も、申し訳ございませんでした……! ヴァルター様の――」

「それではお前のが、全然引き出せていないではないかッ!」

「…………え?」


 ヴァルター様、今、何と??


「こうしてはおれん! オイ、お前たち!」

「「「はい、旦那様」」」

「っ!?」


 ヴァルター様がパンパンと手を叩くと、無数のメイドたちが私を取り囲んだ。

 んんんんんん????


「「「失礼いたします、奥様」」」

「え!? ちょっ!?」


 そして私はメイドたちに、神輿みたいに担ぎ上げられた(ちなみに神輿というワードも、聖女様が広めたものだ)。


「「「そーれそーれそーれそーれ」」」


 そのままどこかへ連行されて行く私。

 えーーー!?!?!?




「湯加減はいかがですか、奥様?」

「あ、ええ、とてもいいわ」


 そして全裸に剥かれた私は、ダンスホールくらいの広さがある浴場に放り込まれた。


「ここのお湯は、この近くにあるエクフラ山の温泉から引いているので、肩凝りや腰痛にも効くんですよ」

「そ、そうなのね」


 確かに言われてみれば、ほんのり硫黄の匂いもする。

 ラングハイム家ここに来るまで馬車に何日も乗りっぱなしで身体中が凝っていたので、芯まで沁みる……。

 今にも寝てしまいそうだわ……。

 でも、こうして冷静になってみると、先ほどのヴァルター様の「それではお前の美しさが、全然引き出せていないではないかッ!」という言葉が頭の中で反響して、ぐるぐるしてきた。

 あ、あれってどういう意味だったのかしら……?


「あらあら奥様、のぼせてしまわれましたか?」

「い、いえ!? これは違うの!」

「「「うふふふふ」」」


 メイドたちに意味あり気な顔で微笑まれ、私はなお体温が上がった――。




 そしてお風呂から出た私は、次にメイドたちからイイ匂いのする如何にも高級そうな薬液を全身に塗りたくられてから、フリルがふんだんにあしらわれた、豪奢なドレスを着せられた。


「さあ奥様、いかがですか?」

「――!」


 メイドに鏡を向けられた私は、思わず言葉を失った。

 ――そこにはおとぎ話に出てくるお姫様みたいな、可憐な女性が映っていたのだ。

 これが――私!?


「うむ! やはり俺の見立ては間違っていなかったようだな!」

「ヴァルター様!?」


 いつの間にか背後にヴァルター様が立たれていた。


「奥様、このドレスは、旦那様が選ばれたものなのですよ」


 メイドの一人がそう言う。


「え!? そうなのですか!?」

「ああ。妻のドレスは夫が選ぶのも、亭主関白では当たり前のことだからな。思った通り、よく似合っているぞ、リーゼル」


 ヴァルター様は太陽みたいな笑顔を振り撒きながら、サムズアップを向けられた。

 またしても私の体温が急激に上がるのを感じる。

 何だかラングハイム家の亭主関白は、私の思っていたものと随分乖離があるみたいね……?


「さあ、そろそろ腹が減っただろう。飯にするぞ。食堂はこっちだ」

「あ、はい」


 ズンズンと進むヴァルター様の大きな背中の後を、私はついて行った――。




「さあ、じゃんじゃん食ってくれ!」

「わあ!」


 食堂に着いた私を待っていたのは、豪華絢爛な料理の数々だった。

 ムール貝のワイン蒸しにビンチョウマグロのマリネサラダ、熱々のグラタンにローストビーフに七面鳥の丸焼きまである。

 更に奥には、バケツくらいはある大きなホールケーキが鎮座していた。


「この料理は全て、旦那様の手作りなんですよ」


 またメイドの一人がそう言う。


「そ、そうなのですか!?」

「ああ。妻に上手い飯を食わせるのも、亭主関白の一環だからな。さあ、冷めないうちに食おう」

「あ、はい、いただきます」


 「妻に上手い飯を食わせる」という言葉は、一般的には「仕事を頑張ってお金を稼ぐ」というニュアンスだと思うのだけれど、どうやらラングハイム家ではそのままの意味らしい。

 席に着いた私は、まずはビンチョウマグロを一切れ食べると――。


「――!!」


 口の中にジュワッと旨みが広がり、頬が落ちそうになった。


「ハハ、美味いか?」

「はい! とっても美味しいです!」


 ヘレーネが家に来てからずっと冷遇されてきた私にとって、こんなに美味しい料理を食べたのは、お母様が生きていた時以来だ。


「そうかそうか」


 ヴァルター様は満面の笑みを浮かべながら、うんうんと頷かれた。

 私は思わず零れそうになる涙を、必死にこらえた――。




「さあ、そろそろ寝るか」

「あ、はい……!」


 そして訪れた初夜。

 メイドたちにこれまたお姫様が着るみたいなネグリジェに着替えさせられた私は、キングサイズの巨大なベッドにヴァルター様と並んで横になった。

 つ、ついにこの時がきたわね……!

