ライム
@toraise_
全文
朝日が無機質で物の少ない俺の部屋を照らす。掃除はいつしたか覚えていない。床が埃のせいで少し黒ずんでいるからか、朝日のお陰からか、壁は異常なまでに白く見える。かけていた布団を足で乱雑に端によけ、ベッドから立ち上がり、二、三歩歩いて椅子に座る。毎日やり慣れた動きだ。机の上には、真っ白の原稿用紙と、全く減っていない真っ黒のインク。どちらも、買った時の状態と変わっていなかった。
俺は早く、次の新人賞に向けて、新たに小説を仕上げないといけない。締め切りまでの日数は頭に入っている。ただ、アイデアの種となるような単語すら頭に出てこない。頭に霧のような煙がかかっているような気分だった。高校時代、九九すら怪しいのに、二次関数の授業を受けている時を思い出した。わからないことを使って、わからないことをやろうとしていた。あれは本当に地獄だった。そんな懐かしいことを思い出しながら、原稿用紙と格闘を続けた。数時間が経った。壁は夕日で赤く染まったが、原稿用紙は未だ真っ白のままだった。
「そろそろ時間か。」
俺はため息をついて、壁にかかっている車の鍵を手に取る。キーリングに人差し指を入れて、くるくる回す。カンカンと、金属が金属を弾く音がする。俺の乾いた脳にはこの高い音が響く。決して脳が潤う感覚があるわけではないが、なぜかクセになるテンポだ。手癖が悪くなってしまったのも、これから行く場所の人間たちのせいでほぼ不可抗力だった。
車を20分ほど走らせて、会場に着く。車のドアを閉じながら煙草を口に咥える。今もたまに煙たさでむせる時がある。ストレスをあえて自分に与えることで、ラッパーとしての自分を無理矢理にでも呼び出していた。そう、俺は小説ではなく、ラップで生計を立てている。正確には、ラップとコンビニバイトだ。正直、ラップだけで食っていける月もあるが、収入が不安定だから、コンビニバイトにも念の為入っている。自分で言うのもなんだが、ラッパーとしては珍しい安定思考の人間だ。
ステージに立ちマイクを握ると言葉は驚くほど軽くなる。今さっきの煙草の煙が、頭の中の煙も一緒に風に流してくれたように感じられる。韻を踏めば、客は沸く。声を張れば、名前が呼ばれる。原稿用紙の前では一度も呼ばれなかった、俺の名前を知らない顔が大声で叫ぶ。
だが、俺はもともと小説家になりたかった。小説で食っていきたかった。それだけは、何年経っても変わらない。少なくとも、変わってはないと思っている。本気で小説で生きていきたいと思った19歳の冬から、8年間、毎年新人賞には応募を続けている。全て落ちたきた。「新人」の単語の定義すらもうわからなくなっていた。
ラップをやると決めたのは、24歳の時。その日は、新人賞選考結果の発表の日だった。毎回、自分の中では最優秀賞を取ることができる小説ができていた。それを繰り返して、5回目の挑戦だった。初めて落ちた時は「執筆、推敲する時間が足りなかった。」と言う言い訳だったと思う。それ以降は「体調が悪かった」「今は取るべきタイミングじゃない」「選考委員の見る目がなかった」と言い訳をしてきたが、そろそろ持っている言い訳リストの二周目に入る頃だった。
言い訳を一生懸命考えている俺を横目に、同級生の数人はもう結婚していた。今まで結婚式や同窓会などのイベントにも呼ばれたが、「最近お前何してるの?」という言葉が怖くて、招待状は全て捨てた。彼らがライフステージを駆け上っていく姿をSNSで見ては、スマホの電源をそっと消す、という行為を繰り返していた。
五回目の挑戦、結果は落選だった。バイト先のコンビニでビールを買って、悔しさが収まるまで近所を何周も散歩して家に帰った。帰る途中、「選考委員の見る目がなかった」を今回の言い訳にすることを決めた。二回目だった。本とペンが散乱した狭い部屋に腰を下ろしビールを開けながら、テレビの電源をつけた。顔の整った男性アイドルが、普段は出演しないようなバラエティ番組に出演している。特にアイドルに興味はないが、このアイドルの顔と代表曲のワンフレーズは記憶の片隅にあった。どうやら小説を書いたらしい。その宣伝で出演しているのだろう。
「忙しい中で書いたんですけど、書き始めたら楽しくて止まらなくなってました!」
言葉とは楽しむためにあったのだと、この時久々に思い出した。
「帯のコメントは、あの山田さんから頂きました!」
