ERROR:勇者はすでに削除されています

くらのほぐた

第1話

冷たい。


それが、最初に感じたことだった。


石の床が、頬に触れている。硬くて、冷たくて、どこか懐かしい。


僕は目を開けた。


視界に映ったのは、豪華な大広間だった。


高い天井。水晶のシャンデリア。壁には色褪せたタペストリーが掛かっている。かつては華やかだったのだろう。でも今は、どこか寂れた空気が漂っていた。


僕は体を起こした。


頭が重い。記憶が、曖昧だ。


自分の名前は……レン。レン・ヴァレンティス。


それだけは覚えている。でも、それ以外のことが思い出せない。どうしてここにいるのか。何をしていたのか。


窓の外を見た。


空は灰色だった。均一な、不自然なほど均一な灰色。太陽がどこにあるのか分からない。雲なのか、霧なのか、それすら判別できなかった。


「う……ん……」


声がした。


振り返ると、少女が床に倒れていた。


長い銀色の髪。白いローブ。三つ編みが床に広がっている。


彼女もゆっくりと目を覚ました。緑色の瞳が、不安げに揺れている。


「ここ、は……?」


少女は周囲を見回し、僕に気づいた。


「あなたは……誰、ですか……?」


「僕はレン。レン・ヴァレンティス。君は?」


「私は……アリア。アリア・セレスタインです」


アリアは震える声で答えた。


「ここ、どこなんでしょう……私、何も覚えてなくて……」


「僕も同じだよ」


僕は立ち上がり、アリアに手を差し伸べた。


「とりあえず、状況を確認しよう」


アリアは僕の手を取った。その手は、冷たく震えていた。


周囲を見回すと、他にも人影があった。


床に倒れている人々。全部で……七人。僕とアリアを含めて、七人だ。


「おい、起きろ」


低い声がした。


大柄な男が、すでに起き上がっていた。黒い重厚な鎧。角刈りの黒髪。鋭い目つき。


「状況が分からん。だが、のんびりしている場合じゃなさそうだ」


男は他の者たちを起こし始めた。


一人ずつ、目を覚ましていく。


金髪の少女。軽装の盗賊風。


「んー、どこ……? あれ、ここどこ?」


紺色のローブを着た少女。三角帽子を被っている。


「……ふむ。興味深い状況ですわね」


フードを深く被った人物。弓を背負っている。


「……」


無言で周囲を見回している。


そして、白髪の少年。黒いマントを羽織り、赤い瞳が不気味に光っている。


「……うるさい。まだ眠い」


全員が起き上がった。


七人。見知らぬ顔ばかり。でも、どこかで会ったことがあるような……いや、気のせいだろう。


「とりあえず、ここがどこか確認しよう」


大柄な男がそう言った瞬間だった。


「きゃああああ!」


アリアが悲鳴を上げた。


全員の視線が、玉座の方へ向いた。


そこには——


死体があった。


豪華な玉座の前に、一人の人間が倒れている。


白と金の鎧。金色の髪。長身の青年。


だが、首がなかった。


肩から上が、完全に消失している。まるで最初からなかったかのように、滑らかに途切れていた。


血は、出ていない。


「これは……」


大柄な男が、死体に近づいた。


「……勇者エクラだ」


その言葉に、僕の頭にノイズが走った。


エクラ。


その名前を聞いた瞬間、何かが脳裏をよぎった。金色の髪。優しい笑顔。そして——


痛みが走った。


左手首が、熱を持っている。見ると、そこには文字列が刻まれていた。


意味の分からない記号と数字の羅列。いつからあったのか、覚えていない。


「レンさん、大丈夫ですか?」


アリアが心配そうに僕を見ている。


「ああ……大丈夫」


僕は動揺を隠した。


何が起きている?なぜ、エクラという名前にこれほど反応してしまうんだ?


