未送信

不思議乃九

未送信

第1部:消す仕事


 液晶保護フィルムの角に爪をかけ、ゆっくりと剥がす。

 吸着剤が空気と触れ、微かな、しかし決定的な拒絶の音を立てる。それが、私の仕事の始まりの合図だ。

 相馬恒一の指先は、すでに指紋を失いかけている。長年、何千台という端末の表面をクリーナーで拭い、アルコールで消毒し、無機質な板へと還元し続けてきた代償だ。

 依頼人は、一週間前に亡くなった男の妹だという。

 彼女は、兄の遺品であるその黒いスマートフォンを、まるで不発弾でも扱うような手つきで私のデスクに置いた。

「中身、全部消してください。見ないでいいです。ただ、真っさらに」

 そう言い残して去った彼女の背中には、中身を知ることへの恐怖と、知らないまま葬ることへの後ろめたさが同居していた。

 私は作業台のライトを点ける。

 まず最初に行うのは、設定画面を開くことではない。物理的な「個」の剥奪だ。

 私は、その端末に着せられた安っぽいシリコンケースを指先で捲り上げた。

 ケースの裏側から、一枚のステッカーが滑り落ちる。

 それは、どこかの地方都市の、色褪せた観光キャラクターのシールだった。縁は手垢で黒ずみ、粘着力はとうに失われている。男がどんな思いで、誰と、いつこの場所を訪れ、なぜこの幼稚なシールを人目に触れない場所に隠し持っていたのか。

 私はそれを、デスクの引き出しにある「預かり箱」には入れない。

 代わりに、自分の胸ポケットから、自前のステッカーを取り出す。

 真っ白な、何も印字されていない円形のラベルだ。

 私は男のステッカーがあった場所に、その空白の白を貼り付ける。

 他人の思い出を、私の用意した「虚無」で上書きする。

 これが、私の儀式だ。

 画面が真っ暗になる瞬間に、私の無表情な顔が鏡のように映り込む。それを見る前に、私は初期化のコマンドを叩き込む。

 ……だが、今回の端末は、少しだけ様子が違った。

 初期化プロセスを開始しようとした私の指が、あるフォルダの数字を見て止まる。

 『未送信:412件』

 それは、死者が誰にも届けられなかった、四百回分の呼吸の跡だった。


第2部:送られなかった言葉たち


 412件。

 それは異常な数だった。

 

 通常の「未送信」は、電波の状態が悪かったか、あるいは送信直前で気後れした、せいぜい数件の残滓(ざんし)に過ぎない。

 だが、この端末の未送信フォルダは、一つの巨大なアーカイブのようになっていた。

 私は、くすんだ青色のキャラクターシールを貼り替えたばかりの指で、液晶をスクロールする。

 日付は三年前から、彼が亡くなる数日前まで、執拗なまでに刻まれている。

『明日は』

『やっぱりいい』

『おめでとう、とは』

『あ』

 断片だ。

 単語、あるいは音節。

 誰に宛てたものかもわからない。宛先欄はすべて空白か、あるいは「自分」のアドレスが指定されている。

 彼は、誰かに伝えようとして言葉を殺したのではない。

 最初から、殺すために言葉を産み落としていた。

 私は一つ、比較的新しい日付のテキストを開く。

『雨が降ると、あの角の』

 そこで途切れている。

 角の、何なのだ。

 花屋か、事故現場か、あるいはかつて誰かと待ち合わせた喫茶店か。

 情報の欠落は、読者に想像を強いる。私はそれを不快に思う。

 意味を繋げてはいけない。これはただの、削除待機中のバイナリデータだ。

 だが、スクロールする指は止まらない。

 

