最終話 息子
音は、思ったより大きくなかった。
父が母に刃を向けた瞬間、
世界が壊れる音がすると思っていた。
でも実際は、空気が少しだけ歪んだだけだった。
だから、息子は動けた。
父の目は、母を見ていなかった。
鏡の向こうの、何かを見ていた。
息子は知っていた。
父がずっと、何かと戦っていたことを。
仕事のこと。
金のこと。
母の変化に、気づいていたことも。
母が家にいない時間が増えた理由も、
父がそれを知っていたことも。
誰も、何も言わなかった。
だから、息子も言わなかった。
床に倒れる母を見ても、
涙は出なかった。
悲しいより先に、
「やっぱり、ここまで来たんだ」と思った。
父は、刃を握ったまま立ち尽くしている。
肩が小刻みに揺れている。
このままでは、父は完全に壊れる。
母を殺したという事実よりも、
“まだ続けようとしている”ことが、息子には怖かった。
救う方法は、ひとつしかなかった。
近くにあった置時計は、
時間を刻む役目を、もう果たしていなかった。
息子は、それを両手で持ち上げた。
重さが、現実だった。
一度、振り下ろす。
父は、何も言わなかった。
二度目で、
父はゆっくりと床に崩れた。
鏡の中には、
もう誰も映っていない。
ただ、割れたガラスと、
倒れた大人が二人。
息子は、しばらく動かなかった。
泣く理由が、見つからなかった。
その後のことは、よく覚えている。
警察。
救急車。
白い光。
刑事は、静かな声で尋ねた。
「なぜ、父親を殴った?」
息子は、少し考えた。
正確な言葉を探して。
そして、答えた。
「父を、救ったんです」
刑事は、眉をひそめた。
理解できない、という顔だった。
それでよかった。
父は、これ以上壊れなくて済んだ。
母も、これ以上逃げなくて済んだ。
息子だけが、
すべてを背負えばいい。
鏡に映る自分は、
何も言わなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
それでいい、と息子は思った。
家族は、もう映らない。
でも、時間だけは、
確かに前へ進んでいる。
置時計は壊れたまま、
二度と動かなかった。
それが、この家に残った
最後の、正確な沈黙だった。
───
供述書の年齢欄には、
迷いもなく、
五十三と書かれていた。
刑事は、最後にもう一度だけ確認した。
「君の年齢は」
「五十三です」
それで、すべてが終わった。
鬼が出るか、蛇が出るか 志に異議アリ @wktk0044
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます