隙間と視線
むめい
隙間と視線
念願のデザイナーズマンションは、壁一面が大きなガラス窓になっていた。
三階の角部屋。リビングのソファに座ると、閑静な住宅街のパノラマが広がる。それが気に入って契約した。家賃は予算オーバーだったが、広告代理店での激務をこなす自分へのご褒美だと割り切った。
最初の違和感は、引っ越して一ヶ月が過ぎた頃だった。
私の部屋の窓から、幅の狭い道路を挟んで向かい側に、古いけれど手入れの行き届いた一軒家がある。そこに住む初老の女性――安達さんというらしい――の視線が、気になり始めたのだ。
私が朝、コーヒーを飲みながら窓の外を眺めていると、必ずと言っていいほど安達さんが庭にいた。彼女は熱心にバラの剪定をしているのだが、ハサミを動かす手が止まっている時、その目は決まって私の部屋の方を向いていた。
目が合うと、彼女は上品に微笑んで会釈をする。私も慌てて会釈を返す。
それだけなら、愛想の良いご近所さんで済んだだろう。
ある休日。私がベランダで洗濯物を干していると、下から声をかけられた。
「あら、精が出ますわね、里中さん」
安達さんだった。彼女は庭の柵越しに、にこやかに見上げていた。
「今日は良いお天気で。……そういえば、昨日着てらした青いワンピース、とても素敵でしたわね。お似合いでしたよ」
背筋が冷っとした。
昨日、私がそのワンピースを着ていたのは、夜、帰宅してから風呂に入るまでのわずか一時間ほどだ。もちろん、カーテンは閉めていたはずだ。いや、少し隙間が開いていたかもしれないが、それにしても、わざわざ見ていたのだろうか。
「あ、ありがとうございます……」
「お若い方は何を着ても様になって羨ましいわ。私なんて、もう何を着てもしっくりこなくて」
彼女はそう言って、自身の地味なグレーのカーディガンを少し残念そうに撫でた。
それからというもの、視線はより露骨になった。
私が帰宅してリビングの明かりをつけると、向かいの家の二階のカーテンが、さっと揺れる。夜中にふと目を覚まして窓を見ると、暗闇の中で、安達さんがじっとこちらの部屋を見上げているシルエットが浮かび上がっていることもあった。
警察に相談しようかとも思ったが、実害がない。「見られている気がする」だけでは動いてくれないだろう。私は厚手の遮光カーテンを買い、昼間でも窓を閉め切るようになった。自慢の眺望は失われたが、精神の安定には代えられない。
しかし、恐怖は「視線」から「形」へと変化していった。
季節が秋に変わる頃、私は奮発して流行りの赤いトレンチコートを買った。
その翌週。ゴミ出しのために朝早く外に出ると、向かいの家から安達さんが出てきた。
私は息を飲んだ。
安達さんは、真っ赤なトレンチコートを着ていた。色も、形も、私が買ったものと全く同じだった。
初老の彼女にはあまりに不釣り合いな、鮮烈な赤。
「おはようございます、里中さん」
彼女は何食わぬ顔で挨拶をしてきた。
「……奇遇ですね。お揃いですわ」
彼女の唇の端が、にちゃりと歪んだように見えた。私は逃げるようにその場を離れた。
偶然だ。そう言い聞かせた。流行りのアイテムだし、被ることもある。
けれど、偶然は続いた。
私が美容院で髪をショートボブに切った三日後、安達さんの髪が同じ長さのボブになっていた。
私がいつも使っている特定ブランドの、少し変わった形のトートバッグ。ある日、安達さんがスーパーの袋と一緒に、全く同じバッグを提げているのを見た。
彼女は私を見ているだけでは飽き足らず、私を「模倣」し始めていた。
気持ち悪い。薄気味悪い。
向かいの家に、質の悪い鏡が置かれているような感覚だった。私の輪郭が、少しずつ彼女に盗まれていく。
決定的な出来事は、昨夜起きた。
残業で深夜二時過ぎに帰宅した私は、心身ともに疲れ果てていた。シャワーを浴びる気力もなく、リビングのソファに倒れ込んだ。
ふと、閉め切ったカーテンの隙間から、向かいの家の明かりが漏れているのが見えた。
魔が差したのだと思う。見てはいけないと分かっていながら、私はカーテンの隙間から、向かいの家を覗き込んだ。
安達さんの家の二階。窓のカーテンが開け放たれている。
部屋の中が見えた。
安達さんがいた。
彼女は、部屋の真ん中に立っていた。
赤いトレンチコートを着て。ショートボブの髪を振り乱して。
彼女は、踊っていた。
音楽は聞こえない。けれど、その奇妙な動きに見覚えがあった。
腕を上げ、腰をひねり、頭を振る。
それは、私がストレスが溜まった時に、誰にも見られていないリビングで一人、イヤホンで大音量の音楽を聴きながらデタラメに踊る、その動きそのものだった。
――いつ見ていた?
――どこから見ていた?
思考が停止する中、踊り狂っていた安達さんの動きが、ピタリと止まった。
彼女が、ゆっくりと首を回し、窓の方を向く。
距離があるはずなのに、バチリと目が合った気がした。
彼女の顔は、満面の笑みだった。今までで一番、幸せそうな笑顔。
彼女の口が動いた。ガラス越しで声は聞こえないが、その唇の動きは、はっきりとこう形作っていた。
『わ・た・し・の・ほ・う・が・じ・ょ・う・ず・で・し・ょ?』
私は悲鳴を上げてカーテンを閉め、寝室に逃げ込んで布団を被った。朝まで震えが止まらなかった。
翌朝、私は会社を休み、不動産屋に駆け込んで引っ越しの手続きをした。違約金も、新しい敷金礼金もどうでもよかった。一秒でも早くここから離れたかった。
引っ越しの当日。
荷物を運び出し、最後にもう一度だけ、空っぽになった部屋を見渡した。
あの大きな窓ガラス。今は何も映していない。
ふと、ガラスに映った自分の顔を見た。
連日の睡眠不足とストレスで、目の下にはクマができ、頬はこけ、肌はひどく荒れていた。口角が下がり、疲れ切ったその表情。
その顔は。
あの日、庭先で「若い人は羨ましい」と呟いていた、あの時の安達さんの顔に、ひどく似ていた。
私は逃げるように部屋を出て、鍵をかけた。
背後で、向かいの家のカーテンが開く音がした気がしたが、絶対に振り返らなかった。
隙間と視線 むめい @Mumei7
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