『俺だけが悪いわけじゃ』

『いつからだろう、声が出なくなったのは』

『間に合うなら』

 不意に、胃のあたりが冷たくなるのを感じた。

 「間に合うなら」。

 その四文字が、網膜の裏側に焼き付いた古い記憶を呼び起こす。

 数年前、私も同じ四文字を打ち込み、そして消した。

 離婚届を役所に提出した日の夜。ひとみが去った後の、まだ彼女のシャンプーの匂いが微かに残る浴室で。

 結局、私は何も送らなかった。

 何も言わないことが、彼女への唯一の誠実さだと信じていたからだ。

「相馬さん、進んでますか」

 背後から声をかけられ、私は反射的に画面を伏せた。

 依頼人の女性が、いつの間にか部屋の入り口に立っていた。彼女は私の手元を、獲物を狙う鳥のような鋭い目で見つめている。

「……プロセスの確認をしています。少し、データの整合性に時間がかかっていまして」

 嘘だ。整合性など関係ない。ただ消去ボタンを押せば済む話だ。

「兄は、無口な人でした」

 彼女は、私の返答を待たずに呟いた。

「何を考えているのか、家族にも一度も話してくれたことがない。だから、死んだ理由も、誰にもわからないんです。……何か、ありましたか? その中に」

 私は、自分の胸ポケットに触れる。

 そこには、先ほど剥がした「くすんだ青」のステッカーが、ゴミとして入っている。

 そして、目の前の端末には、412回の沈黙が詰まっている。

「いいえ。何も」

 私は、自分の声をひどく遠くで聞いた。

「ただの、ゴミデータです。まもなく、すべて消えます」

 私は、彼女の前で「一括消去」のボタンに指をかけた。

 だが、画面の隅で、一つのメモだけが、奇妙な明滅を繰り返していた。


第3部:消せない一文


 エラー。

 画面中央に、冷淡なダイアログボックスが浮かぶ。

『要求された操作を完了できません。オブジェクトが存在しません、または読み取り専用です』

「……そんなはずは」

 私は独り言を漏らす。

 この端末のルート権限はすでに取得している。システムファイルだろうがユーザーデータだろうが、私の指一つですべてを「無」に帰せるはずだった。

 だが、その一行だけが、消えない。

『まだ間に合うなら、言いたい』

 一括消去のプロセスは完了している。411件の未送信メールも、数千枚の写真も、膨大な連絡先も、すべてはビットの海に溶けて消えた。

 ストレージの空き容量は、物理的な限界値を示している。

 なのに、液晶の片隅で、その一文だけが淡い光を放ちながら明滅している。

 私は、そのメモの詳細情報を開こうとした。

 作成日時、更新日時、位置情報。

 通常ならそこに並ぶはずの数字が、すべて「0000/00/00 00:00」となっている。

 

 時系列から切り離されている。

 それは、この世界に存在するための「座標」を持っていないということだ。

 始まりも終わりもない言葉。

 ただ、「言いたい」という純粋な質量だけが、デジタルの隙間に挟まって動かなくなっている。

 背後に立つ女性の視線が、私のうなじを刺す。

「終わりましたか?」

「いえ……一つだけ、不具合が」

「不具合」

 彼女が身を乗り出した。

 私は反射的に、端末を隠すように抱え込んだ。

 見せてはいけない、と思った。

 この「消えない言葉」を遺族に見せることは、私の職務放棄である以上に、もっと決定的な「何か」を侵すことになる。

 私は何度も削除キーを叩く。

 画面をスワイプし、強制終了を試み、コマンドラインから直接アクセスを試みる。

 だが、そのたびにダイアログは嗤うように『オブジェクトが存在しません』と繰り返す。

 存在しないのに、消せない。

 その矛盾が、私の思考回路をショートさせる。

 ふと、自分の左胸が疼いた。

 あの日。離婚届を書き終えたあの日。

 私も、自分の内側に「作成日時のない言葉」を見つけたのではなかったか。

 それは三年前の喧嘩の夜に生まれたものかもしれないし、十年前の出会った瞬間に用意されていたものかもしれない。

 時間を失った言葉は、消える場所を失い、永遠に主体を呪い続ける。

「相馬さん。顔色が悪いですよ」

 女性の声が、遠くの波音のように聞こえる。

「……消えないんです」

 私は、自分でも驚くほど掠れた声で言った。

「どうしても、これだけが」

 私は観念して、端末の画面を彼女に向けた。

 液晶の中で、その一文がまた、一度だけ深く、呼吸するように明滅した。

 それは、死者が最後に放った、あるいは最初から持っていた、剥き出しの「芯」だった。


第4部:真相


 液晶の光が、彼女の瞳の奥で小さく揺れた。

 私は、処刑を待つ囚人のような心持ちで、彼女の反応を待った。

 だが、彼女の口から零れ落ちたのは、慟哭でも、感謝でもなかった。

「……これ、兄の言葉じゃない」

 その声は、驚くほど平坦だった。

 私は耳を疑う。

「いえ、ですが、この端末の中に、これだけが……」

「兄は」

 彼女は私の言葉を遮り、画面を見つめたまま言った。

「兄は、“言いたい”なんて言わない人でした」

 彼女の指が、明滅するその一文を、触れるか触れないかの距離でなぞる。

「不器用だったんじゃない。言えなかったんじゃないんです。あの人は、最初から言うつもりがなかった。沈黙だけが、あの人の完成された世界だったから」

 私は、自分の心臓が大きく脈打つのを感じた。

 彼女が語っているのは、死んだ兄のことだ。

 それなのに、その言葉の一つひとつが、私の剥き出しの神経に直接触れてくる。

 

