訪問者と腐臭
perchin
訪問者と腐臭
インターホンが鳴る。一度だけではない。短く、焦ったように三度、四度。
早苗は眉をひそめ、ドアスコープを覗き込んだ。
「……百合子?」
チェーンをかけたまま、ドアを少しだけ開ける。
「久しぶり、早苗。……開けて」
百合子だった。高校時代からの友人。最後に会ったのは一年以上前だろうか。肩で息をしている。
「どうかしたの?」
「う、ううん。近くまで来たから、久しぶりに会いたくなって」
早苗は一瞬ためらったが、チェーンを外し、ドアを開けた。
「どうぞ。それにしても急ね。言ってくれれば色々用意したのに」
「ごめん。……お邪魔します」
百合子は大きなボストンバッグを両手で抱えるようにして、玄関に入り込んだ。靴を脱ぐ動作がどこかぎこちない。
リビングに通されると、百合子はソファの隅に腰を下ろした。ボストンバッグは膝の上に乗せたままだ。
「荷物、置いたら?」
「いいの。……落ち着くから」
「そう。コーヒーでいいかしら」
「ええ。ありがとう」
ウゥゥゥゥゥ……。
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。一台や二台ではない。けたたましい音が、静かな住宅街に不協和音をもたらしている。
百合子の肩がビクリと跳ねた。
「騒がしいわね」
カップを盆に載せた早苗が戻ってくる。
「……そうね。近くで何かあったのかしら」
「さあ。この辺りは静かな住宅街だから、珍しいわ」
早苗は百合子の向かいに座り、コーヒーに口をつけた。
百合子は水を一気に飲み干すと、ふぅ、と息を吐いた。視線は落ち着きなく部屋の中を彷徨っている。
「ご主人は?」
百合子が唐突に尋ねた。
「旅行よ」
早苗は表情を変えずに答える。
「旅行?」
「ええ。しばらく帰ってこないわ。一人旅がしたいんですって」
「へえ……。仲が良かったのにね」
「仲はいいわよ。あの人、とっても優しいもの」
早苗はテーブルの上の芳香剤の位置を直した。ラベンダーの香りが強く漂っている。
「昔はよく喧嘩もしたけど、最近はすごく静かなの。文句一つ言わないし、私の好きなようにさせてくれるの」
「……いい旦那さんね」
「ええ。本当に、仏様みたいな人よ」
早苗は微笑んだ。その笑顔は、どこか能面のようだった。
ウゥゥゥゥゥ……。
サイレンの音が近づいてくる。百合子がボストンバッグを抱きしめる手に力がこもる。指の関節が白くなっていた。
つけっぱなしのテレビはニュースを伝えていた。
『――次のニュースです。先ほど、アパートで強盗致傷事件が発生しました』
アナウンサーの声が無機質に響く。『部屋に押し入り、住人の女性をナイフで切りつけ、現金を奪って逃走。犯人は現在も逃走中であり……』
「怖いわね」
早苗が画面を見つめたまま呟いた。
「……そ、そうね」
百合子の声が裏返る。
「ここから近いじゃない。百合子、来る時、何か見なかった?」
「えっ? み、見ないわよ。何も。私はただ、早苗に会いたかっただけで」
「そう。ならいいけど」
早苗は興味なさそうにチャンネルを変えた。
『――続いてのニュースです。北関東で発生した保険金殺人事件で、警察は……』
『夫に多額の保険金をかけ、毒物を混入させた疑いで……』
「怖いわね」
今度は、百合子が言った。
「そう?」
「だって、保険金目当てでしょ?」
「お金のために殺すなんて……ひどい話よね」
早苗はカップの縁を指でなぞった。
「世の中には色々な夫婦の形があるわ。外からは分からない事情もね」
早苗の言葉に、百合子は口を閉ざした。
沈黙が落ちる。
部屋の中には、空調の音と、強すぎるラベンダーの香りだけが満ちていた。
百合子は鼻をひくつかせた。
「ねえ、早苗……。なんか、臭くない?」
「そう? 芳香剤、新しくしたばかりなんだけど」
生ゴミを放置した時のような、あるいはもっと重い、鼻の奥に粘りつくような腐敗臭がする。
早苗はゆっくりと首を傾げた。
「換気が悪いのかしら。主人がいないと、家の空気が淀むのよね」
パトカーはいなくなり、外は静かになっていた。
百合子が立ち上がった。
「私、もう行くわ」
「あら、もう? ゆっくりしていけばいいのに。主人はいないし」
「ううん、急ぐから。……ありがとう」
百合子はボストンバッグを肩に担ぎ直した。
「……百合子」
早苗がその滴を見て、静かに言った。
「バッグ、何か漏れてるわよ」
「えっ」
百合子は慌ててバッグを体で隠した。
「こ、これは……赤ワイン! さっき買ってきたのが割れちゃって……」
「そう。赤ワインなのね」
「……ええ。お邪魔しました」
百合子は逃げるように玄関へ向かった。
ドアを開けると、外の冷たい空気が流れ込んでくる。
それと入れ替わりに、家の中の空気が揺れ、ラベンダーの香りでも隠しきれない強烈な腐臭が、百合子の鼻を突いた。
百合子は振り返らなかった。
早苗も、見送らなかった。
バタン。
ドアが閉まる。
「……静かね」
早苗は隣の寝室に向かって、優しく微笑みかけた。
訪問者と腐臭 perchin @perchin
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