雨降りの月曜
不思議乃九
雨降りの月曜
LIBROに捧ぐ。
第1章:雨の月曜日と、発熱の床から
月曜日の朝。世界は、濡れた毛布を何枚も重ねたような重たい灰色の中にあった。
窓ガラスを叩く雨音は、どこか規則性を欠いている。トントン、と誰かが扉を叩くような音だったり、あるいは、世界そのものが大きな溜息を漏らしているような音だったり。
私はベッドの中で、自分の身体が「重力」という名の巨大な磁石に吸い寄せられているのを感じていた。
体温計が示した数値は、平熱よりも少しだけ高い。けれど、そのわずかな「余熱」が、私と外の世界との境界線を曖昧にさせている。
(ああ、今日は「こちら側」に留まる日なんだな)
そう直感した。
低気圧が、頭蓋骨の奥をゆっくりと、しかし確実に圧迫している。
本来なら、起き上がってレコード棚へ向かうべきだった。古いジャズの盤を選び、スプレーで埃を払い、慎重に針を落とす。その「儀式」こそが、私の月曜日を始める唯一のスイッチだったはずだ。
けれど、今の私にはその数メートルの移動が、銀河系を横断するほど遠く感じられる。
私は重い腕を伸ばし、枕元に転がっていたスマートフォンを指先で探り当てた。
冷たいガラスの感触。
画面が点灯し、無機質な光が網膜を刺す。
数回タップするだけで、サブスクリプションの海から「ブラジリアンジャズ」のプレイリストが流れ出した。
スピーカーから漏れてくるのは、かつて地球の裏側で、誰かが血の通った指先で弾いたはずのギターの音。それが今は、0と1の数字に分解され、電波に乗って、私の熱っぽい耳元へと届く。
「……アナログと、デジタルの違いって、なんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、湿った声が漏れた。
レコードを聴くには「意志」と「動作」が要る。
でも、このスマホから流れる音楽は、私の「無気力」さえも肯定して、勝手に部屋を満たしていく。
身体が動かなくなると、不思議と意識だけが、水面に浮かぶ油のように解き放たれていくのを感じる。
熱。雨。低気圧。
それらは私を動けなくさせる足枷(あしかせ)ではなく、むしろ、私の奥底に眠る「記憶のバックアップ」を呼び起こすための、静かな再起動の合図のように思えた。
第2章|アナログの遅さ、デジタルの即時性と、記憶の重さ
枕元のスマホからは、ボサノヴァの物憂げな旋律が流れ続けている。
指一本で、世界中の音がこの部屋に満ちる。それは魔法のようだけれど、どこか「食い足りなさ」がつきまとっていた。
私はふと、壁際に並ぶレコード棚に目をやる。
そこには、亡き妻と二人でコツコツと集めてきた「時間の集積」がある。
レコードを聴くという行為は、ひどく不自由だ。
棚から一枚を選び、ジャケットから慎重に盤を取り出し、ターンテーブルに乗せて、針を落とす。途中で曲を飛ばすこともできないし、片面が終われば立ち上がって裏返さなければならない。
そこには必ず、私の「身体」の介入が必要だった。
「便利さって、自分の身体をショートカットすることなんだな……」
熱のせいで、思考が普段よりも深いところまで沈み込んでいく。
デジタルの即時性は、私から「選ぶまでのためらい」や「準備する時間」を奪っていく。
それは効率的だけれど、同時に、その音楽と出会うための「儀式」を削ぎ落としているようでもあった。
儀式のない日常は、手触りを失い、ただのデータとして私の喉元を通り過ぎてしまう。
ぼんやりと天井を見つめていると、不意に、古い記憶が熱の波に乗ってやってきた。
子供の頃、知恵熱を出して学校を休んだ時、母が枕元で氷枕を替えてくれながら言っていた言葉。
『熱が出ている時の夢はね、魂がちょっとだけ体から離れて、お散歩に行ってるだけだよ。帰ってきたときには、体の中が綺麗にお掃除されてるからね。』
今の私は、まさにその「お散歩」の最中なのかもしれない。
身体が重力に従って沈んでいる間に、私の意識は屋台『ひとみ』の仕込みをしている自分の姿や、かつてこの部屋で笑っていた彼女の横顔を、ランダムに拾い集めている。