 ――言うつもりがなかった。

 

 私もそうだったのか。

 ひとみが部屋を出ていくとき、背中に向けて叫ぶことも、追いかけることもできたはずなのに。私はただ、茶碗が洗われていないシンクを見つめていただけだった。

 それは無力だったからではない。

 沈黙という殻の中に閉じこもることで、自分を、あるいは彼女との関係を、傷つかない形にして凍結させたかっただけではないのか。

「だから、これは変です」

 彼女は、初めて私の方を向いた。その目には、微かな、しかし温かい困惑が宿っていた。

「もし、これが本当に兄の中にあったものだとしたら……。それはたぶん、言葉になる前の、ただの『生きていた塊』みたいなものだと思います」

 生きていた塊。

 

「兄は誰にも届けたくなかった。でも、自分がここにいたことだけは、何かに刻んでおきたかったのかもしれない。……消えなくて、よかった。これが消えたら、兄は本当に、最初からいなかったことになってしまうから」

 彼女は、それ以上は何も言わなかった。

 ただ、一度だけ深く頭を下げ、私のデスクに修理代金と、端末の所有権を放棄する書類を置いていった。

「それ、好きにしてください。相馬さん。もう、兄の遺品じゃない気がするから」

 彼女が去ったあとの部屋は、先ほどよりもずっと広く、そして静かだった。

 作業台の上で、黒い板が一つ。

 もはや「スマホ」でも「データ」でもない、正体不明の熱を持った物体が、今もなお明滅を繰り返している。

 私は、自分の胸ポケットから、先ほど剥がした「くすんだ青」のステッカーを取り出した。

 ゴミとして捨てるはずだったそれを、私はもう一度、自分の手元に置く。

 言葉は、送られなかった瞬間に消えるのではない。

 それは「未送信」という名前の永遠の中に、静かに結晶化していくのだ。


第5部:余韻


 夜が深まり、街のノイズが低周波のうなりのように沈み込む頃、私はようやく作業台のライトを消した。

 デスクの引き出しの、一番奥。かつて離婚届の控えを入れていた場所に、あの黒い端末を置く。

 電源は入れたままだ。

 暗闇の中で、一文だけが、誰にも届かない波長で明滅を続けている。それは今や、この部屋のどこかで鳴っている微かな耳鳴りのようでもあった。

 私は自分のスマートフォンを取り出し、ケースを外した。

 そこにあるはずの「空白のステッカー」を爪で剥がし、代わりに、あの男が持っていた「くすんだ青」を貼り付ける。

 粘着力の弱まったそれは、私の指の形に少しだけ歪んだが、それでも確かにあるべき場所を見つけたように馴染んだ。

 誰にも見せない。誰にも説明しない。

 ただ、私の手のひらと端末の間に、他人の生きていた断片が挟まっている。その違和感だけが、今の私を現実へと繋ぎ止めていた。

 連絡先を開く。

 「ひとみ」。

 その三文字をタップし、メッセージの入力欄を呼び出す。

 私は、長い時間をかけて、一文字ずつキーを叩いた。

『まだ』

 そこで指を止める。

 まだ、何なのだ。

 まだここにいる。まだ忘れていない。まだ、君に言いたいことが、泡のように生まれては消えている。

 青い送信ボタンが、暗い部屋の中で冷たく光っている。

 これを押せば、私の「未送信」は、解体され、ただの通信記録へと成り下がるだろう。

 だが、送らなければ、この二文字は、あの男の言葉と同じように、私の内側で永遠の鮮度を保ち続ける。

 私は、送信ボタンに指を添えたまま、目を閉じた。

 液晶の向こう側で、世界は何事もなかったように静まり返っている。

 遠くで始発の電車が走る音が聞こえたような気がしたが、それはただの、私の記憶の反響かもしれない。

 私のスマートフォンは、今日も正常に動作している。

 ただ一つだけ、削除できない空白を抱えたまま。


(完)

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