第二章 硝子の城塞

Interlude: 0926


 世界は、白いノイズに満ちている。

 無機質な部屋。壁も床も天井も白一色。唯一の色彩は、ベッド脇のモニターが吐き出す淡いグリーンの光だけだ。

 ユウは浅い呼吸を繰り返していた。肺が酸素を取り込むたびに、肋骨の奥で何かが軋む。だが、問題なのは脳だ。記憶野(メモリ)が熱を持っている。

 他人の幸福、他人の栄光、他人の愛。それら膨大な「偽の記憶」を編み上げ続けた代償。「自我融解」。他人の人生を描きすぎた画家が、自分の顔を忘れてしまう病。


 視界の端で、アラートが赤く点滅した。

 『UID: 8402-ARATA 契約終了』

 『ロールバック処理完了』


「……バカね」

 乾いた唇から漏れた声は、落ち葉が擦れ合うような音しかしなかった。

 バカな人。そのまま夢を見ていれば、穏やかに死ねたのに。あの惨めな泥沼には戻らずに済んだのに。

 けれど、彼女の口元には微かな笑みが浮かんでいた。それはシステムのエラーではなく、彼女自身の意思による表情だった。


 私はここにいる。あなたが捨てた過去の延長線上に。あなたが目を逸らし続けた、この世界の「汚染区域」で。

 意識が混濁する。急いで、アラタ。私の自我が、この白い部屋の空気に溶けて消えてしまう前に。


 都市の中心に突き刺さる墓標。『メモリー・アーキテクト社』本社ビル。

 その威容は、地上から見上げる者には希望の塔に見え、足元に蹲(うずくま)る者には絶望の壁に見える。

 アラタは正面ゲートには目もくれず、ビルの裏手、都市の消化器官とも呼ぶべき搬入搬出エリアへと回り込んだ。


 そこは、表層の煌びやかさとは無縁の、淀んだ熱気の吹き溜まりだった。

 巨大な空調室外機が唸りを上げ、アスファルトには油の染みが黒い地図を描いている。

 関係者専用の喫煙所には人影がない。ただ、吸い殻の山と、飲みかけのコーヒーが放置されているだけだ。

 アラタはさらに奥、廃棄コンテナが並ぶ一角へと足を踏み入れた。


 腐臭がした。

 生ゴミの匂いではない。プラスチックが焦げた匂いと、オゾンの刺激臭、そして何よりも「使い古された時間」が放つ特有の澱んだ空気だ。

 コンテナの一つから、何かが溢れ出している。

 アラタは眉をひそめ、それに近づいた。

 それは、廃棄された業務用のタブレット端末や、記録媒体の残骸だった。


 アラタは、画面に亀裂の入った端末の一つを拾い上げた。

 祈るように画面をタップする。死にかけのバックライトが明滅し、エラーログが表示された。


『システム警告:モデル構築失敗』

『担当アーキテクト:Y-0926 ――汚染レベル・クリティカル』


 0926。ユウのIDだ。

 アラタは息を呑み、ログをスクロールさせた。

 連続稼働時間、百二十時間。休息を取らず、自身の脳神経を焼き切る勢いで、彼女は俺のための「完璧な過去」を編み続けていた。

 ログの末尾に、事務的な通知が表示されている。


『処理判断:廃棄対象』

『移送先:地下第九プラント(Ward-9)』

『備考:自我融解による再利用不可。焼却待機』


 焼却。

 彼女は、入院しているのではない。ゴミ捨て場の底で処分を待っているのだ。

 アラタは端末を強く握りしめた。液晶が悲鳴を上げて砕け、破片が指に突き刺さる。

 赤い血が滲み、冷たい画面を汚した。

 そうだ。これでいい。言葉などいらない。

 この痛みと、吐き気を催すような事実だけがあれば、動く動機としては十分だ。


 アラタは顔を上げた。

 搬入口の向こうに広がる暗闇。その深淵が、彼を呼んでいた。

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