 ラングハイム家の嫁になった私の、一番の仕事は跡継ぎを産むことだもの……!

 ただ、この歳まで勉強しかせず、男性とそういう経験がまったくなかった私は、どうしていいものかわからず、さっきからずっと震えが止まらなかった。


「……抱くぞ、リーゼル」

「は、はいッ!」


 薄暗い中でヴァルター様の逞しい腕に、ギュッと抱きしめられる。

 嗚呼、ヴァルター様の胸板、何て厚いのかしら……。

 これが、男の人の身体……。


「…………」

「…………」


 ……あら?

 ヴァルター様?

 この続きはされないのですか??

 も、もしかしてもう寝てしまったとか!?


「……ヴァルター様?」

「ああ、すまん、勘違いさせたか? 抱くというのは、そのままの意味だ。俺は今日はまだお前を抱くだけで、子作りまでするつもりはない」


 そ、そうだったのですか!?


「リーゼル、お前は俺が好きか?」

「……え」


 ヴァルター様からの不意の一言に、頭が真っ白になる。

 す、好き???


「え、えーっと……」

「ふふ、そうだよな。今日会ったばかりの男のことを、そんなにすぐ好きになれるはずはない。――俺だってそうだ」

「――! ヴァルター様……」

「リーゼル、俺たちはまだ知り合ったばかりだ。愛情はこれから育んでいけばいい。そして俺たちの心が通じ合い、真の夫婦になった時に初めて子作りをする。――それが亭主関白というものだ」


 薄暗い中でもわかった。

 ヴァルター様が、とても真剣な目をしてらっしゃるのが。

 ふふ、本当に、面白いお方――。


「はい、承知いたしました」

「うむ、ではおやすみ、リーゼル」

「おやすみなさいませ、ヴァルター様」


 この日、私はヴァルター様の腕に抱かれながら朝までぐっすりと寝た。

 こんなに熟睡したのも、実に数年ぶりのことだった――。




「では、俺は昼まで執務室で仕事をしているから、リーゼルはそれまでこの屋敷を自由に散策でもしていてくれ」

「はい」


 そしてその翌朝。

 朝食を私と二人で済ませたヴァルター様は、お一人で颯爽と執務室に向かわれた。

 自由に散策、か……。

 でも、そう言われると逆に迷っちゃうわね。

 何せ今までずっと、自由とは無縁の生活だったから……。


「あ、そうだわ!」


 いいことを思いついた私は、とある場所へと向かった――。




「こ、こんにちは」

「ああ、これはこれは奥様。どうかされましたか?」


 そして私がやって来たのは厨房。

 これまた果てが見えないくらい広い厨房の中には、所狭しと何十人もの人たちが料理の仕込みに勤しんでいた。

 これだけ大きな屋敷だ。

 働く使用人の数も半端ではないのだろうから、料理人の仕事量もそれに比例するのだろう。

 私に対応してくれたのは、二十代後半くらいの、清潔感のある男性だった。


「私はここの料理長を務めさせていただいております、ユストゥスと申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「あ、こちらこそ、よろしくお願いします」


 なるほど、この人が料理長なのね。

 この歳で料理長を務めてるなんて、余程優秀なのだろう。


「とはいえ、最近じゃ旦那様に料理の腕も抜かれそうなので、料理長としての立場も危うくなってるんですけどね、あはは」

「ふふ、確かに昨日いただいたヴァルター様の手料理は、どれも絶品でした」

「ですよねー! いやあ、一応私も料理では旦那様の師匠的なポジションだったんですが、こっちが子どもの頃から何十年もかけて磨いてきた技術を、僅か数年で会得しようとしてるんですから、参っちゃいますよ」


 まあ!


「ヴァルター様はそんなに凄いお方なんですね」

「ええ、凄いなんてもんじゃありませんよ。――とにかく亭主関白であることに、命を懸けてらっしゃる方ですからね。特に奥様との結婚が決まってからのこの1ヶ月は、寝る間も惜しんで料理の修行をしてらっしゃいました。余程奥様に美味しいものを食べさせたかったのでしょうね」

「――!」


 ユストゥスがニマニマしながら腕を組んでいる。

 ヴァルター様が、私のためにそこまで……。

 またしても私の体温が急激に上がる――。


「あ、そういえば、ここへはどんなご用件で?」


 そ、そうだった!

 忘れるところだったわ!


