深夜二時の乗客――後部座席に、誰かいる―― 供養瀬トンネルを抜けてはいけない

ソコニ

1話完結 深夜二時の乗客

プロローグ

「あそこで寝たら、朝起きた時、助手席に誰かおるで」

大阪市内のカフェで、ベテランライターの桐山さんはそう言った。冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。

私――Webメディア「ナイトクルーズ」の記者、水無月美波(27)は、関西の車中泊スポット特集の取材で彼女に会っていた。

「供養瀬の道の駅な。あそこ、昔は『身投げトンネル』って呼ばれてたんや。その先にある道の駅で寝るやつは、みんな言うねん。『夜中に誰かが乗り込んできた』って」

桐山さんはスマホの画面を見せてくれた。掲示板のスクリーンショットだった。

『深夜3時頃、ドアをノックされた。無視してたら、後部座席で寝息が聞こえ始めた』

『朝起きたら、助手席のシートベルトが締まってた。昨夜は外してたのに』

『窓に手形がびっしり。でも全部、車の内側からついてた』

「ほんで、一番怖いんはな」

桐山さんは声を落とした。

「朝になって車内を確認したら、後部座席に『知らん人の荷物』が置いてあるんや。使い古した櫛とか、色褪せたお守りとか、誰かが使ってた生活用品。自分の車やのに、誰かに間借りされてる感じや」