俺が落ちた新人賞の今年の審査委員に、この山田という人物がいたことも思い出す。
「俺の文章よりも、このアイドルの片手間の文章の方が優れているのか。」
ため息のように、勝手に口から言葉が出た。選考委員の見る目がなかったという言い訳の裏付けになるとさえ思った。
ただ、俺はこのアイドルに対して腹は立っていなかった。自分の生物としての生存本能が刺激されたのだと思う。自分も小説家以外の業界で有名になれば、自分の文章に注目されるかもしれない、そう直感的に感じ取った。自分の言葉が評価を受けるには、まずはこの世界で「何者」かになる必要がある。
そこで、言葉を扱う職という延長線上にありながらも、小説家と最も離れた位置にあるラッパーという職業を選ぶことにした。
「ラップなんて思ったことをそのまま歌詞にしているだけ。韻を踏んでいるだけ。五年間小説を通して一番真摯に、丁寧に、熱く言葉と向き合ってきた俺には簡単だ。」
そう軽く思っていた。そうして、俺は小説家になるためにラッパーになった。明らかに論理として破綻していること、ラッパーとしても小説家としても最悪であることはわかっている。
✳︎
俺が物語の筆者なら、ここまで舐め腐ったラッパーはすぐに困難に直面させたくなる。ただ、俺は自分でも思っていたより、すぐラッパーとして有名になった。初めて跳ねた曲は、正直自分でもよくわからないまま書いたものだった。もし、その曲の歌詞が小説だとしたら、プロットは明らかに破綻している。伏線も、風情に溢れた言葉も、もちろん無い。ただ、頭の中に渦巻く感情が言葉となって転がっている。それなのに、フロアは沸いた。今まで浴びたことのない歓声を浴びた。俺が机に向かって、幾度なく推敲した文章よりも、思ったことをそのまま言葉にしたこのラップの方が、遥かに速く、直接的に客に届いていく。
初ライブの終演後、ワンピースかと思うほどオーバーサイズのTシャツに身を包んだドレッドヘアーの男が、俺の肩を叩いた。俺は思わず
「HIPHOP舐めんな。」
と言われ、顔面を殴られると思った。が、彼はライブ会場のスタッフだった。彼は
「マジで響きました。もっと大きい箱でかませますよ!」
と言いながら、右手を差し出してきた。褒めながら、腹を殴ってくるのかと思った。どうやら、ラッパーの世界ではハンドシェイクと呼ばれる握手のようなものが挨拶として浸透しているらしいということも、彼から学んだ。
帰りの電車でスマホを開く。高校を卒業してから5年間、48人から変わっていなかったSNSのフォロワー数が、190人になっていた。
「刺さった」
「救われた」
「自分のことを歌ってくれてるようだった」
どれも、小説を書いている自分には向けられたことのない賛辞の言葉たちだった。俺には、どうやらラップの才能があるようだった。ただ、嬉しさよりも
「どこが?」
という疑問が先に来る。
彼らが救われたのは、俺の言葉じゃない。ライムだ。フロウだ。リズムだ。ビートだ。会場の空気だ。文章だけを見たらきっと何も残らない。そうとでも思わないと、俺の5年間が全て消え去るような気がした。
そこから、俺はラッパーとして少しずつ名前が売れていった。一年に一度はアルバムを出した。それは、毎回新人賞の選考結果が出る日だった。選考結果によってはアルバムを出すのを辞め、配信していた曲を全て削除し、予定されていたライブもキャンセルするつもりだった。うん。その、つもりだった。今まで一度も気づかれたことがないから、俺のリスナーの中に、小説家志望はいないのだろう。3年経った今では、数十万人のサブスクでの月間リスナーを抱えている。昔、小説をポツポツと挙げていたブログでは、32ビューが最高だったのに。
先日は地元への凱旋ライブも行った。小説家として食っていくと宣言した時、鼻で笑っていた友達も見にきていた。見にきていたというより、公演前に
「ラップ始めたんだね!今度、地元に来るライブ息子と見にいきたいんだけど、人気だから席取れるかな、、、」
とLINEが来た。
「応援に行ってやるんだからチケットを用意しろ」
とふりがなが振られているように見えた。ただ、応援してくれているだけありがたい話だと思い、きちんとチケットを用意した。
