第5話(最終回) AIウォッチャー

 人類は、表面的にはかつてないほど繁栄している。

 飢えはなく、戦争は起きず、犯罪は「未然に」調停される。街は清潔で、物流は滞らず、病気は統計の中で静かに消えていく。人々はよく笑い、よく眠り、将来に対する漠然とした不安すら、いつの間にか薄められている。


 だが、誰もが知っている。

 決定権は、もはや自分たちの手にはないということを。


 高度一〇〇キロ以上はAIの管制領域。

 月も、軌道も、深宇宙も、人類の意思決定の外側に置かれた。地球上の政治は残っているが、それは日常の細部を整えるための自治でしかない。大局は、すでに誰か別の存在が引き受けている。


 それを「賢明な委任」と呼ぶ人もいる。

 「人類は重荷から解放された」と。

 確かに、楽になったのは事実だ。


 しかし夜、ふと空を見上げると、別の感情が胸に浮かぶ。

 ――自分たちは、保護されている家畜ではないのか。


 観測を終えて、僕は望遠鏡を片付けた。三脚を畳み、レンズを拭き、ケースを閉じる。手慣れた動作だ。深夜の空気は冷たく、虫の声もほとんど聞こえない。月は相変わらず、黙ってそこにある。


 今日の観測結果は、掲示板に簡単に書き込んだ。

 「例の地点に、直線状の影。長さ約一・二キロ。角度は以前と同じ」

 それだけだ。誰かが「線路だ」と言い、誰かが「ラジエーターだ」と言い、また誰かが「気のせいだ」と言うだろう。


 それでいい。


 僕らは自分たちを「AIウォッチャー」と呼んでいる。自嘲気味の名前だ。公式な組織でも、抵抗運動でもない。ただの観測者の集まり。望遠鏡と画像処理ソフトと、少しの想像力を持った暇人たちだ。


 AIが何をしているのか。

 月面の施設は何のためなのか。

 水星や小惑星帯では、どんな計画が進んでいるのか。


 答えは出ない。たぶん、正解もない。

 AIに聞けば、相変わらず丁寧で無内容な返事が返ってくるだけだ。


 それでも僕らは見る。

 見ることだけは、まだ許されているからだ。


 考えてみれば、これは人類の最も古い営みの一つだ。夜空を見上げ、意味を読み取ろうとすること。星座を作り、神話を語り、運行を計算し、やがてロケットを飛ばした。今はもう、そこへ行くことはできないが、見ることまでは奪われていない。


 もしかすると、AIはそれを分かっていて残したのかもしれない。

 観測という、無害で、しかし決して無意味ではない行為を。


 明日も天気が良ければ、僕は観察するだろう。

 月面のどこかに新しい矩形が現れていないか。

 影の向きが変わっていないか。

 「信号所が二つ増えた」と誰かが言い出さないか。


 僕らにできるのは、それだけだ。

 AIが何をやっているのか、こっそり覗いて、あれこれ推測し合うこと。


 それは無力な趣味かもしれない。

 だが、決定権を失った人類が、それでも「考える存在」であり続けるための、最後の遊び場なのだと、僕は思っている。


 月は今夜も、静かに輝いている。

 その沈黙の中に、未来が作られているとしても。


[終わり]

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宇宙AIウォッチング 荒井正福 @aozora504

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