ナリミヤ

出口漣

第1話 プロローグ

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 真っ暗な廊下に僕の心臓の音が鳴り響く。フロア中に僕の存在を知らせるみたいに。

 見つかることへの恐怖が暗がりを求め、手近な柱の陰によろよろとすべり込む。酸素はじゅうぶんにあるのに息苦しさに耐え切れず、その場にずるりとうずくまる。

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 全身が心臓になったみたいだ。耳を澄ませてもほかには何の音も聞こえない。体が熱い。空調は効いているはずなのに、額にも首筋にも冷たい汗が滴っている。手の感覚は鈍く、小さな光にかざして目をこらせば小刻みに震えているのがわかる。

 何より鼓動の音が大き過ぎて、ほかの音が聞こえない。戻っては来ないはずの警備員がそこまで来ていても、きっと足音に気づかないだろう。


 ――ダメだ、落ち着け。もし誰かが近づいて来たとしても、足音がすればちゃんと気付く。大丈夫だ。

 大きく息を吸い、ゆっくりと吐いて、立ち上がって歩き出せ。空気みたいに静かに。

 暗闇の中、赤いランプと緑のランプが、リノリウムの床に反射しながら行く手をボンヤリと照らす。あれは消火栓と非常口。我が家のように慣れた廊下を歩くには、この灯りでじゅうぶんだ。


 やがて、僕はその扉の前に立つ。プレートに〈制御室〉と書かれた扉。世界を守っている扉。とても大切なものなのに、管理のずさんなかわいそうな扉。


 扉の右手にはお粗末な入力装置が1つ。たかがパスワードとカードキーだけで簡単に開いてしまう。せめて指紋か網膜判定くらいすればいいのに。パスワードもカードキーも、僕には簡単に手に入ってしまうのに。


 何もかもが順調で、順調過ぎて、不意に怒りがこみあげてくる。なんで、なんで、なんでこんなに簡単なんだ!

 今夜のパスワードを叩き込み、カードキーを乱暴に投げつける。


 世界を守る扉は、予定どおり、開いた。


 明るい室内には誰もいない。さっきまでここにいた男は、交替が来なくても定時を過ぎればさっさと帰る奴だ。次の当直者が遅刻魔なのを知ってるし、制御室での仕事はめったに不調が出ない計器の見張りと報告だけ。そもそも不審者の侵入など想定されていないから、内部の危機管理はザルだ。ぬるま湯に浸かった連中は、誰かが内部から世界を壊そうとしてるなんて想像すらしないだろう。バカな奴。遅刻魔の交替要員は、今日は遅刻じゃない。欠勤だ。だって俺がそう仕組んだから。お粗末なセキュリティ装置とずさんな運用管理を何とも思わない、その平和ボケを後でたっぷり悔いるといい。


 気がつくと、さっきまでの動悸は嘘のように収まり、妙に落ち着いた気分になっていた。手の震えもない。もう怖くない。

 装置のマニュアルファイルはいつもの場所にあった。もう暗記してしまった内容だけど、最後にもう一度だけ目をとおし、元の場所に戻す。たくさんのモニターと計器は、装置が正常に稼働していることを示している。操作デバイスに向き合い、手順どおりの操作を進めながら、ふと、自分の醒めた感情を奇異に感じた。今、世界の命運はこの手の中なのに、高揚感などはまるでない。大した感慨もなくただ淡々と作業するだけ。実感が湧かないだけなのか、それともやっぱり狂っているのか。

 俺は装置を止めるための最後の手順を実行する。何の感慨もなく、自分のパソコンをシャットダウンするように、こともなげに一連の動作を行う。


 そしてその瞬間、館内を揺るがすほどのアラームが鳴り響いた。今頃はオンラインでつながった“関係各所”が仰天しているだろう。さっきまでの当直は今ごろ車の中だし、遅刻魔は家で酒でも食らってる。今さら慌てて誰かが対処したって、もう蘇生は不可能だ。彼女は死ぬ。


 そして、世界は終わり始めるんだ。

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ナリミヤ 出口漣 @wren_winter

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