背筋が冷たくなった。

「それ、本当ですか?」

「嘘やと思うなら、行ってみたらええ。ただし――」

桐山さんは真顔で言った。

「途中で目ぇ覚ましても、絶対に後ろ見たらあかん。気配がしても、物音がしても、振り向いたらあかんで。向こうは、こっちが『認めるの』を待ってるんや」




第一章:供養瀬へ

二日後の夕方六時。私は一人で供養瀬トンネルへ向かっていた。

編集部には「人気車中泊スポットのレビュー取材」とだけ伝えている。本当は、あの話が気になって仕方なかった。

トンネルの入口には古びた看板があった。

『供養瀬隧道 全長2.8km 昭和42年竣工』

その下に、誰かが赤いスプレーで落書きしている。

『ここから先は あの世』

トンネルに入った瞬間、ラジオがブツリと途切れた。照明は薄暗く、天井から水滴が落ちてくる。対向車は一台も来ない。

やけに長く感じた。途中、何度も「まだ出口が見えない」と不安になる。

ようやく光が見えた時、なぜか息が詰まっていたことに気づいた。

道の駅・供養瀬は、想像より小さかった。コンビニと自販機、トイレ棟。そして広い駐車場。すでに数台の車が停まっている。

午後七時。まだ明るさが残る中、私はトイレに行った。

個室に入ると、壁に落書きがあった。

『夜中に窓を開けるな』

『後ろの席を見るな』

『朝まで寝たふりをしろ』

『何を言われても返事をするな』

悪ふざけだろうと思いながら、用を済ませて外に出る。

手を洗っていると、鏡に映る自分の背後――トイレの入口に、人の気配がした。

振り返る。

誰もいない。

でも、確かに誰かが立っていた。一瞬だけ。

急いで車に戻った。




第二章:夜の準備

午後九時。簡単な食事を済ませ、車内を整えた。

カーテンをすべて閉め、ドアをロック。念のため、後部座席の荷物も確認する。寝袋、非常食、モバイルバッテリー、予備の服。

全部、自分が積んだものだ。数も、位置も、間違いない。

シートを倒し、寝袋に入る。スマホでSNSをチェックしていると、通知が来た。

桐山さんからのLINEだった。

『もう着いたか? 今夜は満月やから、気ぃつけや。満月の夜は、向こうも活発になるらしいで』

満月――

私は窓の外を見た。確かに、大きな月が山の端にかかっている。

『大丈夫です。何かあったら連絡します』

返信を送り、スマホを枕元に置いた。

午前零時を回った頃、ようやく眠気が来た。

でも、なかなか寝付けない。

車の外から、時々、足音が聞こえる。他の車中泊客だろう。トイレに行く音、自販機でドリンクを買う音。

やがて、それも途絶えた。

静寂。

私は目を閉じた。

でも、耳はずっと、外の音を拾い続けていた。



第三章:深夜の訪問者

コン、コン。

ノック音で目が覚めた。

スマホを見る。午前二時十二分。

コン、コン、コン。

運転席の窓を叩く音だった。

誰かがいる。

でも、カーテンは閉めている。外は見えない。

「すみません」

女性の声だった。若い、二十代くらいの声。

私は返事をしなかった。桐山さんの忠告が頭をよぎる。

「すみません、聞こえてますか?」

コン、コン、コン。

さらに強く窓を叩く。

「お一人ですよね? 私も一人なんです。怖くて眠れなくて……少しお話ししたいんですけど」

声は、懇願するようだった。

でも、何かがおかしい。

声は確かに外から聞こえる。なのに、妙に近い。まるで、ガラス一枚の向こうではなく、もっと近くにいるような。

私は息を殺した。

「……ねえ、無視しないでください」

声の調子が、少しだけ変わった。

そして、窓ガラスに何かが触れる音。

ギ、ギギ……

爪を立てて、ゆっくりと下に這わせる音。

窓ガラスに、五本の指が。

でも、私には見えない。カーテンの向こう側だから。

ギ、ギギ……

音は、窓の上から下へ、ゆっくりと移動していく。

「開けて」

女性の声。

「お願い、開けて」

ギ、ギギ……

「私、ずっと待ってたの」

ギ、ギギ……

音が止んだ。

静寂。

足音が、車の周囲を回る。

運転席の窓から、助手席の窓へ。

ゆっくりと。一歩一歩。

助手席の窓を、コン、コン、と叩く。

そして、後部座席へ。

足音が、そこで止まった。

コン、コン、コン。

後部座席の窓を叩く音。

「ねえ、開けてくれないなら……」

女性の声が、後ろから聞こえる。

「私が、開けるね」

ギシッ。

車体が沈む音がした。

誰かが、車に乗り込もうとしている。

いや、違う。

もう、乗り込んでいる。

後部座席のシートが軋む音。

誰かが、座った。

カチャリ。

シートベルトを締める音。

私は硬直した。

ドアは、開いていない。

でも、誰かが後ろにいる。

「ごめんなさいね。勝手に乗っちゃった」

女性の声が、私の真後ろで囁いた。

「でも、もう我慢できなかったの」

シートがまた軋む。

彼女が、身を乗り出している。

息が、私の首筋にかかる。

冷たい息。

「ねえ、振り向いて」

私は動けなかった。

「お願い、振り向いて。顔が見たいの」

背もたれ越しに、何かが触れる。

指先が、私の髪に触れる。

ゆっくりと、髪を撫でる。

「綺麗な髪ね」

指が、首筋を這う。

「冷たい」

私の耳元で、何かを呟き始めた。

聞き取れない言葉。

呪文のような、祈りのような。

「――タスケテ、タスケテ、タスケテ――」

違う。

それは、助けを求める声だった。

「――サムイ、サムイ、サムイ、サムイ――」

繰り返される言葉。

「――カエリタイ、カエリタイ、カエリタイ――」

私は歯を食いしばった。