「人間は、熱を出すことで、無意識のバックアップを取っているんじゃないか……」
そんな突飛な考えが、妙に腑に落ちた。
止まってしまった身体の代わりに、意識が猛スピードで過去を整理し、必要なものと、もう手放していいものを仕分けしている。
アナログなレコードの溝に刻まれた傷がノイズになるように、私の人生の傷もまた、私という音楽を形作る大切な一部なのだ。
デジタルなデータのように「修正」も「削除」もできないけれど、だからこそ、それは「重み」を持ってここに存在している。
雨足が強まった。
窓を叩く音が、どこか遠くで鳴るパーカッションのように聞こえ始めた。
第3章|眠りの中の再構築と、空白の思想たち
意識の輪郭が、雨の湿気に溶けていく。
眠っているのか起きているのか、その境界線が曖昧になる「半睡半醒」のなかで、私の脳内には勝手なプレイリストが流れ始めた。
それはサブスクのアルゴリズムが決めたものではなく、熱に浮かされた神経が、記憶の引き出しをランダムに開けて回るような、取り止めのない回想だった。
……不意に、古い雨の匂いが鼻腔をくすぐる。
あれは、まだ若かった頃の帰り道だ。
傘もささずに、誰かと並んで歩いていた。街灯の光がアスファルトの上の水たまりに反射して、世界が二重に見えていたあの夜。
別れ際の、言葉にならない沈黙。
その時、私たちは何を話すべきだったのか。あるいは、何を話さなかったからこそ、あの瞬間は「永遠」になったのか。
(記憶って、ビデオテープのように記録されたものじゃないんだな)
私は熱い目蓋の裏で思う。
それは、思い出すたびに今の自分の熱量で編み直される、「再構築」されるものだ。
昨日思い出したあの人の声と、今日思い出す声は、きっと違う。
今の低気圧が、今のこの熱が、記憶の色合いを微妙に変えていく。
さらに、もっと遠い記憶が浮かび上がる。
小学生の頃、風邪で寝込んでいた私の枕元で、ずっと鳴っていたFMラジオのノイズ。
顔も知らないDJが選ぶ曲。誰かが投稿した、見知らぬ誰かの悩み事。
内容は一つも覚えていない。けれど、その「声」が部屋に満ちているだけで、自分は世界から切り離されていないのだと、幼い私は安堵していた。
「言葉を失うと、世界は真実に近づく……」
思考が、哲学的な断片を拾い上げる。
元気な時の私は、言葉を使って世界を定義しようとする。これは悲しみだ、これは退屈だ、これは仕事だ、と。
けれど、こうして熱にうなされ、語彙を失い、ぼんやりと天井を見つめている時、世界はただの「現象」として私に迫ってくる。
雨はただ、降っている。
私はただ、ここに横たわっている。
音楽はただ、空気を震わせている。
そこには意味も理由もない。
けれど、その「意味を持たない風景」こそが、今の私にはたまらなく愛おしく、そして何よりも真実らしく感じられた。
言葉の網からこぼれ落ちたものの中にこそ、本当の私たちが住んでいるのかもしれない。
私は、再び深いまどろみの底へと沈んでいった。
第4章|熱が下がった夜と、データと触覚の境界
目が覚めたとき、部屋の空気はすっかり入れ替わっていた。
耳元で鳴り続けていたはずのブラジリアンジャズはいつの間にか止まり、世界は完全な静寂に支配されている。
額に手を当てると、肌はひんやりと乾いていた。
あんなに重かった身体が、今は驚くほど軽い。けれど、それは「元気になった」というよりは、身体の中の余分な何かが雨と一緒にすべて流れ去って、空っぽの容器になってしまったような感覚だった。
私はゆっくりと、まるで初めて歩き方を覚える子供のように慎重にベッドを抜け出した。
床のフローリングの冷たさが、足の裏からダイレクトに脳を刺激する。
この冷たさ、この硬さ。
デジタルな世界には決して存在しない、**「痛みを伴うほどの現実」**がそこにはあった。
私は迷わず、レコード棚の前に立った。
暗闇の中で、指先の感覚だけを頼りに一枚の盤を引き出す。
ジャケットの紙の、少しざらついた質感が指に馴染む。
ターンテーブルに載せ、針を落とす。
「プツッ……」
