第06話 代償は、静かに現れる――壊れ始めたガイド

6.1 異変は、あまりにも地味だった


ウルタールを離れてからのドリームランドは、

それまで以上に抽象的で、不安定な姿へと変わりつつあった。


足元の銀色の草原は、いつの間にか粘ついた灰色の砂地へと変わり、

遠くに見える山々は、まるで巨大な生き物の肺のように、

ゆっくりと膨張と収縮を繰り返している。


世界そのものが、現実と夢の境界を忘れ始めていた。


「……あれ?」


先頭を歩いていたガイドちゃんが、

不自然な間で足を止めた。


彼女は手に持った杖――いつから持っていたのか、

あるいは最初から『そういう存在』だったのか――

を砂地に突き立て、戸惑ったように周囲を見渡す。


「どうした? 休憩か?」


声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らして振り返った。

その瞳には、今まで一度も見せなかった感情が混じっていた。


――戸惑い。


澄んだ知性の奥に、濁った色が差し込んでいる。


「道……合ってるはずなんだけど。

 おかしいな。この岩、さっきも通った気がする」


「冗談だろ」


マサトが眼鏡を押し上げ、後方の景色を凝視する。


「ねじれた松の木、これで三回目だぞ。

 幾何学的異常か? それとも……君のナビにバグが出た?」


「……右だっけ、左だっけ。この先は断崖絶壁のはずなのに、

どうして平坦な道が続いてるの?」


その声には、かすかだが決定的な不安が滲んでいた。


今まで、彼女は迷わなかった。この狂った世界において、

彼女の言葉だけが唯一の「正解」だった。


即答。完璧。迷いなし。それこそが、

彼女を『ガイド』たらしめる絶対条件だったはずだ。


「……ねえ、本当に大丈夫?」


ユリナが不安そうに俺の袖を掴む。カオリもまた、

険しい表情でガイドちゃんの背中を見つめていた。


「大丈夫ですよ!」


ガイドちゃんは、いつもの調子で言った。


「ちょっとした時空の歪みです。よくあることですから!」


即答。――だが、ほんのわずかに遅れていた。


無理に作った笑顔が、頬のあたりで引き攣る。

その微細なズレが、冷たい棘となって俺の胸に刺さる。


再び歩き出すが、進むほどに世界は曖昧になっていく。

空が、ドクン、ドクンと心臓のようなリズムで脈打ち、

色彩は混ざり合い、濁った泥のように変色していった。


「……やっぱり、同じ場所を回ってる」


カオリが、確信を持って言う。


「ガイド。あんた……道が分からなくなってるでしょ」


返事はなかった。


次の瞬間、ガイドちゃんが唐突に膝をついた。

杖が砂地に倒れ、乾いた音を立てる。


小さな肩が、かすかに震えている。


「……ごめん」


消え入りそうな声だった。


「……分からなくなっちゃった。道の見方が……

 色も、形も、全部。さっきまで分かってたはずのことが、

 砂みたいに指の間からこぼれていくの」


その言葉を聞いた瞬間、

ウルタールで聞いた、大猫の宣告が脳裏に蘇った。


――汝の「現実」は、少しずつ削れる。

――彼女を愛すれば愛するほど、汝は向こう側の住人ではなくなる。


そして、彼女が引き受けると言った「運命の一部」。


それは、命でも、記憶でもなかった。


彼女をこの世界に存在させていた――

役割そのものが、崩れ始めているのだ。


「今日はここで休もう」俺は静かに言った。


「これ以上進むのは危険だ」


マサトとカオリは無言で頷き、

少し離れた場所に荷物を下ろす。


気を利かせたのか、三人は

「周囲を警戒してくる」と言って距離を取ってくれた。


「……私、ちょっと頭を整理するから」


ガイドちゃんが立ち上がる。


「一人にして」


「だめだ」思った以上に、強い声が出た。


「なに?」振り返った彼女の顔は、ひどく冷たい。


「ガイドの指示に従えないお客様は、置いていきますよ?」


突き放すような言い方。意図的な棘。


「今の状態で一人は危険だ。

 自分がどうなってるか、分かってるだろ」


「……危険なのは、私が役に立たなくなること?」


彼女は笑った。


「ガイドが道を見失ったら、

 あなたたちはここで野垂れ死ぬしかないものね」


「違う! そんな話じゃない!」


「同じだよ!」


彼女が声を荒げる。


「ガイドが迷う世界なんて、終わってる!

 役割が果たせないなら、私はいらない!

