幸福の執行猶予(サブスクリプション)

銀 護力(しろがね もりよし)

第一章 幻肢としての声

 幸福の期限が切れる音がした。

 それは唐突で、無機質な電子音だった。スマートフォンの通知音ではない。脳の奥底、海馬のあたりで直接鳴り響く、契約終了のブザーだ。


「お客様の決済が確認できませんでした。規定に基づき、『プレミアム・ライフ・パッケージ』の提供を停止いたします」


 視界がぐにゃりと歪む。

 今まで網膜に映っていた、温かみのある暖色系のフィルターが剥がれ落ちていく。

 日曜日の昼下がり。窓から差し込む光の中で、穏やかに微笑む老夫婦――記憶上の「両親」――の顔が、蝋(ろう)のように溶け出した。彼らが口にしていた「誇らしい息子だよ」という言葉も、意味を持たないノイズへと還元され、大気中に霧散する。

 続いて、壁に飾られた表彰状、一流大学の卒業証書、友人と肩を組んで笑うキャンプ場の写真。それらすべてが、砂上の楼閣が風に崩れるように、さらさらと灰色のデータ屑となって消えていった。


 あとに残ったのは、むき出しの現実だ。

 安アパートの薄汚れた壁紙。カビ臭い湿気。そして、事業の失敗による莫大な借金を示す督促状の山。

 頭の中を占めていた「愛されて育った自信満々の青年」の記憶は、瞬く間に「親に捨てられ、泥水をすすって這い上がってきた孤独な男」の記憶へと書き換わる。いや、元に戻っただけだ。

 嘔吐(えず)きそうになるほどの落差。これが「疑憶(ぎおく)」の離脱症状か。

 アラタは膝から崩れ落ち、冷たいフローリングに手をついた。


「……金がなければ、幸せな過去さえ持てないのか」


 自嘲気味に呟く。声が震えている。

 すべて嘘だったのだ。俺を支えていたあの自己肯定感も、幸福な幼少期も、月額五万九千八百円のサブスクリプション・サービスが見せていた夢に過ぎない。

 俺はまた、あの施設時代の、誰にも望まれていない子供に戻ったのだ。


 だが。その絶対的な絶望の淵で、奇妙なことが起きた。


『まだまだこれからよ。あなたなら、いくらでもやり直せるわ』


 声がした。

 脳内で再生されたその声は、消滅したはずの「疑憶」のレイヤーから響いているようで、しかし明らかに質感が違った。設定されていた「優しい母親」の声ではない。「知的な恋人」の声でもない。もっと芯があり、少しハスキーで、それでいてひどく懐かしい響きを持つ女性の声。

 アラタは顔を上げた。虚空を見つめる。誰もいない。当然だ。

 しかし、記憶を探っても、そんな女性と出会った事実は「疑憶」の中にも、そして「現実」の惨めな人生の中にも存在しない。


 震える手でスマートフォンを掴み、『メモリー・アーキテクト社』のサポートセンターを呼び出した。

 オペレーターの声は、磨き上げられたシリコンウェハーのように滑らかで、それでいて決定的に生命の摩擦を欠いていた。


「申し上げにくいのですが、アラタ様。お客様の記憶領域(ストレージ)に対する消去プロセスは、正常に完了しております」

「消えていないんだ」

 アラタは呻くように言った。「データは消えたかもしれない。だが、女の声だけが残っている。もっと……生々しい、棘のような声だ」

「確認いたします……照合いたしましたが、該当する音声データ、および人格プログラムは、弊社が提供したパッケージには含まれておりません」

「なんだと?」

「お客様のシナリオに登場するパートナー役は、従順さと安らぎを最優先に設計された『モデルType-B』でした。そのような……『叱咤』に近い言動を行う設定は、幸福度の維持に悪影響を及ぼすため、アルゴリズムが自動的に排除いたします」


 排除。

 アラタは受話器を握る手に力を込めた。

「じゃあ、この声はなんだ? 俺が幻聴を聞いているとでも言うのか?」

「あるいは、『疑憶』の定着過程で生じた、シナプス結合のエラー(バグ)の可能性がございます。所詮は、脳という有機部品の誤作動に過ぎません」


 アラタは通話を切った。

 バグ。誤作動。違う。あの声には体温があった。整然と並べられたデジタルのコードには決して宿らない、血の通った人間の、切実な祈りのような熱量が。

 彼は目を閉じ、意識を脳内の暗闇へと沈めていく。

 『幸福のサブスクリプション』によって上書きされていた、忌まわしい現実の記憶。その封印が解かれ、ヘドロのような過去が逆流してくる。

 消毒液と、煮込みすぎたキャベツの匂いが充満する灰色の建物。「向日葵園」という名の児童養護施設。

 その記憶の濁流の中に、一点だけ、鋭利な光を放つ存在があった。


 ――本を読んでいた少女だ。


 名前は、ユウ。

 そうだ、ユウだ。

 いつも集団の輪から外れ、図書室の隅で膝を抱えていた。俺たちは言葉を交わすこともなく、ただ同じ種類の飢餓感を抱えた獣として、無言で互いの存在を認識していた。

 不意に、古い映像が脳裏にスパークする。施設を卒園する前夜。中庭のベンチ。

『行くのね』

 本から目を離さずに彼女は言った。ハスキーで、芯のある声。今、脳内に焼き付いている声と同じだ。

『俺は勝つ。金を手に入れて、このクソみたいな過去を全部塗り替えてやる』

 当時の俺はそう吐き捨てた。彼女はそこで初めて顔を上げ、俺を見た。深海のように暗く、静謐な瞳で。

『なら、証明して。あなたがどこへ行っても、何になっても。私があなたを見つけてあげる』


 アラタは目を見開いた。

 彼女もまた、施設を出た後、独学で脳科学を学んでいたという噂があった。もし、彼女が「メモリー・アーキテクト社」の技師になっていたとしたら?

 アラタは散乱した書類の中から一枚の契約書を引っ張り出した。末尾、担当アーキテクトの署名欄。

 『Architect ID: Y-0926』

 0926。俺が施設を去った日だ。


 確信が背筋を貫いた。

 彼女は知っていたのだ。俺が自分の過去を――彼女と共に過ごしたあの灰色の時間を――金で消し去ろうとしていることを。その上で、彼女は俺の望み通りに完璧な嘘を提供し、決してシステムには検知されない深層領域に、自身の痕跡を埋め込んだ。

 これは「バグ」ではない。遺言だ。全てを失った時、初めて聞こえるようにセットされた時限式のメッセージ。


 アラタは立ち上がった。足元の空き缶を蹴り飛ばし、部屋を出る。

 どこにいるのかも、生きているのかさえも分からない。だが、行かなければならない。

 幸福の定義を他人に委ね、与えられた夢の中で微睡んでいた時間は終わった。これからは、痛みを伴う現実の荒野を歩く。その道標はたった一つ、頭の中に響く彼女の声だけだ。

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