群青の静止画(フリーズ・フレーム)
不思議乃九
群青の静止画(フリーズ・フレーム)
第一部:静止する死
1
金沢の冬は、音が死ぬ季節だ。
特に、湿り気を帯びた雪が深々と降り積もる夜明け前は、世界から色彩さえも奪い去っていく。
午前六時、兼六園。
日本三名園の一つとして名高いこの場所も、開園直後のこの時間は、静謐という名の暴力に支配されていた。
第一発見者の清掃員が上げた短い悲鳴は、吸音材のような雪に瞬時に飲み込まれ、誰の耳にも届くことはなかった。
「……まるで、最初からそこに置かれていた石像だな」
現場に到着した刑事・**設楽(したら)**は、短くなったセブンスターを携帯灰皿に押し込み、ふう、と白い息を吐いた。
五十を過ぎた彼の顔には、北陸の厳しい冬が刻んだような深い皺がある。
彼の視線の先には、一人の男がいた。
年齢は三十代半ば。
高級そうなダウンジャケットを着たその男は、日本最古の噴水のほど近くで、中腰の姿勢のまま固まっている。
まるで、目に見えない椅子に腰掛けているかのような不自然なポーズ。
首はわずかに右に傾き、その視線は虚空のどこか一点――おそらくは、存在しない「何か」――を見つめていた。
「設楽さん、鑑識の結果が出る前ですが、これだけは断言できます」
背後から、凍てつく空気よりも鋭い声が響いた。
相棒の**飛鳥(あすか)**だ。
二十代半ばの彼女は、寒空の下でも背筋をピンと伸ばし、タブレット端末を指先で弾いている。
元警視庁サイバー犯罪対策課のエリート。
論理(ロジック)を唯一の宗教とする彼女は、この地方都市への左遷を「データの蓄積期間」と呼んで憚らない。
「何だ、飛鳥。お前の言う『断言』は、いつも俺の胃を痛くさせる」
「被害者の周囲、半径五メートル。
新雪に足跡は一つもありません。
被害者自身のものさえも、です」
設楽は目を細め、被害者の足元を凝視した。
昨夜二十二時から降り続いた雪は、今朝の四時頃に止んでいる。
地面には十センチほどの、汚れ一つない処女雪が積もっていた。
被害者の靴の周りを見ても、雪が踏み固められた形跡も、彼がここまで歩いてきた軌跡もない。
「空から降ってきたとでも言うのか?
それとも、この男は昨日からここに立っていて、雪が積もるのをじっと待って、このポーズのまま絶命したと?」
「その確率は物理的に無視できるレベルです。
……ですが、事実は一つ。
これは『完璧な不可能犯罪』です、設楽さん」
飛鳥の瞳が、冷徹な知的興奮でわずかに輝いた。
設楽はそれを見て、これから始まる長く、寒い捜査を予感して身震いした。
2
翌日、第二の事件が起きた。
場所は「ひがし茶屋町」。
歴史的な紅殻格子の家並みが続く、入り組んだ路地の最奥だ。
被害者は二十代の女性。
彼女もまた、兼六園の男と全く同じ「椅子に座るポーズ」で、雪の中に静止していた。
「場所の選定が厭らしいな」
設楽は、古い町家の軒下で周囲を見回した。
「ここは袋小路の突き当たりだ。
深夜、酔っ払いが紛れ込むこともまずない。
監視カメラの死角。
……犯人は、金沢という街の『空白』を熟知している」
そして三日目。
二十一世紀美術館。
円形の建物を囲む芝生広場の一角。
「芝生養生中・立入禁止」の立て札のすぐ横で、三人目の被害者である初老の紳士が発見された。
彼は、まるで極上のソファーに腰掛けているかのような穏やかな微笑を浮かべたまま、心臓を止めていた。
「共通点は三つ」
飛鳥が県警の会議室でホワイトボードを叩く。
「一、死因は全員が急性心不全。
外傷も毒物反応もなし。
二、全員が最新のVRデバイス『エリュシオン』の予約購入者、あるいはテスターであったこと。
三、そして全員が、降雪開始前に現場にいたはずなのに、周囲に一切の足跡を残していないこと」
第二部:泥のロジック
1
金沢市警の地下にある「Hitomi」の屋台。
設楽は、亡き妻の名を冠したその暖簾をくぐり、いつもの端の席に腰を下ろした。
店主は何も言わず、湯気を立てる醤油ラーメンを差し出す。
設楽は割り箸を割り、スープを一口啜った。
鶏ガラの出汁と醤油の香りが、凍てついた思考の末端をじわりと解きほぐしていく。
(……足跡がない。ポーズが同じ。雪が積もる前に死んでいたはずなのに、雪の下にも痕跡がない……)
「設楽さん、ここにいたんですか」
飛鳥が、不機嫌そうな足音を立てて隣に座った。
彼女はパイプ椅子に浅く腰掛け、タブレットをカウンターに置く。
「鑑識から追加レポートです。
三人目の被害者、美術館で見つかった初老の紳士の衣服……微量ですが、『アロマオイル』の成分が検出されました」
「アロマだと?」
「ええ。
成分は『プルメリア』と『サンダルウッド』。
南国の高級スパで使われるような、甘く重い香りです。
……おかしな話だと思いませんか?
