第四話 自殺志願のエルフ姫と「追いかけてきた悪夢」

 ちりん、と澄んだ音が鳴った。


 開業したばかりの療養所のドアに掛けられた風鈴が、静かな風に揺れる。


 リンは読んでいた本を閉じ、少しだけ目を丸くした。


「まさか、こんなに早く二人目のクライアントが来るとはね。」


 扉をくぐってきたのは、魔物ではなかった。


 尖った耳、高い背。


 本来ならば萌えるような緑の髪を持つ、絶世のエルフの女性――。


 だが今の彼女は、あまりにもボロボロだった。


 生命力の象徴だったはずの髪は、色を失い、枯れ草のよう。


 “鷹の目”と謳われる瞳は血走り、全身は泥に塗れている。


 その手には、折れたロングボウが白くなるほど強く握りしめられていた。


 エルフ族の王女にして、名の知れたA級レンジャー――シルヴィ。


 しかし今の彼女は、触れただけで砕けそうな磁器人形にしか見えなかった。


 シルヴィはリンに目もくれず、幽鬼のようによろよろと部屋の隅まで歩いていくと、その場にしゃがみ込み、膝を抱え込んだ。


「ごめんなさい……外した……全部、わたしのせい……わたしなんか、生きてちゃダメなのに……」


 小さくぶつぶつと呟き続ける。


[ うわ……シルヴィ姫だ! ]


[ 嘘……こんな状態になってたのかよ。完全に壊れてるじゃん。 ]


[ 城塞戦で矢を一本外して、魔物を村に通しちゃったんだろ? 結局死者は出なかったらしいけど、本人がずっと自分を許せてないって噂は聞いた ]


 流れ込んでくるコメントを斜め読みしながら、リンはすでに答えを出していた。


【診断:精神力ほぼ枯渇。重度の反芻思考(ルミネーション)と完璧主義強迫を併発】




 彼女は、あの一度のミスという瞬間に心を囚われている。


 そのシーンを頭の中で何度も何度も再生し、そのたびに自己嫌悪という毒を自分自身へと流し込んでいるのだ。


 リンは何も言わない。


 そっと歩み寄ると、彼女の前に湯気の立つハーブティーを置いた。


 そして、彼女の手から、折れた弓をやさしく取り上げる。


「弓を返して……練習しないと……もう外しちゃダメなの……」


 弓を奪われたことに気づいたシルヴィが、慌てて顔を上げる。


 その視線は、まっすぐにリンの深く静かな瞳とぶつかった。


「その矢は、もう落ちたんだよ、シルヴィ。」


 リンの声は小さい。


 だが、そこには奇妙な説得力が宿っていた。


「この世界に、永遠に空を飛び続ける矢なんて一本もない。どんな射手だって、必ずどこかで的を外す。」


「時々、外れるのはね、君が無能だからじゃない。」


 リンは、窓の外を舞う黒い雪片を指さす。


「その矢が、“ちょっと疲れたから、風景を見てから落ちたい”って思っただけの話さ。」


 シルヴィはぽかんと口を開ける。


 生まれてからずっと、彼女の周りの大人たちはこう言い続けてきた。


 「あなたは王女なのだから完璧でなければならない。失敗は許されない。」


 矢だって疲れる、なんて言葉をかけてくれた者は、一人もいなかった。


「……う、うぅ……」


 半月分は溜め込んでいたであろう罪悪感とプレッシャーが、その瞬間一気に決壊した。


 シルヴィはリンの胸に飛び込み、子どものように声を上げて泣き始める。


 しゃくり上げるようなその泣き声は、耳に痛いほどだった。


 だがそれは同時に、再生へ向かう第一歩でもある。


[ 俺も泣きそう…… ]


[ 「矢も風景を見たくなる」って何その名言。メモった ]


[ リンさん、シルヴィを助けてくれてありがとう! 【エルフの涙】×10投げておきます ]


 シルヴィの体をまとっていた黒い靄は、涙とともにゆっくりと薄れていく。


 しかし、リンの表情は、いささかも緩まなかった。


 彼は、彼女の背後で消えかけている闇の残滓を見つめ、ふっと目を細める。


「シルヴィ。君、こう言ってたね。“あの失敗から逃げるために、深淵まで降りてきた”って。」


「そ、そう、ですけど……」


 シルヴィは涙を拭いながら、小首を傾げる。


「でも、僕の精神プロファイルによると――」


 リンは立ち上がり、早足で入口の方へ向かった。


 大きく開け放たれていた扉の鍵を思い切り下ろし、「レベル1警戒」のハンドサインを小牛に送る。


「君を追い詰めているのは、失敗そのものじゃない。“完璧じゃないお前は生きている価値がない”って、ずっと囁き続けてきた“声”のほうだ。」


 シルヴィの瞳孔がぎゅっと縮む。


「ど、どうして……知って……」


「簡単さ。」リンは扉の隙間から、静かに忍び込んでくる黒い煙を指さした。


「ちょうど今、その“声”が、迎えに来ている。」


 ドン。


 ドン。


 ドン。


 重いノックの音が響く。


 一打ごとに、心臓が直接叩かれているような感覚が胸を揺らした。


 扉のこうから、ぞっとするほど優雅で、しかし背筋が凍るような男の声が聞こえてくる。


「愛しいシルヴィ……僕の婚約者……メンタル治療は終わったかな?」


「治ったのなら、そろそろ戻っておいで。“完璧な人形”としての務めを、きちんと果たしてもらわないとね……」


 シルヴィが悲鳴をあげる。


 せっかく落ち着きかけた理性が、一瞬で崩れかけた。


[ 出た……エルフ王族のあのヤベェ王子だろ!? ]


[ 公主を追い詰めた元凶って、やっぱアイツだったのかよ。完全にPUA男じゃん ]


[ レベル85の魔剣士だぞ。リンさん、勝てるのかこれ…… ]


 リンは、震えるシルヴィをかばうように前へ出る。


 冷たい視線のまま、扉をじっと見据えた。


「悪いけど、面会時間は終了だ。それに――この療養所、DV野郎の入館は禁止なんだ。」

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