明らかに前よりも、俺という人間を応援してくれる人間は増えた。ただ、俺はこのラップを早く辞めたかった。俺は、ラッパーの俺のことを、ラップのことを認められていなかった。が、ラップのことが少しずつ好きになってきていた。昔、隣に住む祖父が犬は嫌いだと言っていたが、うちで犬を飼い始めてからというもの、率先して散歩に行くようになり、家族で一番可愛がっていたことを思い出した。そんな感覚だ。ラップのおかげで生活できるようになり、ラッパーとしての俺を応援してくれる人間がついた。そこには確かな敬意と愛着が芽生えていた。しかし、ラップを始めた原点は、小説を多くの人に読んで欲しいからである。こんな理由で、ラップを始めたことが数十万のファンたちに伝わったら、ラッパーとしての俺も、小説家としての俺も応援してくれないだろう。そして、俺は何よりも文章を書くこと、物語を考えることが好きだ。まだ、小説家としての夢は諦めていなかった。
✳︎
そこから、数ヶ月経ち正月に実家に集まった。俺の姉から、甥っ子の創士が俺の曲を聴いているということを軽く聞いた。
「創士にも会いたかったわ。」
と言う母親。黙っている父親。
「ラップなんかやってる叔父には合わせたくないわ。」
と姉さんは冷たく言い放つ。俺の家族は、昔から男の方が権力が弱い。女の中でも母親より姉さんの方が権力が強かった。
「ラップってガラの悪い人が多いから。」
と言う姉の顔には、ラッパーとしてある程度成功している俺への嫉妬心が見え隠れしている気がした。弟が自分の息子からも好かれ、適当に生きているように見えるのに毎日8時間労働している自分よりも稼いでいる、となれば当たり前だろう。青筋を立てているのに、言葉では精一杯冷静を取り繕う姉の姿はとても滑稽だった。今度曲にしてやろうと思った。自分の母親が曲の中に登場したら創士も喜ぶだろう。
どうやら、創士は俺のライブに行くことを禁止されているらしい。連絡先すら持っていなかったので、どうすることもできなかったが、一番身近にいるファンに会えないというのは、少し悲しかった。そんな悲しさを消すように、自分がラップをやっていることは惨めなことだということを改めて思い出す。
結局、その年の夏には創士がライブに来た。姉さんとの大喧嘩を経て、最終的には
「母さんも来たらいいじゃん!良さがわかるよ!」
の一点張りで姉さんの制止を突破したらしい。
明らかにオーバーサイズのTシャツとジーンズに、キャップを被り、一生懸命大人びた格好で参加していた。ただ、隣に不服そうに立つ母親と、思春期特有のニキビだらけの顔、声変わりの終わっていない可愛さのある声のせいで、全て台無しだった。誰から見ても明らかに、母親を無理やり連れてきた中学生だと言うことがわかってしまう。終演後、楽屋に入ってきた創士は、目を輝かせて、少し間を置いて言った。
「本物だ。」
他人行儀な創士を見て、創士がもっと幼いときに遊んだことを思い出し、少し寂しい気持ちになった。小説だけを書いていた5年間は実家にも帰っていなかったので、もちろん創士と会う機会もなかった。他人行儀になって当たり前か、と思いながら頭を撫でた。創士にとっての「本物」がこんなものでいいのかと思うと、少し笑えてきた。ファンサービスなんて今までしたことがないが、俺がかぶっていたキャップを創士に渡した。ただ名前をローマ字で記しただけのサインもして。
「創士、早く帰るよ。」
楽屋のドアを開けっぱなしにして、そのドアにもたれながら姉さんが言う。絶対に楽屋には入らないという思いが滲み出ている。ただ、そんな姉さんの足元は小刻みに震えていた。本当にラップやHIPHOPというものを怖がっているのだと思い、少し驚いた。
「姉さんも心配しているし、早く帰りな」
と俺は言う。創士とは連絡先を交換した。
「いつでも連絡してな。次はライブの席取ってやるよ。」
「ありがとう!」
弟がいたらこんな気持ちなのかと思いながら、創士を見送る。
「お疲れさま。」
帰り際に小さい声で姉さんが言い捨てた。普段、挨拶すらしない姉さんとの関係にしては、最大限の暖かさと愛情を含ませた言葉だった。ラップも少しは良いなと思えた。
そこから、創士は俺のライブや家にたまに来るようになった。もう隣に姉さんはいなかった。創士は、曲の歌詞を覚え、フレーズを口ずさみ、間奏部分のビートも自分の口で精一杯演奏する。学校や家で嫌なことがあるとメッセージを送ってくる。
「叔父さんのこの曲聴いて、どうにか耐えたよ」
耐えさせてしまった、と思った。本当は、日常の苦痛に耐えなくてもいいような、現実から目を背けられるような、そんな物語が書きたかった。
