第八話 目覚めた魔王と“天文学的診察料”
三日後。
地下には本来、朝日は差し込まない。
だが今、診療所の床には柔らかな朝日のような光が伸びている。
もちろん、リンがシステムから交換した「人工太陽光」だ。
ソファの上。三日間眠り続けていた巨体が、ようやく僅かに身じろぎをした。
アスモデが、ゆっくりと目を開ける。
その瞬間、それまで診療所で忙しく立ち働いていたシルヴィと子牛は、一斉に神経を張り詰め、いつでも戦闘に移れる体勢を取った。
魔王は上体を起こし、ぼんやりと周囲を見回す。
自分の顔に触れ――低く呟いた。
「我は……死んでいない?」
「いいえ、ただぐっすり眠っていただけです。それも、たいへん気持ちよさそうに。」
リンは温かいレモン水を一杯手にして歩み寄り、アスモデの前に差し出した。
「三日三晩。三百年ぶりの“熟睡”ですよ。」
アスモデは呆然としたように固まる。
長年、不眠のせいで荒れ狂い、乱れ切っていた魔力の流れが――今は穏やかな湖面のように、静かに落ち着いている。
脳を常に焼いていたような激痛は消え去り、代わりに訪れたのは、生まれて初めてと言っていいほど澄み切った意識と、満ち足りたエネルギー。
「我は……眠れたのか……」
震える手でカップを包み込みながら、アスモデの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「よかった……本当に……よかった……」
金も、権力も、領土も、無限の寿命と力を持つ魔王にとっては取るに足らない。
ただ一つ、「安眠」だけが、どれだけ願っても手に入らなかった至高の贅沢だった。
「人間……いや、名医殿。」
アスモデは立ち上がり、リンに深々と頭を下げた。
この光景が地上に伝われば、全ての国王が恐怖のあまり平伏しただろう。
「お前は我を救った。ついでに世界も救った。望みを言え。」
アスモデは豪快に腕を振る。
「我の持つものなら何でもくれてやる。世界の半分でも、永遠の命でも、この魔剣でも、好きなものを選べ。」
横で聞いていたシルヴィは、目を丸くして固まった。
それは魔王の口から発せられた、ほとんど無制限の約束だ。
だがリンは、あくまで淡々と微笑んだだけだった。
「世界の半分なんて要りません。管理が面倒なので。」
リンは、用意しておいた契約書を取り出し、テーブルの上に置く。
「診療費はシンプルです。まず一つ目。第九十九層の“恒久的な領有権”をいただきます。今日からここは、私個人の領地です。いかなる魔物であっても、許可なく踏み込んだり破壊したりすることはできません。」
「二つ目。あなたには、当診療所の“終身名誉会員”になっていただきます。」
「終身会員というのは、今後も定期的に診察に来て、決まった時間に眠っていただくということです。そして……診療所で誰かが暴れた場合には、あなたに責任を持って放り出してもらいます。」
アスモデは唖然とした顔で固まり――そして大声で笑い出した。
「ははははは! それだけか! 簡単すぎるわ!」
「この第九十九層は、今日からお前の裏庭だ! ここで暴れる者がいれば、お前に手を煩わせるまでもない。我が自ら粉微塵にしてやろう!」
アスモデは迷うことなく契約書に名を書き入れ、燃え盛る黒炎の指紋を押した。
【システム全域アナウンス】
【プレイヤー《リン》は、深淵魔王との《魂の契約》を締結しました】
【称号獲得:《深淵大公(Grand Duke of Abyss)》】
【第九十九層は《絶対中立区域》に指定されました。全ての魔物のプレイヤー《リン》に対する好感度が強制的に《崇拝》へと固定されます】
その金色のアナウンスは、核爆発のように、再び全ての冒険者の視界に叩き込まれた。
第五十一層でボロボロになりながら休憩していたレオは、そのメッセージを見た瞬間、水筒を取り落とした。
「……深……深淵大公だと?」
レオは画面に表示された《リン》の二文字を、血走った目で凝視する。
「あの口先だけの役立たずが……魔王の大公になったぁ!?」
「ふざけるなよ! 俺はS級勇者だぞ!? まだ第五十一層で泥を舐めてるってのに、あいつは第九十九層の領主だと!? どういう理屈だ、それが!!」
レオは情けない怒号を上げ、岩壁を蹴りつけ――派手に足を痛め、地面で転げ回るのだった。
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