「あの、もしお邪魔でなかったら、少しだけ場所と食材をお借りしたいのだけれど、よろしいかしら?」

「ああ、それはもちろん構いませんが。何か作りたいものでもあるのですか?」

「はい。実はヴァルター様のために、クッキーを作ってみたくて」


 私だけが一方的にヴァルター様に与えられているのは、いたたまれない気持ちになっていたところなのだ。

 せめてもの恩返しに、私も何かヴァルター様にプレゼントしたい。

 料理は苦手な私だけれど、クッキーだけは子どもの頃お母様と二人でたまに作っていたので、私でもできるはず。


「なるほど、それはいいですね。旦那様はああ見えて、甘いものがお好きでらっしゃいますから」

「あ、そうなのね」


 やっぱり!

 昨日ホールケーキも手作りしてらっしゃったから、そうかもと思っていたのだけれど、当たりだったみたいね。


「材料はこちらで用意いたしますので、あそこのスペースをお使いください。オーブンはあそこです。使い方はおわかりになりますか?」

「はい、大丈夫です! ありがとうございます!」

「いえいえ、何かあれば仰ってください」


 ニッコリと微笑むユストゥス。

 ああ、この屋敷にいる人は、本当に良い人ばかりだわ……。

 これもヴァルター様の人徳なのかしら……。

 おっと、こうしてはいられない。

 絶対に美味しいクッキーを作って、ヴァルター様にお届けしなきゃ!

 よーし、頑張るわよぉ!




「あ、あぁ……」


 が、現実はそんなに甘くなかった。

 途中まではよかったのだが、最後の最後でオーブンの火力を見誤って、クッキーを焦がしてしまったのだ。

 私の実家のものより数段上質なオーブンだったらしく、火力が桁違いだったようだ。

 うぅ……これは作り直しね。


「はは、慣れない厨房での料理は難しいですよね。次は私もお手伝いいたしますので、もう一度やってみましょう」


 ユストゥスが私を慰めてくれる。

 忙しいところに邪魔しにきた私にこんなに優しくしてくれるなんて……。

 ユストゥスのためにも、次は絶対に失敗できないわ!


「うむ、実にイイ匂いがするな」

「――!」


 その時だった。

 いつの間にか私の背後に、ヴァルター様が佇まれていた。

 このお方は、いつも気が付いたら私の背後にいらっしゃる!?


「そのクッキー、よもやリーゼルが作ってくれたのか?」

「あ、いえ、これは、その……」


 こんな失敗作を作ったとヴァルター様に思われるのは、何とも恥ずかしい……。

 どう答えようかしら……。


「はい、奥様が旦那様のためにと」


 ユストゥス!?

 あなた、裏切ったわね!?


「なるほどな。では早速いただくとしよう」

「え!?」


 おもむろにヴァルター様は、焦げたクッキーを一つ摘まんで食べてしまった。

 そ、そんな!?


「ヴァルター様! そんな無理して食べないでください! それは失敗作なので!」

「ハハ、確かに少しばかり苦いが――そんなことは関係ない」

「――!」


 ヴァルター様……。


「妻が作ってくれたものは、何だろうと全部食べる! それが亭主関白というものだ!」


 ヴァルター様はモグモグと、子どもみたいにクッキーを頬張る。

 そんなヴァルター様を見ていたら、何故か胸の奥がキュッとなる感覚がした――。




 その後もヴァルター様と私は、亭主関白な日々を過ごした。

 そうしているうちに、いつしか私の心の中は、ヴァルター様のことだけでいっぱいになっていった――。

 ――そんなある日。


「リーゼル、お前に妹さんから手紙がきているぞ」

「え?」


 ヴァルター様が私に、手紙を手渡してくださった。

 ヘレーネから、手紙……。

 言いようのない不安が私の頭をよぎる。

 恐る恐る手紙を開けて読んでみると、今度ヘレーネがエメリヒ様と二人で、ラングハイム家に遊びに来たいという旨の文面が記されていた。

 どういうつもりなの……!?

 いや、大方亭主関白な家庭に嫁いで酷い目に遭っている私を見て、嘲笑いたいというのが目的なのだろう。

 ――でも、確かに今の私は亭主関白な家庭にいるけど、それはヘレーネが思っているようなものじゃない。


「妹さんは、何と?」

「――それが、今度この家に婚約者と二人で遊びに来たいと言っているのですが、よろしいでしょうか?」

「うむ、もちろんだ! 妻の家族をもてなすのも、亭主関白の一環だからな! よおし、腕によりをかけてご馳走を用意するぞ!」

「ふふ、ありがとうございます」


 ヘレーネがこのヴァルター様を見たら、いったいどう思うかしら……。




「……随分遅いな」

「そ、そうですね」


 ――だが、ヘレーネたちが来る予定の当日。

 約束の時間を1時間以上過ぎても、ヘレーネたちは一向に到着する気配すらなかった。

 せっかくヴァルター様が何時間もかけて作ってくださったご馳走も、すっかり冷めてしまっている。

 何かあったのかしら……?