氷点下の金沢、吹き曝しの芝生の上で、被害者は南国の花の香りを纏っていた」
設楽はメンマを噛み締め、目を細めた。
「一ノ瀬美月は、被害者に『暖かい部屋』を見せていた……。
鼻の先まで騙していたってことか」
「その通りです。
彼女のVRデバイス『エリュシオン』は、視覚と聴覚だけでなく、嗅覚や深部感覚にまで干渉する。
……設楽さん、私は一ノ瀬の過去の論文を漁りました。
彼女はかつて、『VRによる身体拘束の可能性』について言及しています。
視覚情報で脳を騙し、筋肉の緊張を制御する……」
設楽は箸を止めた。
「……飛鳥、お前の言う通りだ。
奴らは『縛られていた』んだよ。
縄や錠前じゃない。
自分自身の『脳』にな」
2
翌朝、捜査本部。
設楽はホワイトボードの前に立ち、手書きの時系列を叩きつけるように書き込んだ。
「いいか。
犯行は、発見の十時間以上前から始まっている。
一ノ瀬は被害者を、前日の午後四時に呼び出した。
まだ雪が降る前、地面が乾いていた時間帯だ」
「前日の夕方……。
でも、そんな時間からあんな目立つ場所で、中腰で立っていたら誰かに通報されますよ」
「そこがVRのトリックだ。
一ノ瀬は被害者に、こう告げた。
『今からあなたは光学迷彩で透明になります。
周囲からは絶対に見えません。
実験を継続するために、そのまま動かないでください』」
飛鳥が目を見開く。
「……透明化の暗示。
自分が他人から見えないと思い込めば、人は衆人環視の中でも『隠れているつもり』になれる。
心理的な透明人間ですね」
「それだけじゃない。
一ノ瀬はVR空間内に、一つの『透明な壁』を出現させた。
被害者の脳に『そこに硬いガラスの壁がある』という感覚を送り込み、寄りかからせたんだ。
現実には何もない空中だが、脳が支えを感知すれば、筋肉は最小限の出力でその姿勢を維持できる。
……これが、あの奇妙な『中腰のポーズ』の正体だ。
アイソメトリック運動の極限状態だが、VRの快楽信号で疲労感は麻痺させられていた」
「場所の選定も、これで説明がつきます」
飛鳥が立ち上がる。
「兼六園は閉園直後の無人、茶屋町は袋小路の最奥、美術館は『芝生養生中』の偽装看板。
彼女は監視カメラの死角と、警備員の巡回時刻を完璧に把握し、被害者を『生きた彫像』として配置した」
「そして二十二時、雪が降り始める。
……ここからが一ノ瀬の真骨頂だ」
設楽は証拠袋に入った、ひしゃげた物体を机に置いた。
「これは何だ、飛鳥」
「……カエル、ですか?
干からびた……」
「兼六園の池のほとり、融雪剤の影響で季節外れに目を覚まし、凍死した一匹のカエルだ。
……一ノ瀬はドローンを飛ばし、被害者の周囲半径三メートルに融雪剤を空中散布した。
目的は、『雪が積もる前にあった、自分と被害者の足跡を一度完全に溶かして消すこと』だ」
飛鳥が息を呑む音が聞こえた。
「被害者が歩いてきた足跡、自分が機材を置いた跡……。
それらを一度融雪剤で泥水に変え、地面を露出させる。
その直後、本物の雪が降り積もればどうなる?