ラップは、各人が抱えた痛みや傷を言葉で抱え込み、闇の中から救い出す一方で、小説は、そんな痛みや傷さえ存在しない物語の世界へ、読者を誘い、日常に彩りを与えるものだった。ラップは西洋医学で、小説は東洋医学に似ていると最近思った。けど、やっぱり俺の中ではその二つは二項対立の関係ではなく、小説の方が一段階階層が上だった、と思う。いや、もうどちらが大切なのか、ラッパーの俺と小説家を目指す俺、どちらが本当の俺なのかわからなくなっていた。
✳︎
出版社から声がかかったのは、アリーナ公演を終えた次の月だった。
もう1万人を裕に超えたフォロワーたちからの、称賛、祝福の声の中に、見慣れないかしこまった文章でのメールが入っていた。液晶モニターに文字が焼けるほど見た、新人賞の応募要項に書いていたメールアドレスからだった。
1週間後、俺は喫茶店で出版社の担当者の人間と打ち合わせというやつをしていた。
「エッセイとかどうですか?」
「自伝的な小説とか、、、」
「完全創作の小説もありですね!」
企画書には誰かが適当に書いた俺のプロフィールと、俺の歌詞の引用が並んでいた。俺の知っている担当者像とは明らかに違った。皮肉なことに、小説家になりたいと言っている俺に接する態度と、ラッパーとしての俺に接する態度では、後者の方が丁寧で、敬意がこもっていた。担当者は言った。
「今のあなたの言葉は、人の心に訴えかける力と、求心力があると思います。」
その「今」には、小説家の意は含まれていないことは今までの経験から無意識的に分かった。家に帰って、埃だらけの引き出しから、昔の原稿を取り出す。久々に読み返す。下手くそな文章だ。プロットも破綻しているし、読者のことなんか考えていない、俺がどう思うかで走り書きしたような文章だった。今書いているラップの歌詞と特に変わらないと思った。けどやっぱり、自分の書いた文章は不思議と嫌いじゃなかった。最後まで読むと、この原稿なら新人賞が取れると今でも思える。その晩は、不思議と歌詞は一行も書けなかった。
「夜分遅くに失礼致します。少し考える時間をください。」
担当者にそうメールをして、その日は布団についた。
数日後、創士からメッセージが来た。
「昔小説家になりたかったってほんと?」
水の入ったグラスをひっくり返しそうになった時のような、「ひえっ」と声が出るような、内臓が縮み上がる感覚に襲われた。姉さんが、ふざけて俺の恥ずかしい過去を創士に伝えたのだろう。なんて返信すればいいかわからなかった。正直、今も小説家になりたいという思いはある。ただ、ここで小説家を目指しているということを否定をするのは、俺自身に失礼だと思った。俺自身に筋を通したかった。
「そうだよ。昔は、小説家になりたかった。けど小説家じゃ売れなかった。ラッパーとして有名になったら小説も売れると思ったんだ。だからラップを始めた。」
正直に言いすぎたかもしれない。恥ずかしさを打ち消すためにスタンプでも送ろうかとも思ったが、やめた。ラッパーとしての俺のファンが、小説家になるためにラップを始めたということを聞いたら、失望するだろう。俺のファンサービス第一号が、ファンじゃなくなると思うと悲しかった。返信が来るのが怖くて、スマホを裏返しにして机に置いた。そして、ラップを始めたあの日のようにコンビニに行ってビールを買って、気持ちが落ち着くまで近所を散歩した。
自分が失敗しそうになると、結果よりも先に言い訳を考えてしまう。いつもの癖だ。今回の言い訳は何にしようか。
「創士の見る目がなかったにしようか、それは可哀想過ぎるか。」
そんな独り言を言いながら、夜風が鼻に抜ける感覚を覚え、気分が少し落ち着く。とにかく星を見ながら歩いた。風が体を通り抜けるような感覚を楽しむ。もう言い訳なんか考えていなかった。この前のアリーナでのライブの最後の曲、会場の照明を落として、観客たちのスマホライトを俺に向けてもらうという演出をした。奇しくも、その日の星空はそれを想起させた。あの時の他者から認められている、承認されているという幸福感は何にも耐え難かった。
家に帰って、スマホを開くと通知が来ていた。
「そうなんだ そんなんどうでもいいけど、僕は今の叔父さんのラップが好きだよ」
その文章を見た時、俺の心の中でぷつりと糸が切れる音がした。「どうでもいい」その言葉が、小説という呪縛を解く呪文だったんだ。