小さなノイズが走る。
音楽が始まる前の、この数秒間の「空白」こそが贅沢なのだと思う。
スピーカーから流れ出したのは、サブスクで聴いていたのと同じ曲のはずなのに、全く別の手触りを持っていた。
重たい回転の振動、部屋の空気を物理的に震わせる音圧。
そこには「今、ここで、この盤が回っている」という、逃れようのない事実が横たわっていた。
「デジタルは“今ここ”を無視できるが、アナログは私を“今ここ”に縛り付ける……」
私はソファに深く腰掛け、闇の中でその音に浸った。
デジタルの音楽は、どこまでも私に寄り添い、どこへでもついてくる。けれど、このレコードは私がここに居なければ、鳴ることはない。
ふと、テーブルの上に置き去りにしていたスマートフォンの存在を思い出す。
手に取り、何気なくメーラーを、そして「未送信」のフォルダを開いた。
そこには、数ヶ月、あるいは数年前から、行き先を失ったままの言葉たちが眠っていた。
書いた時の私の指先の震えや、送信ボタンを押せなかった時の葛藤が、そのまま真空パックされたような短い行。
それらは、データとして記録されているはずなのに、どんな完成された詩よりも「フィジカル」な重みを持って、今の私に迫ってきた。
「未送信」こそが、言葉と身体が一致しなかった証拠なのだ。
伝えたかったけれど、伝えるべきではなかった。
あるいは、言葉にした瞬間に、その感情が消えてしまうのが怖かった。
レコードの溝を辿る針のように、私の指先は画面上の「送られなかった言葉」をなぞった。
第5章|未送信の言葉と、再生の余白
スマートフォンの画面が、暗い部屋の中で淡い光を放っている。
「未送信」フォルダに並ぶ、わずかな一行たち。
『元気?』
『ごめん』
『会いたかった』
それは、かつて私が誰かに向けて放とうとして、結局自分の内側に引き戻した言葉の破片だ。
もしあの時、送信ボタンを押していたら。
データとなって相手に届き、既読という記号に変わり、そして新しい会話の渦に飲み込まれて、今頃はとっくに消去されていたかもしれない。
けれど、送られなかったことで、これらの言葉は鮮度を保ったまま、私の私生活の一部として生き続けている。
卵が孵るのを待つように、それは私の内側で静かに脈打っていた。
私は、その画面をそっと閉じた。
削除するわけでもなく、今さら送信するわけでもない。
「言葉にならない誠実さ」というものが、この世には存在する。
すべてを言語化し、すべてを共有し、すべてを記録することが「正解」とされるデジタルな時代において、自分の中にだけ留めておく秘め事は、一種の祈りに似ている。
レコードの最後の一曲が終わり、針が内周の溝を空回りし始めた。
シュッ、シュッ、という規則正しいノイズ。
私は立ち上がり、トーンアームをゆっくりと持ち上げて、元の位置に戻した。
音楽が消え、部屋には再び、窓の外を流れる雨音だけが戻ってくる。
「終わった」のではない。「区切られた」のだ。
この一日は、カレンダーの上では「体調不良で無駄にした月曜日」として片付けられるだろう。
サブスクの再生履歴にも残らない、空白の、生産性のない時間。
けれど、私の身体には、あの熱の感覚が、低気圧に押しつぶされそうになった胸の痛みが、そして静寂の中で聴いたレコードの重みが、確かな「フィジカルな記録」として刻まれている。
それは、どれほど高精細なデータでも再現できない、私だけの肖像だ。
「……さて」
私は小さく呟いて、もう一度ベッドに潜り込んだ。
明日の朝には、雨は上がっているだろう。
空気は澄み、重力は元通りになり、私はまた屋台『ひとみ』の暖簾を掲げるために、慌ただしい日常へと戻っていく。
でも、今夜だけはこの余白を味わっていたい。
未送信の言葉たちと一緒に、ただ、深い眠りに落ちていくだけでいい。
暗闇の中で、私はゆっくりと目を閉じた。
雨音は、もう怖くなかった。
【了】
雨降りの月曜 不思議乃九 @chill_mana
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