午前二時の水槽

むめい

午前二時の水槽


【2:13 AM】

 白い蛍光灯が、長方形の空間を無機質に切り取っている。

 店内に客はいない。

 ガラス張りの入り口の向こう、アスファルトを叩く雨脚だけが、無声映画のように激しく動いている。

 自動ドアが開いた。

 男が入ってくる。三十代半ば。くたびれたグレーのスーツ。濡れた折りたたみ傘をビニール袋に突っ込み、乱暴に傘立てへ放る。

 彼は三番の洗濯機の前に立ち、慣れた手つきでワイシャツと肌着を放り込んだ。硬貨を投入する音が、静寂に硬く響く。

 その直後、再びドアが開く。

 女が入ってくる。二十代後半。大きめのパーカーにジャージ姿。コンビニの袋を片手に提げている。

 彼女は男の存在など見えていないかのように、七番の洗濯機――男から二つ離れた場所――へ直行する。シーツを押し込み、パネルを操作する。

 グォン、グォン、と重たいモーター音が二つ、数秒のズレで重なり始めた。


【2:25 AM】

 ベンチの右端に男。

 ベンチの左端に女。

 男はスマートフォンを弄っている。青白い光が顔の下半分を照らす。親指が一定のリズムで画面をスクロールし続ける。表情はない。時折、ネクタイの結び目を緩める仕草をするが、視線は画面から離れない。

 女は文庫本を開いている。足元のコンビニ袋から缶コーヒー(無糖)を取り出し、プルタブを開ける。プシュ、という音が店内に響くが、男は反応しない。

 女は時折、あくびを噛み殺し、ページをめくる。その指先には絆創膏が巻かれている。

 二人の間には、誰も座っていない二人分のスペースがある。

 そこには乾燥しきった空気だけが澱んでいる。


 三番の洗濯機が水流を変える音。


 七番の洗濯機が脱水を始める音。


 外を走る深夜トラックの走行音。


 二人は同じ空間にいながら、それぞれ別の透明なカプセルに閉じ込められているように、互いを認識しない。


【2:48 AM】

 三番の洗濯機が電子音で終了を告げた。

 男が立ち上がる。

 濡れた洗濯物をバスケットに移し、奥の乾燥機エリアへと移動する。その背中が、一瞬だけ女の視界を横切るが、女はページから目を離さない。

 男が百円玉を投入し、乾燥機を回し始めたタイミングで、女のスマートフォンが振動した。

 短い通知音。

 女は本を閉じ、画面を確認する。微かに眉をひそめ、すぐに画面を伏せた。

 男は再びベンチに戻ってくる。

 今度は缶コーヒー(微糖)を自販機で買い、プルタブを開ける。


プシュ。


 女と同じ音がしたが、二人のリズムがシンクロすることはなかった。


【3:15 AM】

 雨が小降りになっている。

 男の乾燥機が止まる。

 彼は温まったシャツを取り出し、丁寧に畳むことなくバッグに詰め込む。

 最後に一度だけ、入り口のガラスに映った自分の顔を見て、前髪を直した。

 そして、出て行く。

 「お先に」の一言もなく、視線を合わせることもなく。

 自動ドアが閉まると、店内には再び女一人が残された。

 七番の洗濯機が、まだ低い唸りを上げて回っている。

 女はふと顔を上げ、男が座っていた右端の席を見る。

 そこには飲み空の缶コーヒーが一つ、置き去りにされていた。

 女は無表情のまま視線を戻し、読みかけの本を閉じた。

 ガラスの向こう、男の背中が夜の闇に溶けて消えていくのが、ぼんやりと見えた。

 ただ、それだけのことだ。

 洗濯槽は回り続け、夜は更けていく。

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午前二時の水槽 むめい @Mumei7

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