地面の上には真っさらな新雪だけが残り、その下に隠されていたはずの『古い足跡』は、融雪剤で物理的に破壊されている。
……朝になれば、最初からそこに誰もいなかったような『処女雪の密室』が完成するわけだ」
「完璧……。
完璧なロジックです。
物理とデジタル、気象予報のすべてを組み合わせた、隙のない演算」
「ああ。
だがな、飛鳥。
演算はどこまで行っても演算だ」
設楽は窓の外、解けかけた雪に目を向けた。
「一ノ瀬は、被害者に『暖かい部屋』の夢を見せ続け、その幸せの絶頂で心停止の信号を送った。
死ぬ瞬間の脳波は、確かに幸福の色をしていたそうだ。
……だが、俺にはどうしても許せねえことが一つある」
「……何ですか?」
「アロマだよ。
プルメリアの香りだ。
……金沢の凍てつく冬の空気を吸いながら、南国の花の夢を見させて殺す。
それが『救い』だって言うなら、俺はそんな救い、ドブ川に叩き込んでやる」
設楽の瞳に、刑事としての、いや、一人の男としての静かな怒りが灯った。
「飛鳥、一ノ瀬の潜伏先を叩き出すぞ。
彼女は今、自分自身もその『青い椅子』に座ろうとしている。
演算の終わりを、自分自身の死で完結させるつもりだ」
第三部:青い椅子からの帰還
1
金沢港、北端の工業地帯。
潮風に煽られた雪が横殴りに叩きつける中、廃屋となった冷凍倉庫が、巨大な墓標のように佇んでいた。
「……ここだ」
設楽は冷え切った手を口元に当て、白い息を吐いた。
飛鳥が持つ高感度センサーが、その建物の中から異常な電磁波と、超局所的な熱源を感知している。
重い鉄扉を抉るように開けると、内部は異様な光景に支配されていた。
かつて肉や魚を冷やしていた空間には、最新のサーバーラックが整然と並び、青いLEDが脈動するように点滅している。
その中心――加賀群青で塗り潰されたような空間に、一人の女性がいた。
一ノ瀬美月。
彼女は、被害者たちと同じ「見えない椅子」に座るポーズで、空中に背を預けていた。
瞳を覆うVRゴーグルには、激しく流れるコードの反射が映り込んでいる。
「一ノ瀬美月。金沢中をキャンバスにしたお前の『博覧会』も、これで終幕だ」
設楽の低い声が、静寂を切り裂いた。
「……遅かったわね、刑事さん」
一ノ瀬は動かない。
その声は、壁に設置されたスピーカーから、無機質な合成音声のように響いた。
「今、私は彼と『再会』しているの。
この完璧な群青の世界で。
あの日、雪の中で失われたはずの時間が、ここでは永遠に続いている」
「永遠、だと?」
設楽はゆっくりと歩み寄る。
「その永遠のために、三人の人間を凍りつかせたのか。
お前がやったのは救済じゃない。
ただの独りよがりな心中だ」
「違う!」
一ノ瀬の叫びに呼応するように、サーバーの冷却ファンが唸りを上げる。
「彼らは幸せだったわ!
死ぬ間際、彼らが吸い込んだのは凍てつく排気ガスじゃない、南国の花の香り。
彼らが見たのは、孤独な現実じゃない、愛する人との再会……。
私は、現実という名の残酷なバグを修正しただけよ!」
「設楽さん、危ない!」
飛鳥が叫ぶ。
「彼女、自分の心拍とシステムのシャットダウンを同期させています!