 この景色の一部になって、消えちゃったほうがマシなの!」


「……ふざけるな」


自分でも驚くほど、低く、重い声だった。


「私、真面目に言ってるの」彼女は静かに言う。


「消えるのが、私の『正しい終わり方』なんだから」


「ふざけるなと言った」


俺は一歩、彼女に近づいた。


「お前は今、自分を消そうとしてるだけだ。

 役割が壊れたから価値がないって、

 そうやって逃げてるだけだろ!」


彼女の肩が、びくりと揺れた。


異変は、あまりにも地味だった。

だがそれは、確実に――

彼女という存在を、内側から壊し始めていた。





6.2 気持ちの果てに待っていたモノ


彼女は、目を大きく見開いた。


「……じゃあ、なに?」声が、かすれる。


「ガイドじゃない私に、何が残ってるっていうの?

 名前も、過去も、帰る場所も……何一つ持ってない私に!」


俺は一歩も退かなかった。


「残ってる」短く、はっきりと言う。


「今、俺の目の前に立ってる――お前自身だ」


「……それ、ずるい」


唇が震え、大きな瞳から、ぽとりと涙が零れ落ちた。


「私は……ガイドでいることでしか、

 この世界に存在を許されなかった。


 それ以外の『私』なんて……怖くて、空っぽで、

 誰にも必要とされない……」


胸が、締め付けられる。俺は迷わず、

彼女のパーソナルスペースに踏み込んだ。


「俺は、お前を役割で見てない」


低く、確かな声で告げる。


「最初から、ただの『ガイド』じゃなくて、

 一人の女の子として見てた」


「嘘……!」


彼女は叫ぶように言い、両手で俺の胸を突いた。


「だったら、なんで私を選んだの!?

 私を選べば、私が壊れるって分かってたでしょ!」


涙を滲ませたまま、睨みつける。


「私の平穏な『役割』を奪って、 こんな惨めな姿にして……

 これが、あなたの言う『好き』なの!?」


「……そうだ」


俺は彼女の手首を掴み、真正面から答えた。


「最低だって自覚してる。お前の安寧を壊してでも、

 俺は『お前』という個人に触れたかった」


一拍、置いて。


「その代償がこれなら――

 俺が、半分背負う」


彼女の唇が、はくはくと震える。


やがて力が抜け、

彼女はそのまま、俺の胸に額を預けた。


長い沈黙。

風が、彼女の啜り泣きを静かに運んでいく。


「……最低」


「ああ」俺は否定しなかった。


「自覚してる」


「……だったら」彼女は、かすれた声で続ける。


「最後まで、責任取って。

 私……もう、道案内なんてできないんだから」


それは甘えでも、脅しでもない。


泥沼のような運命を、共に歩くと決めた者同士の――

血の匂いがする契約だった。


その直後。


彼女の足元の影が、ぐにゃりと歪んだ。


猫の尾のような、あるいは触手のような不気味な影が、

一瞬だけ彼女の輪郭を侵食しようと蠢く。


代償は、止まっていない。


「……あ、存在が、ちょっと薄くなったかも」


彼女は弱々しく笑った。


「支えろ」俺は彼女の腕を強く引き寄せ、肩を抱く。


「俺が掴んでる間は、 勝手に消えさせない」


「重いでしょ……。

 私、もう何も教えてあげられないのに」


「いい」当然、即答だった。


「これからは、俺が道を見る。 お前が迷ったら、俺が手を引く」


「……無茶言う」彼女は小さく息を漏らす。


「あなた、ドリームランドの地理なんて、

 何も知らないくせに」


「なら、一緒に見る」俺は微笑む。


「二人で迷えばいい」


彼女は少しだけ驚いた顔をして、

そして――今日初めて。


仮面でも、営業用の笑顔でもない、

素の笑顔を浮かべた。


「……じゃあ」小さく、確かめるように。


「もし私が、間違った道を教えたら……怒っていい?」


「ああ。いくらでも」


代償は、確実に彼女を蝕んでいる。


けれど同時に、ガイドではない彼女と、

選んだ責任を背負う俺との間に、新しい絆が芽生え始めていた。


それは、限りなく「帰還不可」に近い選択。


それでも――

俺の心は、不思議なほど静かだった。


「ほら、行くぞ。みんなが待ってる」


「……うん」


彼女は、俺の手をぎゅっと握り返す。


もはや彼女は、無敵の案内人ではない。


けれど俺にとっては――

ようやく「隣を歩く人」になったのだ。



▶第7話へ続く

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