「勇者エクラ……」


金髪の少女が呟いた。


「勇者って、あの勇者?魔王を倒すために旅をしてた?」


「そうだ」


大柄な男が頷いた。


「俺たちは、勇者パーティのメンバーだった。……はずだ」


「はずって……覚えてないの?」


「断片的にしか思い出せん。だが、この鎧の紋章は間違いない。勇者エクラのものだ」


男は死体を見下ろした。


「それが、なぜ首のない死体になっている……」


沈黙が降りた。


誰もが、同じことを考えていた。


勇者が死んでいる。しかも、首がない。


これは、殺人だ。


「まず、自己紹介をしよう」


大柄な男が提案した。


「俺はガルド・アイゼンハルト。重戦士だ。防御が専門で、仲間を守ることが役目だった」


「私はアリア・セレスタインです。聖女で……回復魔法が使えます」


アリアは震えながら答えた。


「僕はシオン・クレスティア。盗賊だよ。罠の解除とか、鍵開けとか、そういうの」


金髪の少女が軽い口調で言った。


「メイ・アルカディアですわ。魔導師です。攻撃魔法を担当していましたの」


紺色のローブの少女が、無表情に答えた。


「……ノア。ノア・エンドフィールド。狩人」


フードの人物が、小さな声で言った。目を合わせようとしない。


「クロ・ネクロマンス」


白髪の少年が、抑揚のない声で言った。


「死霊使い。死体を操る」


全員の視線が、一斉にクロに向いた。


死霊使い。死体を操る。


「……何か言いたそうだな」


クロは無表情のまま言った。


「言っておくが、俺はエクラを殺していない」


「誰も疑ってないよ」


シオンがそう言ったが、その声には確信がなかった。


「レン・ヴァレンティス」


僕は自分の番だと気づいて、名乗った。


「……記録係だ。戦闘能力はない」


「記録係?」


ガルドが眉をひそめた。


「能力は?」


解析眼アナライズ。物や人の情報を読み取る……らしい」


「らしい?」


「よく覚えてないんだ。使い方も」


自分でも情けない答えだと思った。でも、本当に思い出せないのだから仕方ない。


「とにかく、状況を整理しよう」


ガルドが仕切った。


「勇者エクラが死んでいる。俺たちは記憶を失っている。そして——」


彼は周囲を見回した。


「ここは密室だ」


「密室?」


シオンが確認するように、大広間の出入り口に向かった。


重厚な扉に手をかける。だが、びくともしなかった。


「本当だ……開かない」


「窓は?」


ガルドの問いに、ノアが窓に近づいた。


「……開かない。外から封印されてる」


「つまり、俺たちはこの部屋に閉じ込められている」


ガルドの声は低かった。


「そして、この中で勇者が殺された」


「ちょっと待って」


シオンが声を上げた。


「それって……犯人は、この中の誰かってこと?」


誰も答えなかった。


答えられなかった。


だって、それが事実だから。


この密室の中に、七人の人間がいる。そして、勇者の死体が一つ。


犯人は、この中の誰かだ。


「……疑い合っても仕方ない」


ガルドが言った。


「まずは、この部屋の調査だ。出口を探す。そして、エクラの死因を調べる」


「死因を調べて、どうするの?」


シオンが尋ねた。


「犯人が分かるかもしれん」


「分かったら、どうするの?」


その問いに、ガルドは答えなかった。


僕は、もう一度エクラの死体を見た。


首のない体。血のない傷口。


おかしい。


首を切られたなら、血が出るはずだ。でも、この死体には血痕がない。


まるで、最初から首がなかったかのように——


いや、違う。


まるで、首が「消された」かのように。


僕の左手首が、また熱を持った。


何かが、頭の中でざわめいている。


ノイズ。デジタルグリッチのような、視覚の乱れ。


「レン?」


アリアの声が、遠くに聞こえた。


「レンさん、顔色が悪いですよ」


「……大丈夫」


僕は首を振った。


「少し、めまいがしただけだ」


嘘だった。


めまいなんかじゃない。


何かが、おかしい。この状況が。この世界が。


エクラの死体を見ていると、自分の姿が重なって見える。


まるで、鏡を見ているような——


「レン」


ガルドの声で、僕は我に返った。


「お前の能力で、この死体を調べられるか?」


「やってみる」


僕はエクラの死体に近づいた。


手を伸ばす。触れようとした瞬間——


左手首が、激しく熱を持った。


視界が歪む。ノイズが走る。


そして、僕は見た。


文字が、空中に浮かんでいる。


名前:エクラ・ルミナス

ステータス:削除済み

バージョン:7840

エラーコード:NULL_REFERENCE


削除済み。


その言葉が、頭の中で反響した。


削除。削除とは、何だ?


「レン!」


誰かが、僕の肩を掴んだ。視界が元に戻る。


ガルドだった。


「大丈夫か?倒れかけたぞ」


「……ああ。すまない」


僕は額の汗を拭った。


何が起きた?あの文字は、何だった?


削除済み。バージョン7840。エラーコード。


まるで……コンピュータのエラーメッセージのような。


「何か見えたか?」


ガルドが尋ねた。


「……よく分からない。でも、変な文字が見えた」


「変な文字?」


「削除済み、って。あと、バージョン7840とか……」


全員が、怪訝な顔をした。


「削除って、どういう意味?」


シオンが尋ねた。


「分からない」


僕は正直に答えた。


本当に、分からなかった。でも、何かが引っかかる。


この言葉は、重要な意味を持っている。そんな気がしてならなかった。


「とにかく、今は調査を進めよう」


ガルドが言った。


「レンは無理するな。休んでいろ」


「……ああ」


僕は頷いた。


でも、休んでなんかいられなかった。


この密室で、何かが起きている。


勇者は殺された。いや、「削除」された。


そして、犯人は——この中の誰かだ。


もしかしたら、僕自身かもしれない。


窓の外を見た。


灰色の空。不自然なほど均一な色。


まるで……作り物のような空だ。


何かがおかしい。


何かが、根本的におかしい。


でも、それが何なのか、僕にはまだ分からなかった。

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