「だ、旦那様! 奥様! ヘ、ヘレーネ様がお見えになったのですが……!」

「「――!!」」


 その時だった。

 メイドが青ざめた顔をしながら駆けて来た。

 そのメイドの様子から、何かしらの異常事態が起きていることを察した。


「……行こう、リーゼル」

「は、はい……」


 神妙な顔をしたヴァルター様と二人で、玄関へと向かう――。




「……リ、リーゼル姉様」

「ヘレーネ!?」


 玄関で久方ぶりに再会したヘレーネは、まるで別人になっていた。

 頬はゲッソリこけており、目の下にクマも出来ている。

 そして何より異様だったのは、右手に血がべっとりと付いた包丁を握りしめていたことだった――。

 こ、これは――!?


「いったい何があったの、ヘレーネ!?」


 慌ててヘレーネに駆け寄る。


「うぅ……! アイツが……! アイツがぁ……!!」

「アイツ……!?」


 この時、私はエメリヒ様の姿がどこにも見えないことに気付いた。

 まさか――!!


「前々から怪しいとは思ってたの……。最近は特に不安で、夜もろくに眠れなくて……。でも、そんなはずないってずっと目を逸らしてた……。――そしたら今日、ここに向かう途中休憩がてら寄った喫茶店で、アイツとメイドがトイレからいつまで経っても帰って来ないから様子を見に行ったら……。うぅ……!!」

「……!!」


 そこでエメリヒ様とメイドの、不倫現場を見てしまったということ……!?

 そしてカッとなったヘレーネは、キッチンから包丁を持って来て――。


「――それは許せんな」

「「――!」」


 その時だった。

 ヴァルター様が静かな怒りを滲ませながら、ヘレーネの前に立った。


「妻のことだけを愛せないのは、亭主関白失格だ。――だが」


 ヴァルター様は何とも悲しそうなお顔で、ヘレーネの手から血まみれの包丁を取った。


「そんな最低な男のために、自分の人生を台無しにしてしまうのは、あまりにも勿体ないじゃないか」


 ヴァルター様――!


「……ヘレーネ、自首しましょう。私も一緒に警察に行くから」


 私はヘレーネの血にまみれた右手を握る。


「う……! うああぁぁあ……!! ああああああああああああああああ……!!!」


 ヘレーネは私の胸に顔をうずめながら、悪夢を見た幼子みたいに泣きじゃくった……。




 この後はラングハイム家の馬車で警察まで行き、ヘレーネは出頭した。

 警察に事情を説明している時のヘレーネは、憑き物が落ちたみたいに淡々としていた。

 後に聞いた話だと、ヘレーネに刺されたエメリヒ様は、一命こそ取り留めたものの、一生自分の足では歩けない身体になってしまったらしい。

 当然ヘレーネとエメリヒ様の婚約も白紙になり、私の実家はエメリヒ様の実家に莫大な慰謝料を支払うことになったそうだ。

 ヘレーネが逮捕され跡取りがいなくなってしまった私の実家からは、どうか私に戻って来てほしいという打診がきたが、もちろん私は固辞した。

 ――あの家はもう、私の家ではないから。


「さあ、そろそろ寝るか」

「はい」


 今夜も私は、いつものベッドでヴァルター様と並んで横になる。

 だが――。


「……抱くぞ、リーゼル」

「いえ、ダメです」

「え??」


 いつものように私を抱きしめようとしたヴァルター様の申し出を、私は拒否した。

 だって――。


「――今夜は私が、ヴァルター様を抱きます」

「リ、リーゼルッ!!?」


 私はヴァルター様の上に跨った。


「――ヴァルター様、私はもうとっくの昔に、ヴァルター様のことを好きになっております」

「――! リーゼル……」

「ヴァルター様は私のことを、どう思っておられますか?」

「お……俺も……、俺もリーゼルのことが好きだ! 大好きだッ!!」

「ふふ、よかった。ではこれでやっと私たちは、本当の夫婦になったのですね」

「ああ、そうだな――んむ!?」


 私はヴァルター様の唇を、自らの唇で塞いだ――。

 ――この日、やっと私たちは一つになれたのである。


 ちなみにこの日を境に、何故か我が家は亭主関白ではなく、かかあ天下と呼ばれるようになるのだけれど、それはまた、別の話。


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義妹に婚約者を奪われた令嬢が、亭主関白で有名な辺境伯に嫁いだところ……!? 間咲正樹 @masaki69masaki

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