黒ノ聖夜 BLACK SANCTION02
編集部の奥、社会班デスクの相馬という男が短く声を発し、空になった紙コップをくしゃりと握りつぶした。
「没」
「えっ?」
相馬の声に、モニターの前に立っていた良子はその場で固まり、胸元でぶら下げた社員証だけが小さく揺れた。
相馬はモニターから視線を動かさないまま、メガネの中心を指でクイッと押し上げて続けた。
「なんなの、野良猫特集って? いや、安易に猫を出せばPV稼げるのはわかるんだけど、それで何を訴えたいの?」
まったく顔を上げない相馬だったが、なぜか良子は身振りを交えながら説明をしていた。
「いや、その……捨て猫が野良猫になっちゃうの、良くないですから。『捨て猫はダメ』っていう注意喚起をですね」
「こんな記事だと『野良猫可愛い』だけで終わっちゃうでしょうが」
何か言わねばと胸の前で手を握り締めたが、それより早く、相馬が彼女の顔も見ずに話しだした。
「だから園辺君は、こっち。四年ほど前に賞賛された『パンデミックを完封した街』の『今』を見てきて」
「んえ!?」
突然の話に、思わず声が裏返る。
「最近インフルも流行ってるでしょ? あの街だったら、何かまた特別なことしてるかもしれないし、何もなかったら過去の話でも掘り下げて、今使えるように――『美談』でも『疑惑』でもいいから、面白おかしく仕上げてちょうだい」
驚きのあまり、良子の頭の中から猫の話はすっかり抜け落ちてしまった。
相馬の机に両手を置き、前のめりになって良子は声を荒げる。
「それ、いつからですか!?」
「明日からよ。あぁ、ホテルは一番安い所探してね。なければネカフェでよろしく」
◆◆◆◆◆
「はぁ……ネカフェかぁ」
良子は重たい足取りで自席に戻ると、ドカッと椅子に座り込んだ。
文句を言っていても始まらない。良子は気持ちを切り替えるように頬をパンと叩くと、マウスを握って『パンデミックを完封した街』――X県にあるXX市について検索を始めた。
モニターに表示されたのは、清潔で整備された地方都市の風景と、笑顔を浮かべる市長の写真。そして、『奇跡の街』と称賛される記事の数々だった。
「パンデミック時の死者ゼロ、感染拡大も最小限……かぁ」
記事によれば、市長の迅速なロックダウンと徹底した衛生管理、そして市民の協力が奇跡を生んだとある。美談だらけで逆に怪しい気もするが、今のところ黒い噂は見当たらない。
「ま、行ってみれば何か分かるかな」
良子は背もたれを軋ませながら大きく伸びをする。
「しかし……もうすぐクリスマスだっていうのに出張だとは……」
肩を落としながら保温ケースに入ったペットボトルを取り出した。中身はカフェオレだ。昼前に買った物だがまだ温もりを保っていた。
そういえばカフェオレは昨日も飲んだ気がするけど、どこで買ったっけな。ペットボトルを口に付けながら、良子はふと昨日の記憶を探った。
ところどころ曖昧な部分があるが、公園の自販機で買った気がする。その時に――誰かに会ったような。
どうしても輪郭の掴めない、黒い影のような記憶が喉元まで上がってきては、するりと消えていく。
「うーん」
良子は腕を組み、眉を寄せて身体を傾かせる。
商店街でクリスマスの歌を散々聞いた気もする。
良子はブラウザを立ち上げて、検索窓に『クリスマス』と打ち込み手を止めた。なんか違う気がする。
その時、背後の席から子持ちの同僚たちの会話が聞こえてきた。
「――今年はついにサンタが俺ってバレちゃってさ――」
ふむ。……サンタクロース。良子は検索窓をクリアし、『サンタクロース』と打ち込んでみるも、どうにもしっくりこなかった。
「――ブラックフライデーで買い過ぎちゃったよ――」
別の同僚の声が聞こえる。
ブラック……サンタクロース。良子はそのまま検索窓に『ブラックサンタ』という言葉を打ち込み、エンターを押した。
ヒットしたのは、『クネヒト・ループレヒト』というドイツの伝承だった。
『赤いサンタクロースに同行する、黒い従者』『悪い子どもを袋詰めにして連れ去る』『石炭やジャガイモの皮を送りつける』
画面に並ぶ不穏な文字列に、良子は思わず眉をひそめた。
「袋詰めにして連れ去るって……怖すぎでしょ」
自分がなぜこれを調べたのかもよくわかっていなかったが、黒いサンタクロースが悪く書かれているような気がして、なんだか胸のあたりがざわつき、すぐにブラウザを閉じた。
「……こんなことしてる場合じゃない、仕事しなきゃ」
良子は頭を軽く振ると、格安の夜行バスの予約サイトを開いた。
「よし、まずは移動手段の確保! ……あ、残り一席だ。ラッキー!」
運良く最後の一席を確保できたことに、良子は小さくガッツポーズをする。それが、トイレのすぐ横でリクライニングも倒せない、もっとも過酷な席だとは知る由もなかった。
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