答えてはいけない。反応してはいけない。

呟きは続く。

延々と。

そして――

スースー、スースー。

規則正しい寝息が聞こえ始めた。

彼女は、眠った。

いや、眠ったふりをしているのか。

私にはわからない。

時計を見る。午前二時四十五分。

朝まで、あと三時間以上。

寝息は続く。

でも、時々止まる。

まるで、私が寝ているか確認しているかのように。

午前三時二十分。

後部座席から、何かを探る音がした。

ガサ、ガサ。

荷物を漁っているのだろうか。

私の荷物を。

ファスナーを開ける音。

ガサガサと、何かを取り出す音。

そして――

「これ、いい匂い」

女性の声。

彼女は、私の服を嗅いでいる。

「これ、もらっていい?」

私は答えない。

「……返事がないってことは、いいってことよね」

ガサガサ。

彼女は、私の荷物から何かを取り出している。

そして、自分の何かを、代わりに入れている音がする。

交換しているのだ。

私のものと、彼女のものを。

「ありがとう。じゃあ、私のもあげるね」

ガサ、ガサ。

「大事にしてね」

また、寝息が聞こえ始めた。

午前四時。

私はふと、気づいた。

後部座席から聞こえる寝息。

それは、一つではない。

スースー、スースー。

ヒュー、ヒュー。

二つの、異なる寝息。

後ろには――

二人、いる。

第四章:夜明け

午前五時三十分。

空が白み始めた。

私はまだ、一度も振り返っていなかった。

後部座席からの寝息は、まだ続いている。

二人分の。

でも、いつの間にか、私に触れていた手の感触は消えていた。

午前六時。

完全に明るくなった。

駐車場には、朝の光が差し込んでいる。

私は恐る恐る、バックミラーを見た。

後部座席には、誰もいない。

寝袋も、荷物も――

いや。

荷物が、違う。

私のバックパックが開いている。

中から、見慣れないものが覗いている。

色褪せた、小さな巾着袋。

ゆっくりと手を伸ばし、それを取り出す。

中には、古い櫛が入っていた。

歯が何本か欠けた、プラスチックの櫛。

そして、褪せた写真。

若い女性が写っている。白いワンピースを着て、笑っている。

写真の裏には、手書きで日付が書かれていた。

『昭和63年8月15日 供養瀬にて』

三十年以上前だ。

私は震える手で、自分の荷物を確認した。

予備で持ってきていたTシャツが、一枚なくなっている。

代わりに、この巾着袋。

交換された。

助手席を見る。

シートベルトが、締められている。

誰も座っていないのに、シートベルトだけが、ピンと張っている。

そして、ヘッドレストに、長い黒髪が数本、絡みついていた。

バックミラーを見る。

後部座席の窓に、うっすらと手形がついている。

内側から。

五本指の、小さな手形。

いや、手形は一つではない。

二つ、三つ、四つ――

数えられないほど、びっしりと。

全部、内側から。

私は急いで車を発進させた。

バックミラーは見ない。後部座席も見ない。

ただ、前だけを見て、アクセルを踏む。

供養瀬トンネルをくぐる。

長い、長いトンネル。

ラジオは、また雑音しか流れない。

ようやく出口が見えた。

トンネルを抜けた瞬間、ふと、車内に甘い匂いが漂った。

安物の香水のような、でも、どこか腐ったような匂い。

バックミラーに、一瞬、白いものが映った気がした。

私は見なかった。

見てはいけない。



エピローグ

三日後。自宅に戻ってから、私はあの巾着袋を捨てようとした。

でも、できなかった。

捨てても、翌朝には玄関の前に置かれている。

郵便受けに入っている。

ベッドの枕元に戻っている。

四日目の夜。

私は巾着袋を開け、中の写真をもう一度見た。

写真の女性は、笑っている。

でも、よく見ると、その笑顔は少しだけ歪んでいる。

まるで、泣いているような。

写真の端に、もう一人、人影が写っていた。

ぼんやりとした、白い影。

昨日は、気づかなかった。

いや、昨日は写っていなかった。

影は、少しずつ、はっきりしてきている。

一週間後。

私の車の後部座席に、また新しいものが増えていた。

使い古した手鏡。

色褪せたハンカチ。

誰かの生活の痕跡。

私の車は、もう私だけのものではない。

誰かが、間借りしている。

見えないけれど、確かにそこにいる誰かが。

今夜も、私は車で眠る。

仕事で遠出した帰り道、疲れて道の駅で仮眠を取る。

いつものことだ。

でも、今は違う。

車内に入ると、後部座席から、かすかに人の気配がする。

バックミラーには、何も映らない。

でも、時々、シートが軋む。

誰かが、座っている。

私は、もう振り向かない。

振り向いてはいけない。

なぜなら――

助手席のシートベルトが、また締められているから。

ヘッドレストに、また髪の毛が絡みついているから。

後部座席の窓に、また手形がついているから。

全部、内側から。

私は知っている。

あの夜から、私の車には、いつも誰かが乗っている。

二人の、見えない乗客が。

彼女たちは、もう離れない。

供養瀬から、ずっと一緒だ。

そして今夜も、私が眠りにつくと、耳元で囁きが始まる。

「――タスケテ、タスケテ、タスケテ――」

「――サムイ、サムイ、サムイ――」

「――カエリタイ、カエリタイ――」

二つの声が、重なり合う。

私は、目を閉じたまま、朝を待つ。

それしか、できない。

(完)

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