強制的にデバイスを外せば、彼女の心臓も止まる……。
これは、自分を人質にした『論理の盾』です!」
2
「飛鳥、手を出すな。
これは俺の仕事だ」
設楽は一ノ瀬の目の前、一メートル足らずの距離で立ち止まった。
「一ノ瀬。
お前のロジックは確かに完璧だったよ。
……足跡を消し、感覚を奪い、死を幸福に変換する。
だがな、お前が一つだけ無視した『現実の重み』がある」
「……何よ、それ」
「空腹だ」
設楽は、コートのポケットから一枚の脂染みた紙包みを取り出した。
「お前がVRで見せている『南国の花のアロマ』。
それは確かにいい匂いだろうよ。
だがな、その匂いで腹は膨らまない。
喉の渇きも癒えない」
「……そんな、下らないこと……」
「下らなくねえよ。
俺の妻、ひとみが死ぬ間際にな、
ガリガリに痩せ細った手で俺の袖を引いてこう言ったんだ。
『あんたの打つ不恰好なラーメン、最後にもう一杯食べたかったな』って。
……一ノ瀬。
死ぬ間際に人が思い出すのは、完璧な楽園の景色じゃない。
誰かと囲んだ不完全な食卓の匂いなんだよ。
泥臭くて、温かくて、
明日も生きなきゃならねえと思わせる、
あの不自由な感覚だ」
設楽は、一ノ瀬の震える指先に手を伸ばした。
「兼六園のカエルも、お前の演算に逆らって目を覚ました。
あいつは死にたくて起きたんじゃない。
春が来たと思って、生きようとして動いたんだ。
……一ノ瀬。
お前も本当は、気づいてるんだろ?
雪が、冷たすぎたんだよ」
一ノ瀬の頬を、涙が伝った。
VRゴーグルの隙間から溢れた雫が、群青の光を反射して床に落ちる。
「飛鳥、解析しろ。
一ノ瀬の最後のプログラムだ」
飛鳥が狂ったようにキーを叩く。
「……っ、設楽さん!
これ……彼女、一時間前から実行コマンドをループさせています。
心停止の信号を送る直前で、一秒ごとに『保留』を選択し続けている……。
彼女は、自分でプログラムを書き換えようとしていたんだ。
……自分自身を、現実に戻すために!」
「戻ってこい、一ノ瀬」
設楽の声は、いつになく優しかった。
「外は雪が解け始めてる。
泥まみれで、不細工な足跡だらけの道だ。
だが、そこにはラーメンの湯気もあれば、
鼻を突くタバコの臭いもある。
……あいつと一緒に歩きたかったのは、
そんな世界だったはずだろ」
一ノ瀬の手が、力なく設楽の手を握り返した。
次の瞬間、倉庫内の全ての青い光が消灯し、不気味な静寂が戻った。
一ノ瀬は、糸が切れた人形のように設楽の胸に崩れ落ちた。
結末:春の足跡
三月。
金沢の街を覆っていた厚い雪は、跡形もなく消え去っていた。
浅野川の大橋の上。
設楽は、新調したばかりのライターでタバコに火をつけた。
「一ノ瀬美月の公判、始まりましたね」
隣に立った飛鳥が、春の日差しに目を細めながら言った。
彼女の装いも、冬の鉄色から柔らかなベージュのトレンチコートに変わっている。
「彼女、拘置所での最初の食事、完食したそうです。
……メニューは、何の変哲もない醤油ラーメンだったとか」
「……そうか」
設楽は、灰を川風に流した。
「飛鳥。
お前の言った通り、ロジックは世界を救うのかもしれないな。
だが、最後に人を救うのは、ロジックが弾き出した『余白』の方なのかもな」
「……論理的には認められませんが、今回ばかりは反論を保留します」
飛鳥は少しだけ、本当に少しだけ微笑んだ。
「設楽さん。
あの屋台、『Hitomi』。
……今日こそ、連れて行ってください。
私、あのカエルの話を聞いてから、どうしても確かめたいんです。
……『現実の味』ってやつを」
「ああ。
だが、お前の口に合うかは保証しねえぞ。
……なんせ、不恰好なラーメンだからな」
二人は歩き出した。
コンクリートの上には、二人の、どこにでもある不揃いな足跡が並んでいる。
雪が解ければ、全てが露わになる。
犯した罪も、抱えた傷も、そして明日へ踏み出す、小さな一歩も。
その足跡は、どんな完璧な群青の静止画よりも、鮮やかに春の光を反射していた。
(完)
群青の静止画(フリーズ・フレーム) 不思議乃九 @chill_mana
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