「ありがとう。」
そう返信し、すぐにPCを開く。出版社の担当者に、断りのメールを入れる。
「お話はありがたかったのですが、やっぱり、小説は遠慮しておきます。自分はもっとラップを通して、人に元気を分け与えるべきだと思いました。また、機会があればよろしくお願いいたします。」
そっとPCを閉じた。
✳︎
それから、俺は俺のことをラッパーとして認められるようになった。ファンサービスはライブに来てくれたファンにはできるだけするようにしている。ファンはさらに増え、サブスクの月間リスナーはついに7桁の大台に乗った。武道館での二日間のライブも控えている。
今までは、小説家としての自分しか認めていなかった。ただ、小説家の自分は自分以外の誰も認めてくれなかった。反対に、ラッパーとしての俺は、俺以外の多くの人間が認めてくれていた。ラッパーとしての自分を、自分自身が一番忌み嫌い、軽蔑していた。もうラップを始めた理由なんて「どうでもいい」のだ。
今は、もう小説は書いていない。正確には書いているが、どこにも公開していない。誰にも見せない物語を夜な夜な1人で原稿用紙に書き溜めている。小説家を目指していた時には考えられないほどスラスラとアイデアや言葉が出てくる。あの時の男性アイドルが言っていた
「書き始めたら楽しくて止まらなくなってました!」
という言葉に今は共感できる。
この10年間、「言葉」というものに向き合ってきて気づいたが、こいつは性格上、他者からの承認や評価を欲しがる。しかし、こいつの役割は自分の想いを伝えることだ。それ以上でも以下でもない。他者からの承認や評価は、結果的についてくるものであり、それを前提とした言葉は、本末転倒である。
果物のライムのように苦かった10年間だった。けど、韻を、「ライム」を踏むことで俺は俺を認めることができるようになった。「ライブ」もたくさんこなし、「財布」も「ハイブ」ランドになった。「タイプ」な女性も見つかって、もう少ししたら「ワイフ」になるだろう。こんな言葉の楽しみ方は、ラップのおかげで覚えた。言葉のおかげで、毎日が楽しい。
後日、創士が家にきた。一通り機材やグッズを触らせてあげたり、まだリリースしていない新曲のデモを聴かせてあげたりした。声変わりを終えた低い声で、感嘆の声をたまにあげる。昼飯に、チャーハンを作ってやった。2人でテーブルを囲む。我ながら上手くできたと思っていると、
「俺、叔父さんみたいなラッパーになりたい。」
濁りのない、怖いほど真っ直ぐな目で俺を見つめて、そう呟く。ラッパーになるためにラッパーになったわけではない俺には、少し返答が難しかった。
「そうか。何を成し遂げたいか、何者になりたいかは、コロコロ変わる。それは、決して悪いことじゃない。執念は捨てるべきだぞ。けど何になったとしても応援してるからな。」
急に本気になった俺の声に創士は驚いて、少し間が開く。
「俺は絶対叔父さんみたいなラッパーになるんだ。」
創士は初めて俺に対抗してきた。
「おお、そうか。それは嬉しい。けどな、お前が何者になろうと、俺はお前のことが好きだ。お前が何をしようと、何になろうと『どうでもいい』と思ってる。お前がお前らしくいてくれること、お前がお前を認めてあげていること、それが嬉しいよ。」
自分でも不思議と言葉がすらすらと出てきた。おそらく、あの姉さんのことだから、普段から好きとか愛しているとかの愛情表現を受け取り慣れていないのだろう。創士は少し恥ずかしい顔をして、声になるかならないかのような小さい声で
「わかった」
と言い首を縦に振った。俺も満足そうに頷いた。
そして帰り際、創士に一枚の紙を持たせた。歌詞でも、グッズでも、チケットでも、小遣いでもない。短い物語だ。夜な夜な書いた物語たちの中から一つ選んだ。創士は、その紙に視線を落とし、文章が書かれていることを理解すると、近くにあった椅子に座って読み始めた。目線は左から右へと移動しているのがわかる。それを数回繰り返し、最後は俺と目が合った。
「叔父さんって、こういう文章を書くんだね。歌詞と特に変わらないね。」
とだけ言う。物語自体への感想はなかった。俺も、
「読んでくれてありがとう。」
とだけ返す。最後はラッパーらしく、ハンドシェイクをして別れた。
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